満たされていると感じる。
enough
地区の図書館に併設された喫茶店は、中学生にとって少しの贅沢だった。
伊武は真っ黒なコーヒーを一口飲んで、それから眼前でチョコレートケーキを切り分ける杏の手元を見た。
「どうしたの?」
口許にフォークを運びかけた杏が問えば、伊武は曖昧に笑う。
満たされていると感じた。
「なんでもないよ」
本当は、本当に満たされているか判らない状況なのに、充たされていると感じた。
***
11月3日、文化の日。今日の部活はどの部も軒並み休みだった。先日行われた学校の文化祭の合唱で、賞を取ったいくつかのクラスが、地区のホールののイベントで合唱を披露するからだった。
テニス部で言えば、神尾と森のクラスは優秀賞を取ったから今日はそちらに駆り出されている。
残りのメンバーで自主練をしても良かったが、これまた先日行われた新人戦―――橘の抜けた新体制のテニス部で、彼らは次の大会への切符を手にした。その次の大会の研究をするため、伊武は副部長の権限で今日の部活を休みにした。それで対戦成績などの資料を持ってやって来た図書館で、杏とばったり会ったのである。
「深司くんも今日休みだったの?」
「杏ちゃん…?」
後ろから声を掛けられて驚いて振り向いたら、そこにいたのは杏だった。
「女テニも休みなんだ。でも偶然だね!」
こんなとこで会うなんて、と続けた杏は10枚ほどのDVDを持っていた。
「……それ、なに?勉強道具ってことはないよなあ」
直截に聞くことは、相手を苛立たせることもあるが、杏はそういった事を気にしない。付き合いが長いからか、杏自身がカラッとしているからか。どちらにせよ、伊武にとって杏は一緒に居て心地好い相手だった。
「あ、これね!男テニの次の大会用に兄さんが偵察で撮ったやつ。私じゃちょっと頼りないかもしれないけど、兄さんも忙しいから分析するとこだよ。あっちの視聴覚コーナーで。上手くいったら届けるから」
笑顔で言った杏に、伊武はハッとする。橘はまだ自分たちを気にかけていてくれるのだ、と。そして杏には相変わらずマネージャーの様な真似をさせてしまっていた、と。
「杏ちゃん、俺がやるからいいよ。マネージャーみたいにやってもらうのは悪い」
「え?いいよ、別に。それに深司くんもやることあるんでしょ?」
と言って、杏は伊武の手元の紙束を指差す。そうしたら伊武は、ああ、これ?と応じた。
「杏ちゃんと一緒で次の研究しようと思って」
「そんなとこまで一緒なの!びっくりしちゃった!じゃ、一緒にやろうよ」
そういう訳で、伊武と杏は二人で次の大会の研究をすることになった。
***
「一段落だね」
「うん。深司くん、洞察力が高い。兄さんが言うだけあるなあ」
「杏ちゃんこそ、的確だよ。橘さんのプレー観てきたからだね」
「兄さんだけじゃなくて深司くんたちのもね!」
そんなことを言いながら、分析結果をまとめたノートと調べ尽くしたデータを手に、図書室のブースから出たところで、杏が言った。
「コーヒー飲んでかない?」
彼女が視線で示した先は併設された喫茶店だ。ハンバーガーショップやファミレスより飲み物や軽食の単価は高いそこ。
「深司くんも私も頑張ったご褒美にプチ贅沢!」
「はいはい」
伊武は笑って、どんどん喫茶店に向かっていく杏を追いかけた。
***
伊武が頼んだのは、本日のブレンドコーヒー、杏が頼んだのはホットのカフェオレとチョコレートケーキだった。人は少なかった。昼時でもない限り、祝日の夕方にこの喫茶店に来る人間は少ないのかもしれない、と思いながら、伊武はふと大きな窓に目を向けた。秋。もう十一月だ。あとひと月で今年も終わる。
「文化人はここで深司くんみたいに優雅にブラックコーヒーを飲むワケですね」
「なにそれ」
突然掛けられた声に意識を浮上させて、それから視線を向けた杏の作ったような深刻な顔と腕組みに、伊武は吹き出してしまう。
「深司くん、やっぱり笑ってる方が私は好きだな。真剣な顔も魅力だけどさ」
カフェオレを一口飲んで、微笑った杏に、伊武は一瞬言葉を失う。
笑うことすら出来なかった日々。
それを救ったのは橘だった。
だけれどある側面で、杏は、伊武を、或いは橘を含めたテニス部を許容し、その傍でなら笑っていられる相手だった。
伊武にとって、恋情と友情の間ほどの宙ぶらりんの感覚が、彼女との心地好い空間にはいつもある。
だから、その宙ぶらりんの感覚を抱えて、ケーキを口に運ぶ前に、どうしたのかと聞く杏に、伊武は何でもないと曖昧に笑ったのだ。
そうして杏の頬ばったケーキは、とても甘そうで、そうして、ずいぶん綺麗な色をしているな、なんて彼は思った。プチ贅沢。先程、この喫茶店に入る前に最近流行りの言葉を口にした彼女に、知らず口角が上がる。曖昧な笑みとそれがなんだがぐしゃりと混ざった。
全てが上手くいく訳ではない日々。
神尾と彼に、不動峰の今後を託された重み。
「全部判ろうなんて」
静かに伊武は呟いた。橘が創り、考えたテニス部の、或いは新しく進んでいくしかないテニス部の、全部を。全部を汲んで、それで?
その先の答えが、どうしても思いつかなくて、そうして、どうしても思いつけない自分に、彼は安堵とも不安ともつかない感情を知る。
追いつけないから安堵する。思いつかないから安堵する。
追いつけないから不安に思う。思いつかないから不安に思う。
自分自身にそこまでの才能がないことに、安堵し、不安に思う。その先に行けない自分に、だけれど確実に安堵しているのだ。
「浅はかだよな、って」
「そうかな」
独り言のようなそれに、眼前の杏が応じたから、伊武はやっぱり小さく笑んだ。
少なくとも彼女は、こうして曖昧に笑うことを許してくれる。恋情と友情の狭間のような、温い感情。微温湯の様な感情と感覚に、どうしてか、満たされる。
「解ろうと努力しないと、なにもかも失くなっちゃうかもよ」
チョコレートケーキを一口大に切り分けて、杏は伊武の口許に差し出した。
「ケーキの味もね」
失くなってからじゃ遅いんだよと彼女は笑った。
多分、自分も彼女に笑うことを許しているのだろう、と彼は思った。友人から一歩だけ進んだようにも見える、温い関係。どうしてか、充たされる関係。
彼は、差し出されたケーキにふと思う。
「満たされてるなあ」
なにもかも失くなってしまうかも知れないというのに。
それなのに、ひどく満たされている。
充たされている。
その空虚な空間を、埋めていくように。
「充分だったりするワケ」
君がそこにいるなら。
そう、示すように、彼は差し出されたフォークの先のケーキを頂戴した。
「けっこう甘いでしょ」
「けっこう幸せだね」
二人は顔を見合わせて笑った。
恋情と友情の狭間に、なんと名前を付けようか。
充たされた空間に、なんと名前を付けようか。
大きな窓から差し込んだ夕暮れの陽射しが、二人とその感情をくっきりと浮かび上がらせる。そういえば、と彼はふと思う。そういえば、今日は誕生日だったな、なんて。誕生日のケーキはチョコレート。甘くて甘くて、少しだけ苦い。
彼は可笑しな気分になって、そのチョコレートケーキの味を誤魔化す様に、ブラックのコーヒーを啜った。苦い、だけれど平凡な味。
平凡な誕生日。平凡だけれど、君と偶然過ごした誕生日。
「とりあえず幸せなんだよ、多分」
何でもない、だけれどひどく充たされた今日が、なるべくなら長く続くようにと願いながら―――
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深司誕生日おめでとう。
2013/11/3