Romeo and Juliet

月曜日



 柳が、杏に別れを切り出すという『一騒動』から、少しの時が経った。それでも、相変わらず、二人が会える時間は限られていて、季節は秋を跨ごうとしていた。
 色の変わった紅葉の葉が、ひらりと一枚、テニスコートに舞い込む。

「秋も終わるな」

 スポーツドリンクを一口飲んで、誰に言うともなく柳は呟いた。実際には、それは、隣に座る少女に向けられた言葉で、その、少し愛想のない言葉も、照れ隠しなのだということに彼女が気づくくらいには、二人の仲は深くなっていた。

「最近は、少し風が冷たいですね」

 風は冷たいが、過ぎた残暑を思えばかなり過ごしやすい。

「今年は、夏が長かったな。その分秋が短い…」

 夏―二人が出会ったのは初夏のことだった。その時は、まだ暑さなどを感じるほどではなかったが、それからやってきた今年の夏は暑かった。ただ暑かったという訳ではない。柳にとっては最後の夏で、杏にとっては初めての夏だった。それは、季節に色をつけて見せる。
 二人は、その夏の終わりの手前に付き合いだした。それからも、残暑は厳しく、つい先ごろまで暑さは付きまとった。
 付き合いだした、と言っても、具体的に何をしただろう、と柳は一人思案に耽る。会える日は決まっていなくて、それはたいていずいぶん日が空く。
  この間(一方的に別れを押しつけようとした時に)、抱きしめたし、キスもした。だが、それは衝動的なことで(抱きしめたことなら、付き合う以前にもある)、手をつないで街を歩く、ちょっと二人で出掛ける、というようなことを、二人は一度もしたことがない。
 その理由は、柳も杏も重々承知していた。特に柳は、杏が思っている以上に、そのことを理解しているつもりだった。
 この関係は、人に言える関係ではない。
 世間体が悪い、などという壮大な悩みではない。中学生同士の健全な付き合い、別段、困ったことなどない関係だろう。
 だが、杏にとっては困ったことがある関係だった。
 彼女はどうしても、柳との関係を、兄である橘桔平に言いだせなかった。況や、不動峰のテニス部員に言えるはずもない。
 どう頑張っても、柳が立海大付属の『参謀』であった事実は消えない。そして、桔平が怪我を負った事実もまた、消えない。
 杏は、柳が兄のことを十分に理解していて、その上で、「謝らない」という選択をしたことを知っている。そして
、誰かを傷つけることへの苦悩も知っている。この関係は、その上での関係だった。そうでなければ、杏は彼を絶対に許さなかっただろう。彼女はそういう人間だ。そのことを柳も知っていて、彼はそれを好ましく思っている。
 だが、だからこそ、だ。だからこそ、杏は悩む。杏は、確かに、柳の真摯な態度と、苦悩を知った。だからこそ、惹かれるものがあった。だが、彼らはどうだろう。
 彼女にとって、橘は兄だし、不動峰のテニス部員たちはかけがえのない仲間だ。
 事情を詳しく話もせずに、彼と付き合いだしたことは、彼らに対する大きな裏切りだ、と彼女はいつも考える。だけれど、今さらそれを話して、許してもらえるだろうか、とも。
 堂々としていればいい。堂々と、彼が好きだと言えばいい。
 たったそれだけのことが、できなかった。前の彼女なら、きっとそれができただろう。だが、今は、駄目だと言われることが怖い。彼らを失うことが怖い。それと同じだけ、彼を失うことが怖い。
 どちらか一つを選ぶなんて、そんな器用なことが、杏にはできなかった。
 それは、澱のように彼女の心に溜まっていく。だから、「別れよう」と言われた時に、その言葉が妙にすとんと思考の中に落ちて、それが嘘だと言ってくれた柳の隣にいられる今も、どこか不安を抱えている。
 それでも、彼の隣にいる時間は心地よかった。

「もう一ゲームやりませんか?」

 その提案に、元気なものだ、と笑って、だが柳は立たなかった。

「柳さん?」

 こてんと首を傾げた杏に、もう一度座り直すようにポンポンとベンチを叩く。彼女は素直にそれに従って、彼の隣に座り直した。

「どうしたんですか?」
「…土曜日、何か予定があるか?」
「え…えっと…」

 柳の言葉に、杏はとりあえず不動峰テニス部の予定を思い出そうと思考をめぐらす。彼の言葉にやるべきことがそこから始まることが、少しだけ辛かった。

「…午前中なら、大丈夫です」

 いつもと変わらず、ここでテニスをする約束だろうと踏んだ杏は、そう答えた。土曜日は、午前中だけ、テニス部の活動があった。午後になれば、その熱気のままで、このストリートテニスコートに神尾や伊武が来るかもしれない。

「いや、テニスじゃないんだ」
「え?」

 ぱちくりと目を瞬かせた彼女が、どうしようもなく愛おしい。だが、同時に、彼女にそこまでの思考をさせてしまった自分が憎らしい。

「今週から、うちの学校の近くの美術館で書道展が始まってな。見に行きたいと思っているのだが、一緒に行ってくれないか?」

 それは、有り体に言えばデートの誘いだった。神奈川でのデートなら、彼女が心配する不動峰の面々と出会うこともない―そんな見え透いた安っぽい気遣いは、しかし、たいした功績を残しはしなかった。

「あの…行かないと、ダメですか?」

 それは、柳にとって予想の範疇の返答だった。

「ダメ、などということはない」
「うれしい…ん、ですけど…なんて、言うか…」

 ただ、テニスをするだけでさえ背徳行為のように思っている彼女にとって、柳と二人で出掛けるということは、かなり勇気のいることだろう。

「無理をすることはない。ただ、少し考えてみてくれないか?待っているから」

 なるべく優しくそう言うが、杏は俯いてしまった。その頭に、手を載せて、柳は苦く笑う。

(予想はしていたが、案外こたえるものだ)

「考え、させてください…いろ…いろ」

 ぽつんと言った彼女が、どれだけの決意でもってそれを言ったのかを思うと、やはり苦いものが心中に広がる。

「ありがとう。来られそうならメールをしてくれ…待っているから」

 『待っている』と、もう一度付け加えて、指通りのいい髪を梳くと、彼女が微かにうなずく気配がした。


ジュリエットの苦悩




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当サイトの杏ちゃんはとても悩み症です、と言ってみたり。杏ちゃんを困らせ隊。普段ははっきり物を言う杏ちゃんが苦悩してくれたら私は嬉しい。
お分かりかと思いますが、こちらは7話構成の予定です。お付き合いいただければ幸いです。
2011/12/02