V壊死
―兄?
彼の言葉が妙に引っ掛かる。兄?
そう、確かに、始まりは彼女の我儘だった。バレンタインにチョコを渡して、彼女は精一杯の告白をした。その姿はひどく愛らしく、守るべき大事な存在だと思った。無碍にできる訳もなく「そんなら、付き合うか」と、俺は笑顔で彼女に言った。
付き合うか、と言った時の彼女の花の綻ぶような笑顔、笑顔、エガオ、えがお。
この笑顔は、己にのみ向けられるものだと確信した。桔平にも、ミユキにも、そして、兄だった「俺」にも、この笑顔を彼女が向けることは絶対にない。そう、確信した。
その時には、いろいろなことが壊れ始めていたのだと思う。
知っていた。彼女は、俺の言葉に逆らえない。ただ、好きな男がそう言うから従うのではない。彼女にとって、俺は間違いなく「兄」だった。それは、桔平に、危ないから川に近づくなと言われるのと同じような拘束力を持っている。
狡いものだ。彼女は多分気がついていない。杏にとって、俺は一人の男として映っていたのに、その根幹に根差した感情に、俺は揺さぶりを掛ける。男ではなくて、兄として。或いは、兄ではなくて、男として。どちらがどちらか分からないようなそこに、付け込んだ。
好きな男に「ダメだ」と言われ、大事な兄に「いけない」と言われれば、素直な彼女が、どうにもできなくなるのを、俺はどこかで分かっていて、どこかで期待していた。
だから、今日の夕方に彼女を見た時に、真っ先に覚えた感情は、焦りに似ていた。だが、その思考はすぐに撤回される。人波に紛れてしまいそうになって、はぐれかけた彼女の手を、隣にいた男が取ろうとした時、彼女は明らかな意思でもってそれを避けた。
するりと。見事なほどあっさりと。何でもないことのように再び隣に戻って、男に何事か話し掛けているのを見て、俺は確信した。あの言葉は、まだ有効なのだ、と。
『千歳?』
「俺が、杏の兄貴だったことなん、一度もなかよ」
兄として振る舞いながら、俺は、あの時から彼女の兄を辞めた。あの時から、一度も俺が杏の兄だったことなどない。
兄という立場を利用したことはいくらでもある。彼氏に言われることよりも、兄に言われることの方が言うことを聞きそうだと思えば、いくらでも兄として振る舞った。彼氏としての愛情ではなく、兄から受ける愛情を彼女が欲しがれば、躊躇いなく渡した。それらが全て、作り事だとしても。作り事だなどと、彼女が気がつかないように、周到に。それは、好きな相手が兄になり、兄が好きな相手になるという、その微妙なラインで彼女を縛り付けた。
「俺は、杏と別れたんかね?」
『は…?』
「別れよう、なんち、一言も言っとらんうちに、引っ越しよったけん、別れ話なんぞしとらん」
『どういう、意味だ』
「そのまんまの意味」
桔平の、困惑というか、焦りというかは、手に取るように分かる。何せ俺は、彼女の兄をしていた時も確かにあるのだから。
杏と別れてからは、案外忙しく、元来のように彼女を作ったりすることはなくなった。だが、付かず離れずの相手が全くいなかった訳ではなく、そう考えても、俺はかなり酷い男だ。彼女を束縛するくせに、自分はのびのびと遊びほうける。
『もう、やめとかんね。杏もそこまで子供やなか。お前のことも分かっとる』
言い募る彼に、俺は乾いた笑みをもらした。
「俺以外を」
『なんだ?』
「俺以外を、好きになったらいけんよ」
『…は…?』
「別れ話の代わりに言ったこつ」
『お前…何を…?』
「ああ、ねむ。ほんじゃあな」
適当なことを言って、ぷつりと通話を途切れさせる。彼から電話が掛かってくるかもしれないという可能性も少なからずあったが、俺は、そのまま携帯の電源を切って、机の上に放った。
「眠い、眠い」
どうでもいいことのように呟いて、横になる。
羽を手折った美しい羽の鳥が、未だ動けずに、小さな籠の中に収まっているのを想像しながら。
「知っとるよ。羽なんぞ折ったら、死んでしまう」
その羽が、壊れて落ちる前に。
助け出してやろう。この、手で―
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ぐずぐず千歳杏。救いようのない泥沼な千歳×杏ちゃんでした。
2012/02/22