花に嵐の例えもあるさ
『お別れ誕生日デート』なんていう、杏が付けたなかなかに珍妙なタイトルの外出が、6月4日、俺の誕生日の午後に行われている。もちろん、杏と別れるとかそういうことではない。
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俺はこの春大学に進学した。立海大附属の高校からエスカレーターでそのまま立海大に進学したのだった。一方の杏は今年で高校三年生だ。都内の私立、男女共学の高校の居心地は三年目になってもいいらしく、そうして気忙しく始まった受験対策もあるらしい。杏も大学に進学することに決めていたから。
今日は杏の学校のスポーツ系運動部の地区総体の振り替え休日で、杏はその代休、俺は午後から全部空コマだった。
‘お別れ’と銘打つそれは、俺と杏の中の一つの区切りだった。同じなのに、杏は俺の方を優先しているように思えた。
俺は大学に進学したのを機に、テニスを辞めた。
杏は今日の振休の引き金になった大会でテニスを辞めた。
だから、このデートは、テニスからの‘お別れ’だった。
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「コツがあるらしいぞ、こういうのは」
街をぶらつきながらふらりと入ったゲームセンターのクレーンゲームには、最近流行っていると俺でも知っているクマのぬいぐるみがあって、目を輝かせながら杏はそれに挑戦していたのだが、これがなかなか上手く行かない。平日の午後。人はまばらだったが、ずいぶん時間も小銭も浪費している杏に代わってふとそのボタンを操作したら、アームは上手いことクマの首辺りをつまんでごとっと取り出し口に落ちた。
「すごーい!蓮二くんどうやったの?」
「だから、コツがあるらしいぞ。いつだか仁王が言っていた」
「だって蓮二くんそんなコツ知らなそうなのに!」
嬉しそうに、それでも少し悔しそうに言った彼女に俺は笑う。
「最近実験器具を触らせてもらえてな。細かい作業と似ている」
そう言って大きなクマのぬいぐるみを渡したら、それを抱えて、それから杏は凪いだ瞳でこちらを見た。ラケットを持つ武骨な手が、細かな作業を要する実験器具を触る手に変わったのだと、見抜いてしまうような瞳で。
「そっか。ありがとうございます。店員さんに言って袋もらってくるね」
そんな瞳をすぐにいつもの笑みに戻して、杏は店員のいるスペースに行ってしまう。その背中に、俺はやっと、俺も杏もテニスを辞めたんだ、と思った。
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一頻りウィンドウショッピングをしたり、カフェでコーヒーを飲んだりしたりして、一息ついたところで、ファッションビルの立ち並ぶ駅前の歩道で杏はくるっと俺を振り返って、手を取った。もう片方の腕にはクマの大きなぬいぐるみを入れた袋がぶら提がっている。
「行きましょう」
「ん?」
「今日のメインイベントよ」
笑って彼女は俺の手を引く。引いてそれから杏が向かう方向は、駅だった。
どこに、と言い差して俺は口をつぐむ。
テニスとのお別れで、俺の誕生日のデート。
どこに行くのか、頭のどこかで知っていたのかもしれなかった。
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ガタンゴトンと電車は揺れる。その電車が向かっていたのは、俺が中学時代から大学までを過ごしている学校からと、杏が中学時代を過ごした学校からとの真ん中ぐらいにある場所だった。
「気を悪くしたかしら」
「ちっとも」
「良かった」
杏が告げた降りる駅名は、俺たちにとってあまりにもなじみ深い駅名で、だから杏は電車の中でそう聞いた。俺はちっとも気なんか悪く出来る要素がなくて、そのままを言えば、彼女は安心したように、それでいながら自身を落ち着けるように、笑って『良かった』と言った。
その駅は、俺たちがいつも‘デート’をしていたそこだった。
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平日の夕方、だけれどまだ早いそこにいたのは数人の小学生だけだった。高い笑い声と、お世辞にも上手くは聞こえない打球音が響くそのストリートテニスコートの入り口で、杏と俺はラケットとボールを借りた。互いにしっくりくる道具を今でも持っているけれど、今はありあわせのそれで十分だった。
「打ちましょ」
杏は笑った。好戦的で、今にもボールを突いて、サーブの体勢に入るようなそんな表情で。
「ああ」
だから俺も、今まで彼女とずっと交わしてきたデートのような勝負と同じ心持で応えた。
(同じ、だろうか)
過った疑念を振り払うように、俺は笑った。
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パコン、パコンと打球が行き来する。杏に合わせているから、手加減、という訳ではないのだけれどラリーが続く。だが、同時に半年ほどのブランクは、つい先日までテニスをしていた杏の打球を、中学生の頃から思っていたそれよりもずっとずっと重く感じさせた。
兄譲りだろうその力強い打球が、俺は好きだった。真っ直ぐで、率直で、力強くて。
じゃあなんでテニスを辞めるんだ、と問い掛けてしまいたくなるほどに。
多分、それはそんな強い打球を綺麗に彼女の手元に戻るように返す、技術メインの俺の打球に彼女も感じていることだろうと思う。だけれど、互いにそれを口に出しはしない。そうしてラリーは、俺の気紛れなスマッシュによって終わった。
「相変わらず緻密なのね。ゲーム、やっぱりコントロールされちゃった」
「杏こそ、ますます打球が重くなったな」
「ありがとう」
笑い合っていたら、いつの間にか集まっていた数人の幼いギャラリーにから拍手を受けた。
すごいすごいと彼らは言い募る。こんなふうにテニスがしたい!と笑いながら言って、それに笑顔で応じた杏に、楽しげに手を振って彼らは彼らのコートに帰っていく。その拍手と言葉が、今はなんとなく重かった。
「最後、じゃないって知ってるんだけどね」
小さなギャラリーたちを見送ってから、ぽつんと杏は言った。
「これからも、たまには蓮二くんと打つと思うの。蓮二くんも全然テニスやらない、なんてことにはならないと思うし、私もたまにはやりたいもの」
「そう、だな」
「でもね」
そう言ってから、杏は逡巡するように、躊躇うように、だけれどはっきりとした目でこちらを振り向いた。
「蓮二くんも、私も、テニスとお別れするんだね」
寂しそうな、だけれど優しい表情で彼女は言った。
精市と弦一郎を見ていた。手塚もいた。跡部もいた。高校では精市と弦一郎と共に部活をしていたが、だけれど俺はその高みに届かないと知っていた。
なまじ才能があったのは、俺をかえって未練がましくさせた気もする。彼らと並び立つことは出来ない。だけれど近づけるはずだ、と思ったことは少なくない。
だが俺はもうテニスをしない。プロスポーツの選手になれる要素はあったかもしれないけれど、俺には少なくとも彼らのような才能はなかった。そのことを突き付けられた時に、俺の中には『テニスを辞める』という選択肢しか残っていなかった。
杏はどうだろう。彼女の兄は高校卒業と同時にテニスを辞めた。彼も、多分俺のような、俺たちの世代の中では中途半端な才能を持ったプレイヤーだった。伊武たちも、高校でテニスを辞めるらしいと杏に聞いた。そうして杏も、ここでテニスを辞める。
「才能があっても、追いつけないと知ってしまった時に、俺たちはどうすることもできないんだな」
「そうね」
ポーンと杏はラケットのスイートスポットでテニスボールを跳ね上げては戻し、跳ね上げるそれを続けていた。
「だから、お別れ」
そう言った彼女の顔には、もう寂寞も憂いもない。ニコッと笑った顔は、俺の大好きな明るい笑顔だった。
「だから、初めまして」
「え?」
その笑顔で言われた彼女の言葉が分からなくて、首を傾げて先を促したら、杏はボールを手で受け止めて、それから丁寧な手つきでそれをベンチに置くと、その横のバッグをごそごそと探った。
「初めまして、新しい道を選んでこれからたくさん扉を開いていく蓮二くんと、私」
そう言って、彼女は紙包みを差し出した。
「これ…?」
「誕生日プレゼント。蓮二くんの新たな門出を祝って!」
笑顔で言った彼女は自分の右手を掲げてみせる。そうして、小さな紙包みを開けるように急かした。
「これは」
「お揃いだよ!」
杏が言った通り、彼女の腕にはめられているブレスレットとよく似た、だけれど多分男性用の大きめのそれがその袋には入っていた。オレンジと、赤と、乳白色が混ざったような柔らかな色合いの石が水晶の間にいくつか入っているブレスレットだった。
「新たな門出にはぴったりだって、お店の人が言ってたの」
笑った彼女に、俺はそれを腕に嵌める。
「新たな門出、か」
「そう」
そう言われたら、なんだか嬉しくなった。俺はテニスを捨てるんだ、と思っていたから。お別れデートなんて杏に言われたら、その気持ちは余計に強くなった。だけれど、本当は杏はそんなこと思っていやしなかった。いや、思ってはいただろう。自分自身も、自分の恋人も、兄も、友人も、みんなみんなテニスを捨てるんだ、なんて彼女も思っていただろう。
だけれど彼女は、その別れを、新たな門出だと言う。
新しい道へ、俺たちは進んでいくんだ、と思えた。
俺の青春も、彼女の青春も、多分多くはテニスの思い出ばかりだった。
そこから出ていくのはきっとつらい。
つらいけれど、新しい道が幸せであればいいと、彼女は願っている。願っているから、こうして俺の誕生日を祝ってくれて、テニスをしてくれて、そうしてその全てを終わりにして、始まりにしてくれた。
「ありがとう」
呟くように俺は言った。
それは間違いなく彼女への感謝の言葉だった。
だけれど同時に、テニスへの、これから歩む道への、新たな一年への、過去の全てへの、感謝の言葉だった。
その全てを知っているように、杏は笑った。
「お腹空いたー!なんか食べて帰りましょう!」
全部吹っ飛ばすみたいに、まだ明るいテニスコートの上で杏が明るい声で言う。
「そうだな」
彼女はきっと、変わらずにハンバーグを食べて抹茶アイスを食べるだろう。
俺はきっと、変わらずにその店で一番薄味の和膳でも食べて、食後にはアイスをつつく杏に話しかけるだろう。
何もかも変わっても、俺たちは何もかも変わりはしない。
どんな道に進んでも。
そんなふうに誕生日のプレゼントが手首から俺に声を掛けた気がした。
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柳さん誕生日おめでとうございます。
カーネリアンは門出に。
2015/06/4