この感情の始まりがどこだったのか、と思うことがよくある。
 どこから始まった感情だったのだろう、と。


縁結び


「精市、よく目で追っているな」

 ふと蓮二に掛けられた言葉に、座っている俺の後ろに立ってバインダーから目を上げた彼を見上げた。

「え?」
「青学の、小坂田さん」

 俺の疑問に簡潔に答えて、彼はついとそれまで俺が目で追っていた『青学の小坂田さん』を見た。指摘されて初めて気が付いたような気もしたが、確かにずっと彼女を見ていたのは違いないことだった。
 彼女はボールの入ったかごを運んで、コート脇と備品置き場をせわしなく往復している。
 初冬。全国大会も終わり、秋のU-17合宿も終わり、この時期は滅多に雪の降らない関東では2年生主体の新体制となった各校のテニス部が集まっての合同合宿が行われていた。各校の手の空いている3年生は指導と言う名の手伝いに駆り出されている。もっぱら、内部進学先があるのうちや青学、氷帝あたりの3年生で高等部への進学が決まっている者が多いのだけれど。

「変なこと言っていい?」
「は?」

 俺の言葉に今度は蓮二が短く応じる番だった。短いとはいえ、疑問符にあふれた声だったのだけれど。

「俺さ、小坂田さんのことが好きみたい」

 俺は、ほとんど日常会話と大差ない声音と速度で言った。絶句した蓮二の困惑が手に取るように分かる。

「……それは恋愛感情として?」

 辛うじて訊き返した蓮二に、だけれど俺の方も明確には答えられなくて苦笑するしかない。

「どうだろう。ラブとライクの狭間くらい?」
「そうか」

 彼はそれ以上何も言わずにまたバインダーに目を落とした。俺は相変わらず、その好きと恋愛感情の狭間のような感情で、ちらりと小坂田さんを見遣った。





 「リョーマ様!」という女子中学生らしい高い声が、羨ましかった。
 越前が、じゃなかった。それは、彼女の王子様である越前を羨む感情じゃなかった。
 純粋に、作り物じゃなく、なんの屈託もなく、誰かを好きでいる、誰かのために声を上げることが出来る、小坂田朋香という少女が、羨ましかった。
 自分が持っていないものを持っている羨ましさと、憧れと。
 よくよく考えれば、その感情の始点はそこだったのかもしれない。

「俺さあ、ブレない自信はあるんだよね」

 三月。春風にしてはまだ冷たい風の吹く屋上で、俺はパックジュースを啜りながらだらしなくフェンスにもたれ掛っていた。もうすぐ、俺たちはこの学び舎を卒業して、高校生になる。と言ったって内部進学だから大したことじゃないのだけれど。

「ほう」

 これまたパックジュース片手に購買のパンをかじる仁王が興味深げに返してきた。彼は屋上のざらりとした床に座っていた。

「なんて言うの、テニスとか、勉強とか、進路とか。ブレない自信ある」
「そうじゃろうのう」
「だけど、さ。羨ましかったんだよなあ。誰かをあんなにあっさり『好きだ』って表現できるってすごく素敵なことだと思う」

 蓮二が言ったからか知らないが、仁王はなぜか俺が小坂田さんに恋をしていることを知っていた。だからこの話題は別段聞かれて困ることじゃない。

「それを俺に向けて欲しいって訳じゃないんだ。ただ、そういう感情を持てる、表現できるっていうのが俺には経験がなくて。どうしようもなく愛おしいように思ってしまう」

 そんなにたくさん会ったことはないのに、俺の中の感情は日増しに大きくなっていた。

「しっかし因果インガ。小坂田に避けられとるからのう、幸村は」
「それ今言う?」

 仁王の言葉に俺は大きくため息をつく。そんなにたくさん会ったことはない。けれど、言葉を交わす機会は何度かあった。合同練習の手伝いやマネージャーをしてくれればねぎらいの言葉をかけたし、ボールはどこだろうとか、ドリンクが、とか何かと理由を付けて彼女と話そうとするのだけれど、小坂田さんはいつも必要なことを話すと目を泳がせて脱兎のごとく俺の前から去ってしまう。その光景を見て蓮二はあからさまにため息をついていたし、ここにいる仁王なんて堪え切れずに笑いまくっていたけれど。

「それでも仕方ないんだよ。だってさ、初めてなんだ。憧れて、愛おしいと思ったそういう純粋な感情を俺は彼女に初めて思って、彼女になら言いたい、表現したいって思っちゃってるんだから」

 羨望は憧れになった。憧れは恋情になった。恋情は愛おしさになった。そうしてそれは、俺自身が抱く初めての感情になった。

「青春ですね」
「仁王!」

 からかうように笑った彼に一言声を飛ばせば、そんなの意に介さない彼はせせら笑っていつの間にか折ったらしいノートを裂いた紙飛行機を俺に向かって飛ばした。

「青春しとる幸村クンにプレゼント」
「へ?」

 風に乗ってそれからそれはぽとんと俺の前に落ちた。
 開けてみろと視線で促されて、折りたたまれたそれを開く。

「え、ちょっと、これ!?」

 そこに書かれていたのは紛れもなく仁王の筆跡でアルファベットが続くメールアドレスと、それから「誕生日は4月17日」の文字。そうしてその最後に「小坂田朋香」と書いてある。
 これは小坂田さんのメールアドレスと誕生日ってこと?とキャパシティオーバー気味の脳に構わず、仁王は笑った。

「まー、そろそろ俺らは卒業と入学、小坂田は新学年だし、いいタイミングじゃろ。当たって砕けろ的な」
「……砕けたくない」

 辛うじて返した言葉に、仁王は笑った。ノートの切れ端に書かれたあとおよそ一ヶ月後の日付を、俺は必死に何度も見返した。





 『迷惑だったかな』というような文面を付け足して、アドレス登録してくださいと送ったメールには、即行で返信が来た。小坂田さんは俺のことを避けていたからすぐ返ってきたそれにはちょっと驚いたのだけれど、『全然迷惑じゃないです。ごめんなさい!小坂田朋香です』と書かれていたその返信の文面は、なんというか、俺が言うのもなんだけれどとてもとんちんかんな感じがして可笑しかった。なんだか小坂田さんも焦っているみたいだ。
 そんなことを思い返しながら、俺は全然慣れない雑貨屋さんに来ていた。周りはみんな女の子ばかりで、背が高い男の俺にはちょっと居場所がないようなそこで、だけれど負けじと辿り着いたのは店内のヘアアクセサリーのコーナーだ。

「うーん、分からないな」

 思わず小さくもらした声は本音だ。色とりどりのヘアゴムや、名前なんて知らないふわふわした布製の髪をまとめるもの、俺が知っている物から比べたらあまりの進化に驚かざるを得ないヘアピン。どれなら彼女は喜ぶんだろう、と思ったからだった。
 4月17日。俺も小坂田さんも新学期新学年、何でもないふうを装って「17日に青学に用事があるんだけど、忙しいよね?」とメールしたそれへの返信は「海堂先輩たちは見学期間で忙しいだろうから私が案内しますね」という見事に俺の狙い通りに「テニス部に用事」と勘違いしてくれたものだった。その頃には、ずいぶん打ち解けてメールを出来るようになっていた。というかだ。アドレスを登録し合ってから俺が恥ずかしがっているうちに、小坂田さんからずいぶんメールが届くようになったのだった。女の子はこういうものかな、と思ったけれど、それにしたって避けられていた時の印象とはちょっとかけ離れていた。だけどそれも全部嬉しい誤算だった。

「贈り物ですか?」

 上背のある男が来店するのは珍しいのだろう。そのうえあんまり悩んでいるようだからか、店員さんに声を掛けられる。

「えっと、誕生日プレゼントなんですけど」

 そう言ったら、その店員さんは「ラッピングも承っております」と言って離れてしまった。男が女性に宛てたプレゼントだと言ったからか、おススメの品なんて言わないみたいだ。こういうとろこに来る男は甲斐性を試されるものなのかもしれない。

「あ」

 そんなことを考えながらもう一度目を落としたその棚に俺は目を留めて、それからそれを手に取った。





「ごめんね」

 とりあえず謝ったら、小坂田さんは「いえ」と呟くように言って俯いた。隣に座る彼女の耳が赤い。俺がテニス部に用事と勘違いしていた彼女を、青学の敷地内から連れ出して近くの公園に来た。小学生はもう帰っている時間で、中学生はまだ学校にいる時間だからか、どこか閑散としたその夕方と言うには早いベンチに、二人で座る。
 『テニス部への用事はどうするんです?』と驚いたように言われたから『嘘なんだ』と言ったら、彼女は勘違いが恥ずかしかったのか、それとももっと違う何かなのか、顔を真っ赤にしてしまった。
 それから謝ったら、隣の彼女は耳まで真っ赤にしたまま俯いてしまう。

「変、ですよね」
「え?」
「私、何勘違いしてたんだろう」

 ぱしぱしと隣に見える頬を彼女の小さい手が叩く。

「あれ、こっちが勘違いなのかな」

 ぺたりと自分の頬に手を当てて、小坂田さんは俺には分からないことを呟いた。

「小坂田さん?」
「変、だよ、やっぱり。幸村さんとこんなふうに話すの、ほんとに久しぶりだし、一対一なんて初めてなのに、私に用事あるんじゃないかなんて、絶対勘違い」

 もう俺の存在が抜け落ちているように、彼女は自分自身に言い聞かせるように言った。その言葉はだけれどきちんと俺に聞こえていて、だから、期待してもいいだろうか、と思う。

「俺、小坂田さんに用事なんだけど」
「はいっ!?」

 そこでやっと俺の存在を思い出したようにバッと顔を上げた彼女の結われた髪が揺れる。ふんわりと柔らかそうなその髪に、俺が触れることは許されるんだろうか。

「私に用事ですか」
「うん。とても大事な用事」

 呆然という感じでこちらを見返す彼女の瞳に映る自分は、いつものような自信も、余裕もない気がした。だけれど代わりに、彼女の持つのと同じ純粋な感情が少しでもあればいい、と思う。

「驚くかもしれない」
「え?」

 この期に及んで、その言葉を先延ばしにしようとする俺にはやっぱり余裕なんてない。

「あの、さ」
「……はい」

 俺の緊張と真剣さを感じ取ったのか、ゆっくりと小坂田さんは俺を真っ直ぐ見て応えてくれた。

「俺、君のことが好きなんだ」
「へっ!?」

 はっきりと言ってしまうと、小坂田さんは素っ頓狂な声を上げて顔を真っ赤にしたあとぱしぱしとその真っ赤な頬を叩いた。





「あの、ですね」
「うん、ごめん。急にこんなこと言われても困るよね。でも俺、小坂田さんが越前を竜崎さんと一緒に本当に純粋な気持ちで応援しているの見ていた時からずっと憧れていたんだ。本当に、越前のことが好きで王子様なんだっていう感情をさ、隠さず、真っ直ぐに貫ける姿が眩しかった。それがいつの間にか恋に変わっていて、愛おしくなってしまって。今日のことのメールも、君が勘違いするんじゃないかって分かっていて、ちょっとだけ、嵌めた」
「あの…」
「ごめん、嫌な奴だよね。回りくどいし、小坂田さんは俺が中学の頃、俺のこと避けてたのに、こんなやり方」
「ちがくて!!!」
「!」

 一気に言ってしまったら、小坂田さんは俺がびっくりするくらい大きな声で叫んだ。俺は動きを止めて、うーとかあーとかうなりながら、さらに顔を赤くしていく小坂田さんを見つめていた。これは、どういう反応なんだろう、と思ったら、先ほど感じた期待がじわりと胸に広がった。

「私が、幸村さん避けてたのは、その…上手く話せる自信なくて、恥ずかしくて、それで、で。メールなら、面と向かってないから結構できて、アドレス教えてもらってから何回も送ったから、呆れられたかなって思ってたんです」
「えっと、それって…もしかして?」
「私も、ずっと幸村さんにあこがれてて、好きで、だから、さっき「好きなんだ」って言われたとき心臓止まるかと思った」

 そう言って、真っ赤な顔のまま俯いた彼女を、俺は思わず抱き締める。嬉しさの中に両思いなんだから許されるはずだ、なんてちょっと驕りめいた感情もにじませて。

「きゃっ!」
「ごめん、可愛過ぎ」
「ゆき、むら、さん……ほんとに、心臓止まっちゃう!」
「大丈夫だよ」

 ドクンドクンと早鐘を打つ小坂田さんの心臓の音が胸に直接伝わって、それすら心地好い。だけれど恥ずかしさでガチガチになっている彼女も何だか申し訳なくて、俺は抱き締めていた腕を外す。そうしたらホッとしたように小坂田さんは真っ赤な顔でこちらを見た。

「改めて、小坂田さん。好きです。付き合ってください」
「あの、私で良ければ、喜んで」

 お見合いみたいな定型句を互いに述べたら可笑しくって、緊張も、恥ずかしさも忘れて二人で笑い合った。そうして、それが上手く行ったから、俺はサブバッグを探る。

「幸村さん?」
「小坂田さん、ちょっと髪触っていい?」
「はい?」

 了承の言葉を得る前に、俺はバッグから取り出した包みを開いた。結局、一か八かの大勝負だったから値札だけ取ってもらってラッピングはしてもらわなかったそれは、リボンのモチーフが付いたシュシュだった。

「髪、ちょっと貸してね」

 そう言って俺は彼女の結われた髪をほどくとしゅるしゅるとそのシュシュで彼女の髪を片側まとめる。

「はい、そっちも」

 ツインテールにしている彼女に言えば、小坂田さんは素直に触らせてくれた。そちらも結い上げると、彼女は面映ゆそうに笑った。

「くれるんですか?」
「今日、小坂田さんの誕生日だから。おめでとう」
「すごい、幸村さん王子様みたい。付き合ったその日に誕生日プレゼントまでくれるなんて!」

 とても嬉しそうに笑った彼女に俺も嬉しくなる。そう言ってから、彼女はがさごそと通学カバンを探る。出てきたのはコンパクトだった。

「リボンだー!」
「気に入った?」
「はい!とっても可愛いです!」
「良かった」

 嬉しそうに、俺の贈った髪飾りを眺める彼女を見ながら、俺は幸せをかみしめていた。


 あのヘアアクセサリーコーナーでこれを見つけた時、ポップに書いてあったのは<リボンのモチーフは縁を結ぶ象徴!>という、俺が一番欲しいそれだった。




=========
朋香誕生日おめでとう!

2015/04/17