空言


 余は世界を創造した。
 余は悪でなくてはならなかった。

「人は弱いな」

 ああ、また失敗した。まただ。また人は!余の作った世界で怠惰を貪り、務めを怠り、信心を忘れた。
「だから余は貴様では駄目だと言ったのだ、今ならわかるだろう?」

 余の半身はしかし、深淵からの呼びかけに応えはしなかった。

「スプタン・マユよ、余の半身よ。世界には悪が必要なのだ。悪があり、恐怖があり、闇があり、病がある時に、その時に初めて人は真っ当に生きようとする。善だけで、喜びだけで、光だけでその心を治められるほど人とは強い生き物ではない!」

 悪がなければ人を裏切り、恐怖がなければ信仰を忘れ、闇がなければ驕り高ぶる、それが人。人はなんて弱い。

「余はもう一度世界を創り直す。何度でも!そのために余が悪とののしられようとも、これが世界を導くただ一つの方策だ!」

 叫びが深淵にこだまして、叫びは世界を一つ破壊して、それから一つ世界を生み出した。





「なに?戦争じゃと?面倒な。そーいう阿呆なことは人間のすることだろう」

 アンリ・マユは深淵の自室にて持ち掛けられた西洋の悪魔かなにかの戦争の申し出を一蹴した。面倒くさい、部屋から出るのが究極に面倒くさい。戦争したって別にいいと彼女は思っていた。だって、世界はそのまま進むだろう。彼女の生み出した悪が、恐怖が、闇が、人を導くだろうと願ったそれらは、今はもはや彼女の介在をなくしても軌道に乗りつつあった。だから彼女は原初の動機など忘れつつあった。
 永い永い時は、彼女から目的も動機も、理由さえも忘れさせようとしていた。
 いや、積極的に忘れることが自己防衛だったのかもしれない。
 自身の悪という理由を、忘れようとしていた。
 悪がなくても、いい気がしていた。
 でも、そう思うと自分の存在価値を失ってしまう気も、した。
 そうして、自分が存在価値を失うと、世界も存在価値を失ってしまう気が、した。
 だけれど、自分がいなくても自分が創った世界は回っていく気も、した。
 そういう瑣末なことどもを退けるように、玉座兼ベッドからアンリ・マユは起き上がる。
 究極に面倒だった感情は、今度は究極なる苛立ちに変換された。
 思い出させるな、自分の存在価値を考えるなどという、何千何万もの歳月の思考実験を思い出させるな。

「余一人で十分だ」

 誰も連れて行きたくなかった。
 だって、自分の作った世界に自分の居場所がない八つ当たりをする姿なんて、誰にも見せたくはないからと、彼女は小さく思いながら、ただ一人でその西洋の悪魔とやらを蹂躙しに部屋を出た。





「あんた最高だな」
「……」
 なんだろうこいつ頭おかしいのかな、とアンリ・マユは自分の前に膝をつく地獄の王とやらと周りに累々と重なる推定重傷の悪魔の山に思った。

「さすがは世に聞く悪の創造神ってか?」
「……口を閉ざせ。殺すぞ」
「はっ、今の言葉の何が気に障った?事実だろう?」

 膝をついて負けを認めたくせにずいぶん余裕だな、と思いながらアンリ・マユは静かにその悪魔を見下ろした。

「次はない。余を創造神と呼ぶのはやめることだな」
「なぜ?」
「余の創った世界に余が必要ないからだ」

 ああ、なぜこのような男に自分は自分の鬱積した感情を言ってしまったのだろうと思いながら、アンリ・マユはその地獄の王に背を向けようとした。そうしたら、引き留めるように声がかけられた。

「あんたはこの世界に必要だ。人は弱い。絶対的な力がなければ自らを統治できないほどに」

 言われて、アンリ・マユは身を強張らせた。 『人は弱いな』
『人は弱い。だから余が代わりに悪を務める』
『余が悪である限り、人は生きることができる。世界は矛盾せずに回転する』

 かすかな震えが立ち昇った。自らが、世界の創造に際して選んだ「悪」というすべての根元に、自ら蓋をして、自ら離れようとしていた自分を思い出してしまったからだった。
 それは恐怖からくる震えではない。それは嫌悪からくる震えではない。


 それは喜悦からくる震え。


 自らの存在を肯定する者が、自らを含めて永らくいなかった。
 だが、思い出してしまえば、自らがなぜ、人に、神にさえ疎まれるほどに悪に満ち、なぜ世界を創造し破壊しうるほどの強大な力を持つかを思い出してしまえば、その力あるゆえに彼女は自身の存在を肯定できる。

「貴様の名を聞いていなかった。名乗るがいい、今余はとても気分がいい」

 世界の王は艶然と笑った。

「ベルゼビュート、地獄の王」
「……覚えた。暇になったら会いに来るがいい、ベルゼビュートよ」

 今度こそ本当にやるべきことをやり終えて背を向けた彼女に、地獄の王は再び声を掛けた。

「あんたの名は」
「……余の?」
「創造神サマじゃあ怒るんだろ?呼び名がなけりゃ会いに行くにも困るだけだ」

 彼女は振り返った。優美な笑みが刷かれたその顔を、ベルゼビュートは生涯忘れえぬだろうと思った。

「アンリ・マユ。悪を選び世界を創造した者」





 その時、彼女は確かに自らの存在理由を思い出したはずだったのに。
 悪という理由、悪という力、それはすべて、世界のためにあるはずだったのに。
 誰かが肯定しなければ、もう何もいらないと思っていたはずだったのに。

「ハッ、肯定なら何でもいいのかよ」
 吐き捨てて、ベルゼビュートは酒杯を呷る。

「テメーは思い知るべきだ。世界にはテメーが必要なんだ、と」

 それは決して、ただ一人の、ただ一つの誰かに捧げて良いものではない、と。
 そうだろう、と彼は笑った。
 この世界はあなたを必要とする。
 この世界に生きるものはすべからく弱く、あなたの悪の前にひれ伏すことでしか生きられない。
 そのことを、あなたは知っていたはずだ。
 今のあなたは、そのことを、ほんの少し忘れているだけなのだから。
 あなたは、そのことを、ほんの少し思い出すだけでいいのだから。

「思い出せよ、そんなことくらい自分でよぉ」

 貴女の名を、私は知っている。

「アンリ・マユ、お前は悪を選び世界を創造したただひとりの神」




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やっちまった感。

2017/4/4