タナトス
或いはデストルドー
アンリ・マユは自身の心の内側にゆっくりと手を差し入れる。自身の?いや、それは世界の心の内側だ。彼女は世界そのものだった。だから世界の精神の内側を俯瞰して、彼女はその中の心らしきものにゆっくりと手を触れる。
その中で彼女がいつも最後に触れるのはつるりとした冷たい球体。球体だと、少なくともアンリ・マユは思っている。球体には最初と最後がない。どこが始点で、どこが終点か分からないその冷たく硬質な、傷ひとつない宝珠を彼女はゆっくりと撫でる。
「誰にも傷つけさせない」
その宝珠に触れながら、彼女はつぶやく。
だけれど、彼女は気が付いていなかった。その宝珠が少しずつ大きさを増し、少しずつひび割れていることに。
*
「始まりがいつだったかもう思い出せない」
ベルゼビュートを前にして、アンリ・マユははっきりとした声で言った。
左門召介と天使ヶ原桜が地獄に堕ちたのを見届けて、それからその足でアンリはベルゼビュートの許を訪れた。そしてそう言った。
「余は、自身の編み上げた世界の中生まれたとある宝珠を何よりも大切に、誰にも傷つけさせないようにゆっくりと愛でていた」
ベルゼビュートには、それがなんのことか分からない。分からないが、アンリの静かな声にじっと耳を傾けていた。
「それは生まれるべくして生まれた珠だった。余は悪を選び世界を創り出した神。それは死への欲動だった」
アンリ・マユという神の創り上げた世界の一つの終着点であり、始発点である、どこが始まりで終わりか分からない球体の正体は、死への欲動だった。それは喜びに満ちてはいない。それは善に満ちてはいない。そこにはただ破壊があり、そこにはただ空虚な死があった。
「死という概念が余にはなかった。だから余はその珠を殊更に大切にした。余は神だから、悪の終着点としての死への欲動という概念を世界が手に入れたことがこの上なく嬉しかった。人は争い、憎み合い、壊し、自ら気づかぬままに死へと突き進む。それが余の目指した世界だった」
「その珠はアンタの理想形だった」
そこに至ってそう彼女の言葉を補完するように言えば、アンリはふふと笑った。それは肯定だった。
「そうだ。余の中に…余の世界に生まれた死への欲動は悪がいずれ世界を満たすためのとても大切な宝珠だった」
過去形のそれにベルゼビュートは疑問を差し挟むでもなくその続きを待っていた。
「だが余は失敗した。望んではならないものを望んでしまった。その珠が壊れかけていることを知りながら看過した。それを貴様が気が付かせてくれた」
ベルゼビュートはなにか言葉を紡ごうと逡巡し、それからそれをやめて酒で喉を潤した。
「分かるだろう?それは世界の望みなどではなくなっていたのだ」
アンリ・マユという創世の神は、悪へと向かう世界を愛した。
ベルゼビュートという地獄の王は、アンリ・マユという悪の創造神を愛した。
アンリ・マユという女性は、人間を愛してはいけなかった。
「アンタは、死にたかったのか」
彼の簡明で単純な問いに、アンリもまた酒杯を傾ける。ゆっくりと喉を焼く液体を飲み下して、胃の腑がじんわりと温まるのを感じながら、アンリは一言応じた。
「ああ」
たった一言の肯定に、ベルゼビュートは己の無力を知る。
左門と天使ヶ原が地獄に堕ちた。
アンリの愛した二人の人間は、その生を失った。
だがそれすらも、彼女の死への欲動にはもはや然したる意味を持たぬのだと彼は知っていた。
「余はずっと待っていた。その宝珠は、触れるたびに冷たく硬質で、余を安堵させた。始まりも終わりもない混沌の黄昏。混沌の死、破壊、悪。世界の全てにそれが行き渡っていることをその珠に触れるたびに余は感じ、満たされた」
ゆっくりとアンリは言った。
「だが余はいつからか待っていた。その宝珠がヒトを、動物を、草木を、世界を終わらせるならば、誰かが、何かが、余を終わらせなければならないのではないかと思ったからだ」
「だが、そんなヤツは現れなかった」
「そうだ。余を已ませる時は世界が已む時だ。だから、幾星霜繰り返しても余は終われなかった」
一種の指向性としてのタナトス、とらしくもなく人間の使う理屈をベルゼビュートは心の中でつぶやいた。
「気が付いた時には、死への欲動は余の望みになっていた。だけれどそれは叶わないから、その珠は壊れてしまった」
「概念に向かう指向性としてのタナトスとシステムのエラー」
今度こそベルゼビュートが口に出してそう言えば、アンリは可笑しそうに笑った。
「ヒトは善悪というシステムや地獄と天国という動機づけがなければ生きられない。システムという言葉自体は最近のものだが、ヒトは死すら世界の無意識のうちに包括されたものだと知らないまま生きてきた」
そして、と彼女は続けた。
「その無意識たる余がデストルドーを獲得しようとしたのは確かにシステムエラーだ」
皮肉気な言葉に、ベルゼビュートはだけれど笑いもしなかった。ただ透徹した目で彼女を見た。その神を、彼は愛していた。
「俺はあなたとなら死んでもいい」
永い歳月の果てに、その宝珠が壊れたというのなら、世界が完成するのならば、私はあなたと死んでもいい。
深淵から掛けられた愛の言祝ぎに、アンリは艶然と笑った。
「ああ、お前ならばあるいは余を終わらせ得るかもしれないな」
死への欲動が無意識のエラーなのだとしたら、この男を愛し始めている自分は絶対的な悪のままではいられないような気がしたから、その愛を受け容れてしまうかもしれないとアンリ・マユは思っていた。
だけれどそれが本当に愛なのか、それとも単に一致した指向性の一部分なのか、その答えを二人は知らない。
誰が私を終わらせる?
その答えはここにはない。
=========
久々に書いた不毛な習作。
2018/09/16