楽園には私の憧れがいた。


エデン


 私の部屋の学習机に一番不似合いな‘調度品’は、香水のアトマイザーだった。それは、高等部に進学した今でも変わらなかった。
 大人になれば、もしかしてこの香水に何の違和感も抱かなくなるだろうか、と思ったけれど、高校生はまだ大人ではないかもしれない。大人ではないかもしれないし、大人だとしても、少なくともその香水は未だに私には不似合いで、不自然で、そうして、どうしたって眩しかった。
 そうしてその度に、この香水を、何の違和感もなく使いこなしていた遠い人のことを、思い出さずにはいられなかった。





 波打ち際に座って、ぬるい夜の海に足を浸す。素足を更々と波が撫でていった。

「嘘じゃない」

 言葉はひどく頼りなかった。その時私は中学一年生で、秋に来ていたのは沖縄だった。氷帝の跡部さんの一声で集められたちょっと遅いバカンスに私はなぜか桜乃と共に招待されていた。
 異国の様なそこで、楽しい気持ちの方が優るはずだったのに、私は夜の海でぼんやりしていた。

 嘘じゃない。
 恋をしていた。
 私にも、気が付いたら桜乃がリョーマ様を見詰める視線と同じ視線で見ていた人がいた。
 その気持ちは嘘じゃない。だけれど、それが叶うはずないこともどこかで知っていた。

「チビ助、夜遊びかぁ?」
「!」

 感傷に浸っていたら唐突に後ろから声を掛けられて、バサッとジャージが掛けられた。

「風邪引くさあ」
「平古場さん…」

 振り返ったら、そこにいたのは沖縄案内と称して招聘されていた比嘉中の平古場さんだった。ジャージからは男物の香水の匂いがした。

「ヤーがホテルにおらんておさげの子が心配してるさあ」

 桜乃に言われて連れ戻しに来たはずなのに、彼は私の隣に腰を下ろして私と同じように足を海に浸してしまった。
 肩から掛けられた彼のジャージは、いかに南国とはいえ夜風の冷たいことを私に思い出させた。

「夜の海、楽しいか?」

 楽しくないだろう、と言外に含ませた言葉を彼は言った。だから私は返答に困って、そうして全然違うことを言ってみた。

「平古場さんって、彼女います?」
「あー、そういうコト」

 私の問いに、平古場さんは本当に可笑しそうに笑いだしてしまった。そういうコトか、とか、そういうね、と繰り返しながら、彼はからからと笑っている。自分の一言を笑われているのというのに、だけれどそれはちっとも嫌な感じがしなかった。

「いるんですか?」

 笑う彼に重ねて訊いてみたら、笑ったまま彼は横に座った私を振り返る。

「ん?ヤーは遊びとか知らんろうから、ヤーのカウントする彼女はいねえ」

 私のカウントする彼女、という言葉が、ひどく遊びなれているはずなのに、やっぱり嫌じゃない。どうして嫌じゃないんだろう、とぼんやり思った。

「いっぱいいるの?」
「いっぱいはおらん。女にぶたれるの嫌いやっしー」

 夜の波が私たちの足を撫でる。嫌い、ということは、ぶたれたことがあるのだろうと思った。当然かもしれないけれど、この人はそういう時に黙ってぶたれるのだろうな、と思った。

「優しいのね」

 だから私は気が付いたらぽつりと呟いていた。変な言葉だった。女遊びをする時点で優しくなんかないのに。
 でも、もしぶたれてくれるなら、詰られたらそれを受け容れてくれるなら、その方が真っ当な気がした。

「マセてるチビ助」

 笑いながら彼は言った。だから私は、二つしか違わないわ、と言い返した。そうしたら彼はくしゃっと私の髪を撫でた。

「振られた系?叶わない系?」
「眼中にない系です」
「おお。でかく出たな」

 大きな彼の手が私の髪をかき混ぜると、肩が揺れて、ジャージから男物の香水の香りがした。海みたい、と私は思う。目の前に海があって、潮の香りもするのに、それよりもずっと透き通っていて、真っ青な海を思わせる匂いに思えた。
 ここに来てまだそんなに経っていないのに、ほとんど兄みたいに世話を焼く彼には、案外何でも言えるのかもしれない。同時に、そこが海で、夜だからだったのかもしれない。誰でもよかったのかもしれない、と思う時もある。でも、彼でなければならなかったのだ、と、私はそれからも感じることがある。

「話したこともないの」
「ふーん」

 脳裡を過った男の人のことを思ったけれど、私が接点を持つのはひどく難しいことのように思えた。

「まだ間に合うさあ。間に合う?ってか、話したこともない相手でここまで落ち込めるウブさがお子様」

 お子様、か。この海みたいな香りがどこか遠く感じるのも、私がお子様だからだろうか。

「諦めてもいいし、突っ込んでもいい」

 パシャっと水音を立てて、彼は立ち上がった。

「ま、ヤーは突っ込む方が似合いそうさ」

 帰るか、と彼は手を差し出した。私はそれにのろのろと立ち上がる。……ホテルには、話したこともないその人がいるのだと、妙にはっきり思った。

「ま、そのカジャの意味が分かるくらいになったらヤーもチュラカーギーになれるさあ」
「何それ、意味分からないです」

 私はそれに思わず笑ってしまった。沖縄の言葉なんて分からないもの。
 そうしたら、彼も笑って、そうしてそれから、私の肩に掛けられていたジャージのポケットから手のひらに収まるくらいのスプレー式の小瓶の様なものを取り出した。

「やる」

 差し出されたそれを、私は良く分からないまま受け取った。それが、海みたいだと思った香水の入ったアトマイザーだと気が付いたのは、その南国から私を載せた飛行機が飛び立った後だった。









「眩しいなあ」

 真夏の日差しみたいなその香水のアトマイザーを、私は部屋の窓から差し込む光にかざす。きらきら光ったそれを、ワンプッシュだけハンカチに付けてみた。その香りが、私の背中を押してくれることを祈るように。





「ごめん!待った?」

 駅の大きな時計の下に走り込んできた恋人に、私は手を振る。

「待ってません。今来たとこです」
「朋香ちゃんの今来たは信用できないからさ」
 もう、と言って私の手を引いたのは、中学生だった私が話したこともないのに憧れていた、幸村さんだった。
 きっかけは本当に単純だった。跡部さんの計画した沖縄旅行の帰りの飛行機で、たまたま隣り合わせてしまったのだ。席が、青学の端っこだった私は、図らずも立海の席の端っこだった幸村さんと隣り合わせてしまって、息を飲んだ。こんな偶然あるだろうか、と。この感情の始まりは憶えていない。だけれど、憧れて憧れた人が隣に居るのだ。
 私も幸村さんも、飛行機では眠れないタイプだったから、話をすることが出来た。話してみたら私の感情は余計に大きくなっていった。

『それ、なんて香水?』
『え?』
『アトマイザーに入れるくらい好きなやつなの?』

 香水瓶って重いもんね、と私のポーチの外ポケットに入っていたその小瓶を見て、幸村さんは言った。私はそれがアトマイザーだなんて知らなくて、香水といったって何の香水かなんて分かりもしなかった。

『もらいもの、ですかね?』
『ええ?憶えてないの?』

 面白いな、君。と幸村さんは笑った。
 それが、あの海のような香りの香水だと気が付いて、私はふと海辺の会話を思い出す。
 思い出して、気が付いたら当たって砕けろと突っ込んでいたあたり、多分私は海辺で彼が言った通りの女だったのだろう。









「あれ?朋香ちゃん香水付けてる?」

 ハンカチで汗を拭いたところで、幸村さんに言われて、私はハッとする。そうだった。このハンカチには、あの香水を付けてきたんだ。

「ユニセックス?男物みたいで珍しい香り」
「私のじゃないんです!」
「え?」

 私は気付いたらそう言っていた。これじゃあまるで浮気宣言だ、と思ったのだけれど、でも、言わずにはいられなかった。

「私のじゃないの。だけど」

 幸村さんの奇麗な目が、私を真っ直ぐ見詰めている。香水一つで必死になる私に、困惑もあるし、混乱もあるような気がしたけれど、でも、真っ直ぐ見詰めてくれるその視線に、愛しむそれを見つけることが出来るようになった私は、少しはこの香水のことが分かるだろうか、と思った。


「だけど、私と幸村さんを繋いでくれた香水なんです」


 一息に言ったら、幸村さんはきょとんと目を見開いてそれから可笑しそうに笑いだした。

「笑わないでください!」
「だって、君があんまり必死だから」

 可愛いな、と、幸村さんは言って、それから私の頬を撫でた。

「でも、その香りは君にはあんまり似合わない、かな」
「あ……」

 私は彼のその一言に、たくさんの感情が決壊していくのを感じた。濁流みたいな感情だった。


「ありがとう、ございます」


 似合わないと言ってくれて、と言ったら、幸村さんは全て分かっているように私を引き寄せた。


 楽園の憧れには追いつけないの。
 この香水が似合うようになる日なんて来ない。
 私が好きなのは、今私を抱きしめるこの人だから。
 私の背中を押してくれた憧れの人と同じ香りは、だったら私には似合わない。

「ありがとうございます」

 もう一度呟くよう言ったら、幸村さんは楽しそうに言った。

「君はほんとのチュラカーギーだね」
「え?」

 いつかどこかで聴いた言葉が、頭の中で木霊した。









「ヤーがあのチビ助!?」
「平古場、声が大きい!」

 ホテルの一角で平古場は頭を抱えたくなっていた。突然やってきて案内しろという跡部率いる一行、という時点で頭は抱えたくて仕方なかったが。
 何がどうして、神の子の恋愛相談などしているのだろう、と思っていたまではいいが、それが青学のおさげじゃない方の女子だと分かると、大声も出したくなるというものだ。

「恋愛のレの字も知らんようなやつやっし」
「だから困ってるんだよ!うかつに声も掛けられない!」

 引かれる!と言って頭を抱えた幸村に、平古場は自分こそ頭を抱えたいと思った。

「あのう」

 そこに遠慮がちに割って入ったのは、桜乃だった。

「すみません、平古場さん」
「ああ、なに?」
「朋ちゃん知りませんか?見当たらなくて…」

 朋香の名が出た瞬間に、びくりと肩を跳ね上げた幸村に呆れながらも、彼は桜乃に訊ねる。

「またかあ?」
「朋ちゃん、そんなに悩んでるのかな…」
「ヤーが心配することじゃないさあ。海見てくる」
「私も、」
「却下。もう夜だ。部屋にいろ」

 案外面倒見がいいからか、桜乃と朋香は平古場に懐いているらしかった。懐くなら甲斐辺りだろうと思っていたからか、幸村は人選ミスか、と部屋の方へと戻る桜乃を見詰めてからギリっと彼を睨んだ。

「今度は敵認定か。ああ、もう…!」

 そう言って、彼は指通りのいい自分の髪を掻き回す。

「小坂田、好きなヤツいる。誰か知らんけど」
「え、ちょ!本気で言ってる!?」
「夜な夜な部屋抜け出して悩むくらいには好きみてえだし、ってことは、このホテルに来てるメンバーの中にいるってっこったろうし、くらいしか言えることないさあ」

 その辺動かせるかはヤー次第、と彼は続けて、ロビーのソファに掛けてあったジャージを取る。その動きでジャージに付いていた男物の香水の香りがした。

「まあ当たって砕けろってよく言うし」
「砕けたら元も子もないだろ!」
「知 ら ん !」

 言い捨てて彼はホテルを出て夜の海へ向かう。
 迷惑料として、跡部に帰りの飛行機の、朋香と幸村の座席を隣同士にするよう言いつけてやろうと思いながら―――




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楽園にいた憧れの話

2014/2/20