ドンっと突き動かされるように空が鳴った。
莫迦
「今のは大きい!」
傍らの少女が、空を仰ぐ。大きな円を描いて、光の花は空の闇に融けた。
「観に行った方が良かったか?」
「えー、だって私受験生だし」
杏はそう言って、口を尖らせた。わがまま、というか何というか。完全に嫌味だ。隣の地区の花火大会に行きたいと母に言った結果、返ってきたのは「あなた、受験生でしょ?」というお小言だった。
それで結局、縁側に出て眺めているのを見つけたところだった。
「兄さん、今日講習だったんじゃないの?もう8月なのに高校ってスパルタよね」
そう言いながら、彼女はやっぱり空を見上げている。また一輪、花が咲いた。
空に咲く花火を観るのに熱中しているらしく、俺に一言講習のことを聞いたきり、杏はまた空に視線と神経を向けてしまい、俺の手元のバケツにも、ビニール袋にも気が付いていない。
「いいものをやろうか?」
「なに?」
そう言っても、彼女はどうでもいいという体でちらりとも視線を逸らさない。
「お前が今眺めているものをやろうか」
それに、何となく意地の悪い気持ちでそう言ったら、杏は初めてこちらを向いた。
「……へ?」
「花火。買ってきたぞ」
そう言って、水の入ったバケツを彼女の足元に、手元にスーパーのビニール袋を置いたら、杏は少しの間きょとんとしていたが、すぐにがさがさと袋を探る。
「ほんとに花火…!いいの?」
「これくらいならいいだろ」
「兄さん大好き!」
そう言って大げさに喜んだ妹に、俺は知らず微笑んでいた。それは苦笑のようでもあり、照れ笑いのようでもある気がする。
それに気がつかないように、花火花火と言って杏は包みを開ける。中に入っているのは、どこでも売っているような花火の詰め合わせだ。
お世辞にも高い花火ではなくて、それこそ隣の地区の花火大会に行った方がずっといいだろうに、杏は空に咲く花などもう見向きもしない。そのことが少し可笑しくて、そうして、杏らしいと思えば可愛くもあった。
真剣に選び出した一本を向けられたので、安全な範囲でライターを近づける。ジュッと導火線が焦げて、それから光が噴き出した。
花火がバチバチいうのと一緒に、はしゃぐように杏が笑う声がする。……もっと高いと思っていた。もっと高い笑い声。そうしてそれから、少しだけ低くなった妹のその声を、大人びたと言うべきか、それとも他の何かに言い換えるべきか、俺は少しだけ迷った。迷って、止めた。
「ねえ」
その合間に、やっぱりはしゃぐような声音で杏が声をかけてきた。三本目の花火に火を付けたところだった。
「兄さん、楽しい?」
はしゃいでいるのに、それはどうしたって大きな問だった。
―――はしゃいでいる?本当に?
問に関係ない些細な疑問は、夏の夜の熱気に煙が混じった、ぼやけた空気に霧散した。
「何が」
楽しい、と一言返せばいいのに、俺は『何』なんていう、ひどく曖昧な言葉を返した。それは過分に曖昧で、残酷な言葉のように思われた。
何が、か。
何が。どうして。誰が。何をして。何を。誰のために。誰が。何のために。
数多くの問が、俺と杏の間に流れた。楽しいか、という問は、どうしたって『花火が楽しい』という単純なことに帰結しなかった。
それはまるで、数年来の事共を問い掛けるのに似ていた。
友人がいたとして、後輩がいたとして、家族がいたとして、妹がいたとして……テニスがあったとして。
それらはもはや仮定にも近い。手の中からこぼれ落ちたいくつもの事共を、追いかけることを止めたのはいつのことだったか。それが正しかったのか、その可否を決めるのは、少なくとも自分ではない、という確信だけがあった。少なくとも自分で決定することの出来ない、自分の行い、というのは、ある意味で重大な責任を伴うような気もした。
「花火って嫌い」
「……どうして」
「儚すぎるもの」
『何が』という不確定な問の空白に答えた彼女のその言葉は、どこか八つ当たりめいていた。
「すぐ消えるじゃない。嫌い」
キライと杏は言った。一分も嫌いだと思えない声音で。
それから彼女は、消えてしまった花火の先をバケツに落とす。ジュッと音がして、わずかな煙が上がった。狭い庭には煙と火薬のにおいが充満していて、お世辞にも『儚げ』な風情は無かった。
「でも好き」
そう言って、杏は線香花火を取り出した。その放言は、わがままなのか、戯言なのか。だが、それはもうどちらでも良かった。
「だって儚いもの」
そう言って、杏はそれに火をつける。小さな火の球からちりちりと細かな炎がこぼれた。
「そうかもな」
―――訳の分からない肯定だった。儚げであることへの肯定なのか、好きだ嫌いだということへの肯定なのか、それとも、楽しいかという問いへの肯定なのか。よく分からないままに俺は肯定した。それは、もう口に馴染んだ言葉だったようにも思う。根本的な部分で、俺はいつも杏に肯定する。指摘して、否定して、教えて、だけれど最後に肯定するのはいつも俺だったような気がする。或いは、いつも俺を肯定するのは杏の方だったのかもしれない。
「馬鹿ね」
ぽたっと火の滴が地面に落ちるのとほとんど同時に、呟くように杏はいった。
「そうかもな」
「そう思うわ」
そう、やっぱり二人で肯定したら、杏はふふふと笑った。その声はちっとも高くなくて、大人びていて、そうして、遠く月日が過ぎ去ったことを鮮明にした気がした。杏の声なのに、杏ではない誰かの声の様な程に響いたそれが、物悲しくも、胸苦しくもあり、同時にどこか恐ろしい気もした。―――進めないのは、いつも自分の方ばかりだ、という、自身に対する恐れに、それは似ていた。似ていた、というより、それそのものなのだと思う。それ以外に、杏に恐怖する要素なんてない気がしたから。
「よく言うじゃない」
ブロック塀の向こうに、ざわめきが広がった。多分、花火大会が終わったんだ、とぼんやり思った。会場や、近くの川原から帰ってくる足音が、家々に戻る子供の声が、そのざわめきを大きくした。大きくしたけれど、それは少ししたらすぐに収まるだろうと思われた。目的を果たしてしまうと、どこもかしこも静かになってしまう。余韻が過ぎたら、静かすぎるほどに静かになるような気さえした。
『よく言うじゃない』、と言ったきりで、彼女は何がよく言われることなのか口にはしなかった。そうして、杏がもう一本細い線香花火に火を付けていたら、やはり喧騒はどんどん引いていった。
ちりちりと火の粉を散らす火球は、その引いていった喧騒と、やってきた静けさをひどくくっきりさせた。―――先程の、杏の笑い声のように。
静けさが満ちたら、遠くで蝉の鳴く声が聞こえた気がした。今晩も熱帯夜だから、今まで花火の音で聞こえていなかっただけでずっと鳴いていたのかもしれない。そう思ったけれど、本当は蝉なんて鳴いていなのではないかとも思った。
不確かなことばかりが、くっきりした物事の中で揺らいでいた。
「馬鹿ね」
もう一度、呟くように杏が言ったら、また、ぽたりと黄色とも赤ともつかない滴が地面に落ちた。
その滴が落ちたら、耳の奥に響いていた蝉の声も、ぴたりと已んだ。
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莫迦に付ける薬はないと、よく言うじゃない。
桔平兄さん誕生日おめでとうございます。1年がかりでした。すみません。
2013/8/15