12月31日、11時45分、鳴り出した携帯に手をかけると、ディスプレイには見知った名前が表示されていた。
Calling
「なんね、こんな夜中に?」
夜中に電話をかけてきたことへの苦言、というか、子供は寝る時間だ、と暗に諭そうという魂胆で、千歳が電話の向こうの相手に言った台詞は、少し拗ねた様な口調で切り返された。
「いいじゃない、今日は大晦日よ。紅白だってあるし、起きてたっていいの!」
電話の向こうの相手、杏は、しかし、そうそう気分を害した風も無く続けた。
「千歳さん、今熊本よね?」
「おう、さすがに年末年始くらいは帰らんといけん。」
杏から電話がかかってきた事に、満更でもない様子の千歳は、先程の苦言のことなど忘れてしまっている様に、明るい声で応じた。
「じゃあ、ミユキちゃんもいるんだ。」
「ああ、もちろんおる。一緒に紅白観とったんだが、途中で寝とった。初詣に行くんだ、とか言っとったが、まあ、まだまだ子供だけん。」
「千歳さんは、初詣行くの?」
「うーん、外は寒いけんね。考え中。」
「私も一緒。外、少しだけど雪降ってるし。お兄ちゃんとテニス部のみんなが一緒に行くのに誘われてるから、楽しそうだし、結局行くだろうけど。」
テニス部―
その一言にチリ、と胸の奥の方が疼く感覚を千歳は覚えた。桔平は、引退してなお不動峰テニス部の中心にいる。杏だってそうだ。不動峰のメンバーは皆一様に杏のことを仲間だと思っているし、不動峰のメンバーが負けるのを深刻な面持ちで見つめて、メンバーの前で花が咲いたように笑う杏のことも千歳は知っている。
何だか彼女の方ばかり時を進めてしまっている様な気がしたのが何となく胸の奥に引っかかる。
それが何なのか、脳裏を答が掠めたが、千歳はあえてそれを思考の下に沈み込ませた。
「千歳さん、寝てるかと思った。」
不毛な千歳の思考を余所に、杏は電話口で明るい声を出す。
「今日くらいは、な。」
頭を掻いて言うが、頭を掻いて、少し困っている様子が、電話の向こうの彼女に伝わっているのではないだろうか、という淡い期待が彼の中には広がる。
実際、杏は杏で、いつも寝られる時には寝ている千歳が、自分の問いかけに困っているだろうという事に気づいていて、何だか子供扱いされたことにささやかな仕返しが出来た様な気分になっていた。
空白が流れた。それは重い沈黙ではなく、お互いが繋がっていることに酔うような、濃密な沈黙で、電話口で頬が緩むのを杏も千歳も感じた。
「千歳さん、あの、ね…」
幾許かの沈黙の後で、腕の時計をちらちらと確認しながら、杏は今までとは打って変わって逡巡するような声を出した。
「なんね?突然夜中に電話かけてきたり、迷ったり、なんかおかしかよ、杏?」
千歳の言葉に、杏は焦ったようにパタパタと手を振った。無論それが彼に見えるはずもないが、焦っている、ということは伝わってきて、何となく千歳はからかってやりたいような気分になる。
「恋愛相談か?それとも男でもできたと?」
笑い含みに揶揄してみると、杏は怒ったように声を荒げた。
「そんなの、いない!いたって、千歳さんに相談なんかしないもん!」
「よかよか〜。若いうちはいっぱい恋ばしとかんと。」
杏の返答を全く無視して言う。だがそれが、自分で言っておきながら、棘のように千歳の胸に刺さって、赤い血が止め処なく流れる感覚に苛まれて、彼は深く後悔した。
彼女に男がいる、彼女が恋をしている―
それが自分にもたらす痛みに先程のように蓋をしようとしたが、それは叶わなかった。じくじくと血を流す胸の痛みに、思考は答に辿り着く。
溌剌で、手のかかる妹だと思ってきた。正確には、妹だと思おうとし続けてきた。その彼女を、愛しく思うようになったのは何時からだろう?それが如何に不毛か。そんなことは分かりきっている。彼女にとって千歳は桔平と同じで、桔平より手のかかる兄でしかないのだろう。
再び沈黙が流れた。今度はさっきとは違って、どちらからも言葉も甘い空気も流れない、重い空白。時刻は11時55分を回っていた。
「千歳、さん?」
「あ、ああ。何でもなかとよ?」
千歳は努めて明るい声を出したが、僅かな心の揺れを読み取ったように、杏は遠慮がちに声を出した。
「やっぱり、迷惑だった、かな。こんな夜中に…」
「そんなことなか!杏からの電話だったら何時でも大歓迎ばい!」
彼女に与えてしまった不安を払拭するように手を振るが、電話の向こうの杏にそれが伝わるはずもないという先程とは真逆の思考から、虚脱感に苛まれる。
小さく吐いた溜め息は伝えたいこととはやはり逆に、杏の耳に届いた。その意味を量りかねて杏もまた、伝わらないことへの小さな虚脱を覚えた。ふと壁にかけられた時計を見ると、カチリと音がして、長針が57分を示した。それを見て、杏は本題を思い出し、虚脱など忘れて、また焦りだした。
「ちっ、千歳さん?」
「どぎゃんしたとね、杏。やっぱり、なんか変…」
「あのね!」
彼の言葉を遮って、大きな声を出すと、時計の針が58分を指した。
「あの、ね…」
彼女の焦りは、千歳にも伝わったようで、携帯電話を握る指先を、彼は無意識にピンと張った。点けっぱなしのテレビから、今年の終わりと、来年の始まりを声高に叫ぶカウントダウンの声が聞こえ始める。
「千歳さん…」
カウントダウンの音が聞こえているのか、早口に言って、杏は一拍間を置いた。
10、9、8、7、
「誕生日、おめでとう、」
3、2、1、
「ハッピーニューイヤー!去年も、今年も、来年も…」
『おい、杏、年明けたぞ。早く来ないか。』
『ちょっ、お兄ちゃ…』
親友の声が彼女の声に混じってプツリと途絶えた通話。
「なん、ね…?」
通話時間の表示されるディスプレイをながめて、千歳は、杏が言いかけた言葉の続きを考える。
誕生日を祝う言葉と、新年を祝う言葉。それから―
「去年も、今年も、来年も…ね。期待してもよかと?」
きっとそれは都合のいい想像。でも、今日くらい、許されてもいいはずだ。
愛しの少女によって、誕生日と新年を与えられた、今日くらい。
Calling―通話時間、15分10秒。体感時間、測定不能
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誕生日と新年を一緒に祝いたくっていろいろ考えた結果こうなった杏ちゃん。まだお互いの気持ちが伝わっていない感じで。両片想いって大好物です。
2011/01/07