「あなたはこれで満足?」

 ああ、満足だ。と答える前に、彼女は刑場に引き立てられた。


青銅の


「天使様、大天使様!」

 少女は畑に鍬を放り投げて、服に土がつくこともいとわずに、跪いて祈った。
 その姿を、共に畑を耕していた少女の父は驚いたように見つめる。なぜならば、少女の祈るそこに、彼は何人たりとも見出すことができなかったからだ。

「ああ、ジャンヌ=ダルク!君はこの国を救うんだ!そう父が望まれたのだよ!」
「ああ、大天使様、私は天の父と御子に選ばれたのですか?」
「その通りだ。君は剣を取り、この国を救い、正しい道を取り戻すために生まれたんだ!」

 少女、ジャンヌ=ダルクは喜びに打ち震えて涙を流し、祈りを捧げた。





「ねえ、天使様。私は御父の恩寵を受けているのかしら」

 問いに天使は答えた。

「神の恩寵を人間が認識することは?」
「出来ないわ。だからあなたに訊いたの。でも別にいいわ」

 天使は面白そうにも、面白くなさそうにも見える顔でその言葉を聞いていた。

「私が恩寵を受けていないなら、御父は私を無視していらっしゃるのでしょうし、私が恩寵を受けているのならきっと守っていてくださるのでしょうね」

 その言葉に天使が何を言おうか考えているその刹那に、彼女は言った。

「ああ、でも私は戒を破って言うわ。私は神の恩寵を受けている。だから分かるの」

 その凛とした声は、彼女が火刑を待つ石造りの牢に冷たく硬く響いた。

「あなたは天使様ではないわ」

 その先を言わないでくれとその「天使」は叫ぼうとした。叫べるはずもないのに、叫ぼうとしていた。叫ぶ必要などないと、知っていたのにと頭のどこかで冷えた思考が冷たく言った。

「あなたは悪魔。そうでしょう、敵意たる悪魔マステマ?」

 天使はその真実の名を言われて、全てを知っていた聖女に跪いて手を差し伸べた。

「気付いていたんだね、ジャンヌ!やはり君は聡明だ。さあ行こう!俺は天使ではないが君を天に昇らせるために天の御父からの任を預かった悪魔だ。さあ、御父と御子の膝下へ!」

 差し伸べた手を、しかし聖女は取らなかった。
 ザリザリと、彼女を刑場に引き立てる者どもの足音がその牢にも響いた。
 彼女は悪魔を見る代わりに石牢に唯一光を差し込ませる小さな窓の許に跪いて祈りを捧げた。

「御父よ、御子よ。大天使を名乗りしかの悪魔の罪をお許しください。あらゆる国と民のすべての咎を負い、わたくしはこれより永久の苦しみを受けましょう」

 天使の羽が生えた悪魔は、その姿をひどく無感動に、そうだというのにひどく傷つけられたような感覚で眺めていた。
 そこに終に、刑場へと彼女を引き立てる獄卒がやってきた。

 火刑。審判ののちに復活することのできぬ最上の刑罰。
 最上にして永久の苦しみを、彼女はしかし厭いもしなかった。


「あなたはこれで満足?」


 ああ、満足だ。と答える前に、彼女は刑場に引き立てられた。





 灰になったはずのジャンヌ=ダルクは、魂だけでその灰を宙に浮かんで見つめていた。
 その横にはマステマがいた。

「行きましょう、マステマ。御父が待っておられます」
「そうだね」
「あなたは私を天に昇らせる。感謝しています」
「そう」

 短い答えしか返せないマステマに、ジャンヌは笑った。

「行きましょう、私の大天使様」

 差し出された聖女の手を、マステマはのろのろと握った。そうすれば二人は静かに天に昇っていく。

 違う 俺は天使じゃない 俺は悪魔だから あなたのための悪魔だから
 違う 俺がいれば あなたは天に昇れるから あなたのための
 違う 満足なんかじゃない 天使なんかじゃない

 言葉は一つも音にならなかった。ジャンヌの手を握るマステマの喉はからからに渇いて、どんな音も紡ぎ出すことができなかった。

 天界はすぐそこだった。たどり着いた御父の許へと続くきざはしの下で、ジャンヌはマステマを振り返った。

「私は罪を犯しました。気付いていたのです。私の大天使様は悪魔であろうと疑ったのです。それはあなたを遣わした御父への疑いと同じことです。なんという大罪でしょう。ゆえに私は蛇となり、人々のために蛇は張り付けられ、燃やされたのです」

 彼女の言葉に、マステマは何も言うことができなかった。
 その聖女の目が、その声が、彼を強く射貫いていた。まるで怨嗟のごとく、侮蔑のごとく、そして、憐憫のごとく。
 そうしているうちに、彼女は不意に膝を折り、マステマに祈りを捧げた。
 まるで、あの農園で初めて彼女を見出した時のように。

「さようなら、悪魔マステマ…いいえ、私の大天使様」

 そう言って、彼女は立ち上がる。
 神のいる先へのきざはしを昇ることができるのは聖人だけだった。
 悪魔は、マステマは、そのきざはしを昇ることはない。
 聖女ジャンヌ=ダルクが天へと昇るのを見送って、マステマはずるずると壁にもたれて頽れた。

「俺は天使じゃない」

 呟いて、それから彼は最後に彼女が祈った意味を考えた。

「ああ、満足だ!君は燃え盛る蛇のように人々を救い、恐怖を乗り越え、試練を乗り越え、そうして天に昇った!満足だ!何一つ、過不足などないほどに、俺は満たされている!ただ一つを除いて!」

 手を大きく広げ、マステマは天へと向かってそう叫んだ。
 そうして続ける。

「ただ一つ、君が俺のために祈ったことだけが、俺は赦せない!」

 叫びは血涙とともに流れた。

「君が俺を赦さないように、俺は君を赦さない!」

 叫びは空虚に木魂した。彼は彼女が自身を決して赦さないことを知っていた。
 そして答えはどこからも返ってこなかった。
 天は、聖女は、沈黙していた。
 ぽたぽたと流れる血の涙は、聖痕から流れるそれに似ていた。
 だが似ているだけだ。彼は大天使ではない、選ばれた御子でもない。悪魔だ。

「ああ、次の聖人を、聖女を!」

 そう言いながらふらふらと悪魔は立ち上がる。その記憶からは、もうジャンヌ=ダルクという聖女との日々は消えていた。ただ、彼女の残り香だけがいつまでも残った。

「それが俺の役目、俺は人を試し天へと昇らせる者」

 マステマはそう言って、その高みから飛び降りた。





「天使様、もう…」
「ごめんね、俺、本当は悪魔なんだ。試練に耐えられないんじゃ地獄行き」





 天使様と呼ばれ、諦めた者の生気を失わせるたびに、いつも脳裏にちらつく姿がある。
 膝を折り、祈りを捧げる一人の乙女の姿。
 一人の悪魔のために祈りを捧げた、一人の聖女の姿。

「俺は君を赦さない」

 君が俺を赦してくれるまで、俺は君を赦せない。

 俺の名は敵意。
 俺の名はマステマ。

「俺は天使様なんかじゃないよ」




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2018/1/13

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