余は夜を歩く者。
 余は夜を行く者。
 生み出した闇をまとい、生み出した夜を歩き、朝が来るまでに天空を一巡りする。


夜行譚


「まぶしい」

 天蓋の付いた大きなベッドで、シーツを巻き付けただけのアンリ・マユは、朝日の差し込むそのベッドの中にもう一人いる、まだ起きる気配の微塵もない男の髪を、その光にかざしてみた。
 男の、ベルゼビュートの髪は、その陽光にきらきらと光って、まぶしいと彼女は静かに言っていた。

「んあ…?」
「朝だぞ、ベルゼビュートよ」

 一夜を共にしたとは思えないほどにあっさりと、アンリは言って彼を揺り起こす。

「髪、なんかついてたか?」

 バサッと起き上がったベルゼビュートを、アンリはぼんやりと眺めていた。
 均整のとれた身体つきに、精悍な顔、そして何よりも金の髪。


「晴天に降る雨のような髪だな、バアルよ」
「古い名前で呼びやがる」

 舌打ちしてそう言ってから、ベルゼビュートはシャツに袖を通す。それからアンリに毛布を掛けた。

「寝るんだろ」
「ああ」

 ふあ、とあくびをした猫のようなアンリに、昨晩の情事を思い出し、その疲れで寝るというならかわいいものだとベルゼビュートは思う。しかし、それは違うということを彼は学んでいた。いや、本当はもっと―――

「余が起きていると、この地獄には夜が来てしまうのでな」
「別にいいんじゃねえの」

 適当に言ったベルゼビュートに、彼女はふふと笑う。

「朝がないと天使ヶ原が困るだろう。あれは地獄でも規則正しい生活を送りつつ、二度寝が好きだからな。あれがいないと召介が退屈する」

 そう言って、今度こそアンリは眠りに落ちた。





 闇を外套にして、月を灯にして、アンリ・マユは夜を歩いていた。
 自らの生み出した夜に、闇に、月に、裂け目がないかを確かめるために、彼女は毎晩、夜を歩いた。
 そうして何万年がたっただろうか。不意に後ろから感じた気配に、その闇をアンリ・マユは手刀で一閃した。
「またお前か、バアル」
「よっ、ババア」

 その彼女の一薙ぎを軽くかわしてけっこうな言葉を掛けてきた男に、アンリはため息をついて向き直る。

「神殿はどうした。夜は寝首を掻かれるぞ」
「あんたの夜行を見ている方が楽しいんでね」
「困った神もいたものだ」

 そう呆れたように言って、アンリはもう一度闇でできたその姿や輪郭を完全に夜と同じくする外套を羽織った。

「来るか」

 珍しく水を向けられて、バアルは驚いたようにその女神を見る。

「なんだよ、いつも通り帰れって言われるか殴られるかと思ったんだけどな」
「結構なことだ。そちらは天界と地獄で上手くやっていくつもりらしい」
「しかも世間話が目的かよ。熱でもあんのか」

 その言葉には応じず、代わりにアンリはわずかに微笑んだ。それは苦笑だった。
 西洋の神々は、神と悪魔という役割を割り振り、ヒトを統治することにした、とアンリは聞いていた。悪なるものと善なるものの闘争というゾロアスターはやはりそことは違うし、そのような公平な役割の割り振りなど望むべくもなかった。

「余は夜を行く者。闇を生む者。スプタン・マユにも、智慧ある神にも分からぬ」
「それはあんたも同じだろう」
「そうだな。朝は知らぬ、光は知らぬ。余の物ではないゆえ」

 そう言って歩くアンリの後ろをバアルも歩く。

「名は何とする。神の名のままでは角が立つだろう」
「悪魔、ベルゼビュート」

 間髪を入れず答えたバアルに、アンリは笑った。

「お前は優しいな。ヒトに捨て去られ、新たな神のために名を変えても、神から堕してヒトを救う悪魔であろうとする」
「そうでもねえよ」

 アンリは笑って振り返る。

「ああ、優しすぎて、余には分からぬ」

 アンリ・マユと『バアル』が共に夜を歩いたのは、この日が最後だった。





 昼過ぎのまどろみの中で、遅すぎるが昼食を食べないかと思い、ベルゼビュートは妻であり神であるアンリを揺さぶった。
 そうしたら、しどけない動作で、アンリはベルゼビュートの髪に触れた。

「バアルよ」
「なんだよ、今日はアンニュイか」

 朝と同じく古い名を呼ぶアンリの隣に座ったその男の髪を、アンリはさらさらと指ですくう。

「お前は、余の闇の中にあってさえ、夜の中にあってさえ、地獄の悪魔に堕してさえ、陽光のような男だった」
「今も?」
「もちろん」

 ふふと笑って、アンリはその髪を光に透かしてみる。きらきらと輝くそれに、彼女は自らの闇が、悪が、綻ぶ様をずっと幻視してきた。

「世界から夜がなくなっても、余は夜を創り出し歩くだろう」

 どうして、今日に限ってこんな感慨に耽っているのか、アンリにもベルゼビュートにも分からなかった。いや、分かっていた。分かりたくない、と、二人とも思っていた。

「我らはどこに行くのだろうな……少なくとも、ヒトがいる限り、スプタン・マユとの闘争は終わらぬと、この地獄に来て改めて思った」
「そうかい」
「だがな」

 短く言って、アンリはやっと起き上がった。
 その豊満な肢体を隠しもせずに彼女は彼の髪を撫でた。

「ここには朝があり、昼があり、そしてお前がいる」
「……」
「余の闇に割り込む光は、バアルの昔から、ベルゼビュートとなった今まで、お前しかいないのだ」

 多くの者がその夜を恐れ、闇を愛した。だけれど、それを破り綻ばせはしなかった。

「なぜだろうな。お前が陽光の中で雨を降らせる姿を余は忘れられぬ」
「そーかい」
「自分が闇夜を歩く姿はもう忘れたような気がするのに。それを引き裂く貴様だけは、忘れられぬ」

 笑って言ったアンリを、彼女が裸なのも構わずベルゼビュートは抱きしめた。

「あなたの闇は誰にも破れない」
「お前以外、な」
「だからあなたは敗れない」

 それにアンリは笑った。しかし、応えはしなかった。

「さて、午睡も飽きた。昼を食べるか」

 そう言ったのに、アンリは大きく伸びをすると、服ではなく暗黒の闇のドレスをつくり上げて身に着けた。
 その黒衣の女神の手を、ベルゼビュートという悪魔は恭しく取り、ベッドから立ち上がらせた。

「ああ、召介も天使ヶ原ももういないのだったな。いや。誰も彼も、いないのだったな」

 完全なる世界に、ヒトはいらなかった。
 唯一、スプタン・マユとアンリ・マユが一致したそこから、彼と彼女は智慧ある神が目指す世界を、選ぶ世界を、もう一度創り直す。

「何度繰り返しても、上手くいかぬものだ」

 そう言ってから、彼女はもう一度、ふふふと笑った。鈴を転がしたように笑って、言った。

「余の夜は、もうお前に破られているがな」

 そう言って、アンリ・マユはベッドから立ち上がり、ベルゼビュートの手をほどくと、世界に手を差し伸べた。

「もう一度、我が前に世界を」

 長き闘争は続き続ける。完全なる、瑕疵無き世界が生み出されるまで。
 完全なる暗黒か、完全なる潔白が生まれるまで。

 あと何度、彼女はこの苦しみの星霜を生きるのだろうと思惟して、ベルゼビュートは静かに目を伏せた。そうしてつぶやいた。

「あなたの夜行を、俺は何度でも破ろう」


 それで、あなたを幸せにし、安んじられる日を夢見ながら―――


 世界は、何度とも知れぬ悪に満たされた。




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ホラーですね(直球)
ゾロアスター最後の審判失敗後の二人。
左門くんと天使ヶ原さんどころか、世界にはヒトはひとりもいない状態ですね。
何回目かもう二人とも覚えてないんだけど、たぶんそのたびに左門くんやてっしーも生まれて同じ感じを繰り返すような気がします。タブンネ。

2018/1/22
BGM「リバーサイド・ラヴァーズ」「青薄」