楽園にて、安息を。
偽善者。僕は彼女をそう呼んだ。
だけれど本当は違うのを知っていて、だから余計に始末が悪い。偽善者ではなくてお人よし、の間違いだ。偽善の方が何百倍も役に立つ。ただのお人よしのお節介なんて、うるさいだけだ。
だから、長い髪が揺れるのを見つめながら僕はぼんやりと考えていた。
「勝てるはずなかったんだ。アンリを呼べなかった。その時点で決まってた」
「そうかもね」
あっさりと彼女―天使ヶ原さんは答えて、それから長い髪を指で掬うと、耳にかけた。遠くの音を聞こうとしているようにも思えた。
「何か聞こえる?」
「なにも」
馬鹿正直に答えた彼女に、僕は言葉を失っていた。
なにも。
何も聞こえない。
先ほどまであった爆音も、雷鳴も、怒号も、なにも。
ああ、ここは地獄だ。
音はすべて吸われ、力はそがれ、少しずつ思考は狂っていく。
ああ、イオナはこうして狂い、悔い改め、怒り狂った。
僕はそれを知っている。
そうだ、果てに彼が怒り狂ったように、僕は怒り狂っている。
負けたことじゃない。負けることは知っていた。
狂ってなんかいない。僕も彼女も狂うはずもない。
悔いてなんかいない。悔いるくらいなら初めから挑まない。
だけれど僕は怒りが抑えきれなかった。
なぜ、彼女なのか。なぜ、僕は彼女を道連れにしたのか。
「間違ってる、こんなの」
ごつごつした岩は、だけれどその僕の叫びを反響させることはなく、まるで柔らかい緩衝材のように音を吸い込んだ。聞こえない、なにも。なにも、聞こえない。
「君はここに来るべきじゃなかった」
「そうかもね」
「君は間違っている」
僕は天使ヶ原さんを糾弾した。まるで神を糾弾するイオナのように、狭隘で、浅慮に満ちた言葉で。
「でもさ、私が間違ってるなら左門くんも間違ってるよ」
ああそして、この女はまるでその話を知っているように、知りもしないくせに答えた。
「こんなの間違ってる。左門くんはここに来るべきじゃなかった」
そう糾弾するくせに、彼女は微笑んでいた。いつかよりもずっと成長して、そうして、いつかと全く変わらない顔に、彼女は笑みを乗せてたい。それがひどく、こわい。
「でも知ってた。君はきっとここに来るし、私はきっとついてきた。それがいつ、どんな形であっても」
「君にそんなこと分かるはずない」
「そうだね。でも知っていたんだよ」
可笑しそうに天使ヶ原さんは笑った。その笑みがひどく苦しい。
「ここが地獄なら、私も地獄に落ちるべきだった」
でもね、と彼女は続ける。
「それは君のためじゃない。ただ私は私のエゴを貫くために、左門くんが言う偽善を貫くために私は地獄に落ちたんだ」
やめてくれ、僕のためだと言ってくれ。自覚的である善も、自覚的である悪も、どちらも等しく獣だから、せめて僕のためだと言ってくれ。それが君を救う唯一の言葉なのだから。
「ここは私が選んだ地獄なんだよ。君と堕ちることを願って、選んで、やってきた地獄。これは私が選び取った罪」
ああ、彼女の言葉すら無機質な岩に吸い込まれていく。
なにも、なにも聞こえない。
「なにも聞こえないね」
彼女は僕の心を読んだように言った。何も聞こえない。
彼女の声以外、なにも。僕の声以外、なにも。
それはここが地獄だからだと知っていた。確かに堕ちたのだ。ここは、地獄だ。
「ここは地獄だ」
「そうだね」
「だからここは楽園だ」
エデン、と僕はつぶやいた。僕らは追放され、下界に落とされ、地獄に落ちて、そうしてまたこの楽園に戻ってきた。二人だけの、誰もいない、なにも聞こえない。まさに原初の楽園だ。だからそこはきっと地獄だったんだ。蛇にそそのかされなくたって、二人はいつか狂って楽園から出ていっただろう。
それは罪なんかじゃない。たった二人、世界の端に留め置かれて、たくさんの動物がいるのに、たくさんの植物があるのに、そこから出られない二人は、きっといつか逃げ出した。誰かがそそのかさなくても、きっと、いつか。
それはまるでイオナが神を避けたように。
それはまるで僕が彼女を恐れるように。
「悪魔のような女だ」
「そっくりそのまま左門くんに返すよ」
ふふと女は笑った。この地獄にいることが当たり前のように。
きっとこの地獄は当たり前になるのだろうと思った。
彼女がいてしまうから、僕にとってこの地獄は当たり前になってしまうのだろう。
日常のように、平穏のように、日々を過ごしてしまうのだろう。
「おそろしいひとだな、君は」
相変わらず、と続けたら、天使ヶ原さんは笑った。
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In paradise. Say a requiem.
楽園で、お別れ。
2020/03/11