土曜日

 なるべくシンプルな服装がいい。
 柳からの、駅の何口で、何時、というような細かな明日の予定と、「無理はしなくていい」と添えられたメールを確認してから、杏は自室でクローゼットとにらめっこしていた。
 なるべくシンプルな服装がいい。彼はその方が好みそうだ。それでも女の子らしく見えるように。よくよく考えたら、テニスをする以外で会うことなんて、デートと銘打たずとも初めてだった。おかしなことだ、と思わないでもない。
 書道展に、どんな恰好をして行けばいいのかなんて分からなくて、だけれど、まさか制服もないだろう。
 そう考えて、杏は、背伸びして買ったフレアスカートと、シンプルなカットソーに決めた。試しにそれを着て鏡の前に立ってみるが、あまりガーリーなところはない。だからそれは、学校の友達や、桜乃や朋香と会う時にする服装よりもずっと杏を大人びて見せた。背伸びをしたような気分になって、少しむず痒い。
 それらを、しわにならないように丁寧に畳んで、杏は鏡の前に置く。明日になれば彼と…

(デート、かあ…)

 嬉しくないはずはなくて、心は弾んだ。だがその一方で、兄たちの顔も過る。桜乃と朋香に背中を押されたのだから、もう大丈夫、と自分に言い聞かせながら相反する二つの心をなだめるように、杏はベッドに入った。




 翌日、土曜日。待ち合わせの時間に遅れないように、休日にしては早めに起きた杏だったが、兄は、もう練習(というか後輩の指導)に出向いていた。顔を洗って、兄作の朝食を食べ、それから自室に戻ると、昨日準備しておいた服に着替える。それから、準備し忘れていたPコートをクローゼットから取り出して、ちょっとだけ色の付くリップを塗って鏡を確認。そうして杏は部屋から出た。廊下で、自室のドアにもたれかかって少しだけ息を整える。嬉しさと、緊張と、不安。いろいろな思いが交錯する中で、杏はぱちんと頬を叩くと「しゃんとするの!」と自分に言い聞かせるように言って、階下へと下りた。
 靴はさすがにヒールなんて持っていなくて、ローファーに足を入れる。




 電車は、別に混んでなどいなかったが、杏は何となく扉の辺りに立っていた。ガラスに映った自分の姿はやはり、彼と会うどんな時とも違っていて、妙に彼女を浮足立たせた。


 立海の最寄り駅に来るのは、初めてのことだった。駅名は知っているし、大した距離でもない。だが、わざわざ来る機会などなかった。中学生なんて、多分そんなものだ。世界は広いようで狭い。案外、身近な場所と相手で世界は完結する。駅のホームで、柄にもなく杏はそんなことを考えた。その狭い世界から、飛び出してしまったような錯覚を、彼女は覚える。
 表示を見上げて改札の方向を確認した、その時だった。

「…っ!」
「ちゃんと来られたな」

 ポンっと肩にのせられた手。振り返ると、声の主と寸分違わぬ長身が微笑んでいた。

「柳さん!どうしたんですか!」
「さすがに、初めてくる駅の出口で待ち合わせようというのは配慮に欠ける気がしてな。迷いでもしたら困るから、ここで待っていた」

 そう言われて、杏は慌ててショルダーバッグから携帯を取り出す。マナーモードにしていた、というだけではなくて気がつかなかった彼からのメールには、確かに、ホームにいる旨が書いてあった。

「すみません、携帯、マナーモードにしちゃって!それに入場券も…!大丈夫だったのに!」

 何分着の電車、というようなことを折り返しメールしなかったのだ、彼は風の吹きこむホームでかなり待ったことになるのではないだろうか、と思って杏は焦ってしまう。

「いいんだ。俺が勝手にしたことだから」

 それに、と彼はいつもの調子で付け足した。

「何時着の電車、くらいは予想できるぞ。それからここはホームの中央階段だ。表示を見て改札を出ようとするなら、ここを通るのは確実だ」
「さすが…ですね」
「そうか?今日は来てくれて良かった。行こうか」

 柳は、「今日は来てくれて良かった」という一言を、上手い具合に会話の中に差し挟んだ。ある種の逃げだ。伝えたいその一言を上手く避けて、手を差し出す。

「え?」
「迷うぞ。ほら」

 躊躇う彼女の手を取って、彼は歩き出す。当の杏は、その手の温度に、当惑する。
 彼の手の温度に、緊張が、僅かに融解する。だが、それとはまた別の緊張がやってきたのは言うまでもない。ほっそりしていると思っていたのに、実際に握られると、彼の手はひどく無骨な印象を受けた。当然だろうか、テニスをしているのだから。
 知らないことが多すぎる、そう杏は思った。彼の体温も、好きなものも、いつもやっているはずの、テニスさえも。

「どうした?」

 改札を出ると風が吹いた。潮風だろうか。だが、海は見えない。
 「手…」と、杏は小さく呟く。多分柳には聞こえていなかっただろう。するりと、繋いだ手を彼女はすり抜ける。

「……?」
「立海って、確か海沿いにあるんですよね?」
「あ、ああ…」
「いいなあ」

 彼女はあからさまに話題を逸らす。あからさまに、だけれど自然に。

「あ、私、書道展なんて行ったことなくて。適当な服装で来ちゃったんですけど、大丈夫ですか?」
「……書道展と言っても、普通の展示と変わらないからな。気にする必要はなかったのに」
「メールすればよかったですね」

 振り返ってちょっと笑った杏の額に、柳は何となしに手をのせた。少しだけ、少しだけ、彼女の考えていることが分からない。緊張していて、不安もあって―思えば、考え付くのは後ろ向きな点ばかりだ。

「柳さん、今日ちょっと変」

 杏は額にのせられた手に触れて、困ったように笑った。杏にしてみれば、緊張しているし、不安だったけれど、それとは別の問題のように彼の体温を先ほどから感じている。
 実際、それは別の問題のはずだ。全く別の―そう思おうとして、杏は笑う。
 だけれど、頭の中身はぐちゃぐちゃだった。柳の体温を感じることが嬉しいのに、その体温を感じることがまるで重罪でも犯しているような気分になるし、今、兄たちがどんなメニューをこなしているのか、全く関係のないことが頭を過る。

「行きましょ?」

 それでも杏は、小さく笑って、今度は自分から手を取った。そうして今度は、柳がその熱に困惑する番だった。困惑して、そうして、彼女の考えていることを少しでも理解しようとする。そうしたら、答えはやっぱり無理をしているとか、兄たちのことを考えているとかそういうことばかりで、柳は何となく取られた手をすっと握り返す。―少しだけ杏が引こうとしたのが分かった。……一瞬の出来事だが、すぐに分かった。
 柳には、それが少しだけ寂しくもあり、同時にむず痒くもあった。彼女の中に、己の存在のあるべき場所があるのだと、ひどくはっきりと示された気がしたから。

(だったら、その場所を―)

 そうだとしたら、その場所を、守らなくてはならない。己のためだけではない。彼女のためにも。
 そう思って、彼は彼女の手を引いて歩き出す。その方向に、美術館はなかった。






「あれ…?ここ?」

 その場に着いて杏はふと周りを見回した。そこは、美術館やギャラリーのありそうな通りではなく、閑静な住宅街の中の公園だった。

「ん?」

 少しだけ笑って困惑した杏の方を見れば、彼女は案の定狼狽えたように周りを見回した。微笑む柳に対して、杏はやっとこの状況を理解したようだ。ここは美術館でもビルの中でもない、ただの公園だ。

「柳さん、書道展は?」
「やめにした」

 さらりと言ったら、彼女の困惑と狼狽はますます深まる。どうしたらいいのか、という顔をしている杏の頭に柳は手を置いて、それからベンチに座るように促した。

「柳さん、だって」

 そう言ったら、柳の細く、白く、長い指が彼女の口許に当てられて、それ以上の言葉を遮った。それから柳は微笑んだままで口を開く。

「無理をすることはないんだぞ」
「え…!」

 『無理』という言葉に杏は咄嗟に「そんなことない!」と言うことが出来なかった。この賢い彼氏は、もしかしたら全て見透かされているのだろうか、と思った。
 そう思ったら、泣き出しそうになってしまう。彼の手は、まだ杏の頭にのっていて、そこから伝わる熱が、余計に涙腺を刺激した。

「……ごめんなさい」

 耐えかねて、零れてくる涙を覚られまいと杏は俯いて、震える声で言った。
 桜乃や朋香に後押しされても、区切りをつけたつもりでも、やはり駄目だった自分が悔しいと思った。

「なんで謝るんだ」

 そう言って、柳は杏の髪を梳く。

「お前は何も悪いことなんてしていないだろう?」

 優しく言ったら、彼女の喉から小さな嗚咽が漏れた。

「だって…柳さん楽しくないと思うもの!それに、兄さんたちにも何も言ってなくて…柳さんが悪い訳じゃないけれど、私、どちらかを選ぶなんて出来ないから、そうやって柳さんに嫌な思いさせてるでしょう?」

 堰を切ったように泣きじゃくりながら言って、杏は柳のシャツの裾を握り締めた。のりのきいたシャツにしわが付く。それが余計に杏を惨めにさせたけれど、涙も、懺悔も、止まらなかった。

 その杏の頭を、柳は彼女に比べればずっとずっと広くて厚い胸板に押しつける。

「それはお前が悩むことじゃない」
「そんなことない!」
「大丈夫だ。俺が何とでもするから。だから、今日は好きなだけ泣いて、それで帰ろう」

 杏の頭の中はぐちゃぐちゃだった。どうしたらいいのか、彼に甘えるなんて許されるのか、どうしたらいいのか。ぐるぐると思考は空転しては停止して、結局杏は彼の胸板に顔を預けて、泣きやむまでそうしていた。なんて弱くなってしまったのだろう、と思いながら。
 それを覚った柳にとってみれば、芯を強く持って、そうして義理堅く、大事なものをたくさん持っている杏は少しも弱くなどない。そして、その『大事なもの』の中に自分が含まれていることがひどく嬉しかった。

「送ろう」

 目許をこする杏の手に己の手を重ねてそれから頬を伝った涙の跡を優しく拭う。杏は多分、まだ何一つ解決していないと思っているはずだ。だけれど、その場所を、守らなくてはならない、と柳はもう一度決意する。
 彼女は素直に従って繋がれたその熱を共有しながら来た道を戻り駅へと行く。

「家まで送ろうか?」

 そう言った彼に、杏は無理やり笑って見せた。

「こんな顔、見られたくないもの。大丈夫です。ちゃんと、泣いたりしないから」

 そう言って電車に乗り込んだ彼女に、柳は一つ息をついて、それから電車がホームから出たのを確認して携帯を取り出す。アドレス帳のタ行。『橘』から始まる名前は二つほど入っている。彼は、いつもは使うことのないアドレスを確認した。






 ひとりで電車に乗っていたら頬を伝った涙の跡も消えたし、赤くなっていた目も元に戻った。しゃんとする、と自分に何度も言い聞かせたのに、結局上手くはいかなくて、柳には気を遣わせてしまって、書道展には行けなくて。一つ一つがひどい有様の初デートとなってしまった。―これがデートと呼べるかどうかは別の問題として。

(何も…解決できなかった。柳さんとのことも、兄さんたちとのことも―)

 落胆に一つ息をつく。それから杏はぱちんと頬を叩いた。

「なんとか…しなくちゃ」

 前を向いて、好きだと言えるように。好きなものも、一緒に行きたい場所も、そして彼が全力で取り組むテニスのことも、何一つ知らないのだ、ということに、今日になって気が付いてしまったのだけれど。


 家の玄関に着いたら、丁度桔平も帰ってきたところらしく、玄関ではち合わせた。

「お、早かったな」

 桔平に言われて、杏は言葉に詰まる。その姿と視線に、柳とはまた違った、兄妹故の愛情を覚えて、今まで色々なタイミングで決意しては挫折してきた様々な感情が爆発しそうになった。

「杏?」

 そう問われたら、杏の目からは涙がこぼれそうになった。

「杏?大丈夫か?」

 心配そうに俯き加減になった顔を覗き込む兄に、杏は笑おうとした。

「何で、も…」

 何でもない、と言おうとして、杏は見事に失敗した。ぼろりと、あの潮風のする公園で止まったはずの涙がまたこぼれる。

「杏?おい…」


「ごめん…なさい…」


 謝罪はフレアスカートをぎゅっと握った彼女から囁くようにこぼれた。
 その謝罪の意味が分からなくて、桔平は僅かに困惑する。しかし、それがこのところの彼女を制約しているものなのだろうという予測はついて、桔平はあやすように頭を撫で、髪を梳く。


 その手の温度が、先程まで、潮風の中で頭を、髪を撫でていた彼のそれに重なって、ぽたりぽたりと雫が玄関の床に染みを作った。


ジュリエットの涙




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すすす、すみません!すごい日が開いてしましたがとりあえず土曜日です。文中の手を繋ぐことは杏誕企画より。

2012/9/1