4月17日、誕生日。朝、朋香は親友の桜乃からプレゼントの可愛くラッピングされたハンカチを受け取った。嬉しくって、教室だというのに人目もはばからず抱きついたら、桜乃は赤面して「教室だよ」と小声で言ったが、朋香はそんなことは気にしない。そこが彼女の良いところでもある。

 新学年、新学期。朋香と桜乃は一緒のクラスになった。学校が始まって2週間。クラスには馴染んだが、『先輩』という肩書きや呼ばれるそれはまだこそばゆい。

「もう桜乃から祝ってもらえて嬉しい!」

 朝、朝食を食べている時に、両親からも小さい弟たちからもお祝いの言葉をもらったし、今日は母が早く帰って夕飯を作ると言っていた。父は「じゃあ俺はケーキを受け取ってくるよ」と笑顔で言っていたから、朝から嬉しくて仕方がなかったのだが、桜乃から祝ってもらい、プレゼントを受け取るのは、それとはまた別枠だ。

「朋ちゃん、放課後…部活終わってからだけど、どこか行かない?リョーマくんと3人でお祝いでも…あ!でも、お家で何かあるよね…」

 どうしよう…と悩みはじめた桜乃の肩を、抱きしめたままで朋香はぽんぽんと叩く。

「母さんがなんか作ってくれるらしいから…っていうかね!桜乃、今日はリョーマ様とデートでしょ!リョーマ様から聞き出してあるんだから!そんな野暮なこと私はしませーん」

 楽しんできなさいよ、と付け足されて、桜乃は様々な意味で顔を赤らめて俯く。これではどちらが気を遣う立場か分からない。リョーマと出かけるのだって、今日は朋香と一緒に行くことを見越して約束したのに、朋香の方が一枚上手だった。
 昨年の全国大会の後、リョーマのアメリカ行き、U-17合宿など様々あったが、桜乃とリョーマはリョーマの誕生日であるクリスマスイヴから付き合うこととなった。今や朋香はリョーマ様応援団どころか桜乃とリョーマの恋の応援団でもあるのである(こちらはずっと前からそうなのだが)。

「でも今日は弟たちのお迎えも父さんがしちゃうって言ってたから、ちょっとテニス部の練習観てく。桜乃は…部活か」
「うん」

 そのちょっと照れたような顔に、朋香の顔はさらに綻んだ。
 桜乃も、後輩にいろいろなことを教える立場となったのだ。
 それだけではない。「やるじゃん」と彼が言っているのを、桜乃はもちろん、朋香も知っているから嬉しい。

「よし!放課後まで今日も一日頑張ろ!」




シンデレラ指先




 放課後、朋香は桜乃に言った通り、フェンス越しに青学新生テニス部の練習風景を観に行った。
 「リョーマ様ー!」とか「桃ちゃん先輩ー!」とか「海堂新部長!」と声を出していると、気を利かせた桃城が、コートの方に入るよう手引してくれる。

「いいですよ、邪魔になるし」
「いいっていいって!応援ねえと、やる気も出ねえからな!」

 彼の言葉に逡巡していると、後ろから「やあ」と低い声がした。

「げっ!乾先輩!」
「『げ』とは失礼だな」
「乾先輩どうしたんですか?」

 朋香が振り返って問い掛けると、彼は眼鏡を押し上げて言った。

「高等部はまだ部活見学期間でね。まあテニスに入るのは決まっているから、一日くらいこちらに来てみた訳だ」
「それで俺らの練習指導スか?」

 桃城がわくわくしたように言う。乾と手合わせできるチャンスに楽しみを見出だしたようだ。根っからのテニス馬鹿だ、と朋香は思うが、この人たちのこういうところが好きなんだなあ…と再確認して、思わず笑顔になる。
 だが乾は、予想だにしない言葉を口にした。

「いや。小坂田さんに用事なんだよ」

 ぽかんとした二人に構わず、乾は朋香に視線でついて来るよう示すと、すたすたとテニスコートから離れていく。桃城と乾の背中を交互に見て、それから朋香は桃城に頭を下げると、乾の背中を追った。




 彼の歩いて行った先は、勝手知ったる中等部の中庭の日陰。部活の盛んなこの時間は、ここもがらんとしている。ベンチに腰を下ろして、開口一番乾は言った。

「誕生日おめでとう」
「えっ…!?えっと…ありがとう…ございます」

 突然のことに、朋香はあたふたするが、妹のような存在となったこの後輩が、乾は可愛くて仕方がない。それは朋香も一緒だ。落ち着いてくると、懐いていた先輩がわざわざ誕生日を祝ってくれたことに、じんわり胸が温かくなる。

「すみません、わざわざ」

 そう言うと、乾は「いや」と言って何やら紙袋を取り出した。

「手を出してくれないか」

 朋香は小首を傾げながら、それでも素直に手を出す。すると乾はまず右手を取って、紙袋から取り出した真紅のマニキュアを塗りはじめた。

「ちょ…ちょっと乾先輩!」
「誕生日プレゼントだ。動くと上手く塗れないだろう」

 そう言われて朋香はしぶしぶ抵抗を止める。こうなってしまった乾を止めるのは、かなり骨の折れる作業だ。だが、己の手を持つ乾の大きな手に、ここにはいない男の、テニスをする武骨な感触が重なって、彼女は赤くなる顔を見られまいと俯いた。


 乾は、思った以上に手先が器用なようだった。決して、マニキュアを塗るという作業に慣れている手つきではなかったが、指先は正確に紅く染まる。

「似合わなくないですか?」

 爪は、彼女の思考を余所に、みるみるうちに真っ赤に染まっていき、家事の手伝いで出来たささくれや、お世辞にも滑らかとは言えない肌の肌理に、それはなんだかちぐはぐな気がして、朋香はちょっと恥ずかしくなる。それだけではなく、真紅のネイルなんて、中学生に似合うものだろうか、と朋香は思わずにはいられない。

「似合うさ」

 だが、事もなげに言って、乾は最後に左手の小指に真紅の液体を塗った。春の風が、マニキュアのツンとした匂いを運ぶ。

「君はシンデレラの話を知っているかい?」
「知ってますけど…」
「じゃあ、シンデレラの肌が綺麗だったと思うか?手先が滑らかだったと思うか?」
「そりゃあ…」

 継母と姉たちに良いように使われていたのだ。彼女が絶世の美女だったとしても、全てがすべて美しかったはずはないだろう。

「いくら着飾っていても、性根というのはすぐバレるのさ。シンデレラの姉たちが王子に見初められなかったのが良い例だ。本当に美しいというのはそういうことじゃない」

 そう言って、彼は朋香の小さな指先を確認する。塗り残しもムラもない。ベースコートもトップコートもいらない速乾のマニキュアはもう乾きつつある。

「だから君には似合うのさ」

 ひたむきさや、健気さ。あるいは、めげない心。彼にしてみれば、朋香はシンデレラの要素を十分備えた少女だった。

「……乾先輩って案外ロマンチスト」

 指先に目をやって、それから言うと、乾は微笑んで、これまた紙袋から透明な液体の入った瓶を朋香に手渡した。

「なんですか?」
「シンデレラの魔法を解いてしまう道具さ」

 見れば、後ろ側の商品名に除光液とある。用意のいいことだ。

「明日も学校。少なくとも夜には落とさないと、こんなに目立つ色じゃあ生徒指導の先生に捕まる。だからこの魔法は今から今夜までしか効かない」
「なんですか、それ」

 さすがに可笑しくて、吹き出してしまう。だが、乾は至極真面目な顔で言った。

「王子様のところに行かなくていいのか?」
「リョーマ様は、今日は桜乃のとデートだもん」
「そうじゃない。君だけの王子様のところだよ」

 そう言うと、朋香の頬はみるみる赤くなる。それから、彼女は、綺麗な紅に染まった手でぱちんと自分の頬を挟んだ。

 ―この元気なシンデレラに足りないのは、きっと小さな魔法。それだけで、彼女には十分だ。

「乾先輩…」
「俺は案外なんでもお見通しだ」
「…お節介」
「なんとでも」

 涼やかに言われる。仕方がない。いつものことながら、この兄のような先輩には完敗だ。

「ありがとうございます」

 彼女はそう言って駆け出す。
 ちらりと、塗ってやった紅い指先が見えた。
 駆けて行く背中はどんどん遠ざかる。


 ―それでは王子の許に着く前に、ガラスの靴が脱げてしまいそうだ、と、魔法使いは微笑んだ。




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朋香誕生日おめでとう!

2012/04/17