昼前に、雨が降り出した。糸のように細い雨が音もなく降る。かばんの中に入った黒の折り畳み傘を開くことになるだろう。今日は、本当なら杏とテニスに行くはずだったが、この分では却下だろう。東京がどうだか分からないが、こちらに来ると言っていたから、この雨が止まない限り、テニスはしない方が無難だ。


散らす


 傘は一本しかない。梅雨とは言え、誤算だった。そうして、更なる誤算はいとも容易く降り注ぐ。

「柳、今日の放課後、委員会な」
「聞いていないぞ。それに、もう放課後じゃないか」
「言ってねえもん」

 急な召集。しかも相手は、開き直ると来た。自分でも眉間にしわが寄るのが分かる。東京は多分晴れだ。彼女のことだから傘はないだろう。駅で落ち合って、そこから傘を彼女に渡すという計画は潰れたことになる。
 土砂降りという訳ではないが、今日は仕方がないが止めにしよう、と思って携帯に手を掛ける。俺が高校に進んでからはなかなか会う機会も減っていたのだが、杏に風邪を引かせる訳にもいかない。

「柳だが」

 繋がった通話。いつも通りに切り出すと、杏は『蓮二さん!』とこれまたいつも通りに快活な声が返ってきて、俺の顔は自然とほころんだ。だが、今日の約束を取りやめにする旨を伝えなければ、と俺は申し訳ない気持ちを携えて、緩んだ頬を引き締める。

『どうしたの?』
「今日のことなのだが、こちらでテニスをしようと言っていたのだが、あいにくこちらは雨なんだ。東京は晴れているだろう?それに、急に放課後の委員会が入ってしまって…お前を濡れ鼠にする訳にもいかないから、悪いんだが、今日は」
『ダメ!』

 言い差した言葉は杏の強い語調に遮られる。そこで俺は、ふと何か引っかかるような気分になる。なんだったか、杏のその強い語調というか、意思、というべきかが何か過ったのだ。だが、その引っかかる思考には辿り着けなかった。

「いや、そうは言っても」
『今日はダメなの!絶対会いたいの!えっとね、失礼なんだけど、蓮二さんの家で待ってちゃダメ?』
「ダメなんてことはないが、傘は?」
『ないけど、大丈夫だよ。ざんざん降りじゃないんでしょう?』
「しかし…」
『今日はどうしても会いたいの。ダメ、かな?』

 そんなふうに言われては、返す言葉がない。可愛いわがままをどんどん聞いてやりたくなっている俺も、大概甘くなったものだ、と少しだけ苦笑して、それから言う。

「駅で傘を買え。売り切れていても、売り切れていなくても、すぐに俺の家に来ること。母がいるだろうからバスタオルを借りられる。体を冷やさないようにすること」
『蓮二さん、お母さんみたい』

 くすくすと笑う声が電話口から聞こえて、それから彼女は焦ったような声を出した。

『あ、電車来たみたい。じゃあ、待ってるね』

 ぷつりと通話が途切れる。携帯を折り畳んだところで、にやりと笑った級友と目が合った。

「彼女か?」

 野暮な級友に、俺は珍しく微笑んだ。

「そんなところだ」




「雨…」

 呟きは、ゆっくりと落ちる雨粒に吸われたようだった。この分なら傘はいらない。―駅の中のコンビニにも一応寄ったが、案の定、ビニール傘も折り畳み傘も売り切れていた。多分、私が駅に着く前は、もう少し強く雨が降っていたのだと思う。
 細い雨だった。寒さを呼び起こすような冷たさはなくて、私は駅から足を踏み出す。通りには、傘を差している人と、差していない人が半々というところだった。
 ―左手に提げた包みは、大切なものに違いはないが、多少濡れても問題のないものだった。
 駅から数分の住宅街に、蓮二さんの家はある。ずっと歩いてきたが、やっぱり「濡れた」と言えるほど濡れはしなかった。インターホンを押すと、走り出るようにおばさんが出てきた。

「杏ちゃん!蓮二から聞いてたの。濡れちゃった?入って」
「すみません、押し掛けて」
「いいのよ。シャワー浴びる?」
「いえ、さすがにそこまでは…」
「きっと傘は売り切れだろう、なんて蓮二に言われたから、おばさん心配しちゃってね。雨、弱まったの30分くらい前なの。ちょうど良かったわ」

 バスタオルを渡してくれて、おばさんはキッチンに向かう。

「紅茶でいい?お煎茶は体冷えそうだし…」
「すみません、なんか、蓮二さん帰ってないのに…」
「いいのいいの」

 制服と髪を軽くふいたところで、おばさんがティーカップを持ってきてくれた。




 学校から電車に乗っている間、先ほど感じた感覚に、俺はふと思い至る。杏と最後に会ったのが五月の中ごろ。そんなに日が離れていた訳ではないのに、ずいぶん会っていない気がしている自分に、やはり惚れた弱みというやつか、と思ったら、雨に濡れた電車の窓に映った己の顔が苦笑に変わるのが分かった。―その日も雨が降っていたのだ。今日と同じような柔らかな雨。散歩に行って、小路の白い花に、細い雨が落ちるのを、杏がずいぶん熱心に眺めていたのを思い出した。
 それで俺は、何故かひどく物悲しい気持ちになった。雨に打たれていたのは空木の花だった。

『雨が続くね』
『雨は嫌いか?』
『ううん。こういう雨は嫌いじゃないよ』

 そう言って目を細めた彼女を、抱き寄せてしまおうか、と思うほど、彼女の視線一つに、仕種一つに、俺は寂寞と、不安と、そうして、いろいろな、どろどろとした感情を抱いた。恐い、と言うべきだろうか。彼女がこのまま、雨に融けてしまうのではないだろうか、と、そんな故も無いことを思った。それから俺は、卯の花腐しだ、と思い至る。卯の花を散らすように、その雨が、彼女を散らしてしまうのではないだろうか、と思った。
 ひどく、ひどく彼女が儚げに見えた。多分、雨がそうさせるのだろう。彼女が儚げなのではなくて、柔らかな長雨が、俺の腕の中にいるはずの杏を奪ってしまうのではないかというような、そんな― ずいぶんと感傷的な思いだった。だけれど、雨に打たれる空木を見つめる彼女を抱き寄せることもできずに、俺は「もう濡れるから行こう」と彼女の手を引いた。その手の温度が、少しだけ低かった気がしたのが、余計に俺を感傷的にさせた。
 それから彼女は「六月四日は必ず会いたいの」と、視線を振り返るように空木の花を観てどこか決然と言った。それが、もしかしたら引っかかる感情の根源なのかもしれなかった。

 そこまで考えて、重症だな、と俺は電車の中で小さく呟く。窓の外はやはり雨。杏はちゃんと家にいるだろうか。それとも―

 静かな雨に奪われてしまっただろうか―




「ただいま」

 ばさりと黒い折り畳み傘を畳んで玄関に入ると、中から杏と母が談笑する声が聞こえた。杏は無事に着いたらしい。それに俺は、想像以上に安堵した。雨に連れ去られるなんて、そんなことあるはずないのに、どうしてか、あの日の杏の姿が目蓋に浮かんで、大きく息をつく。

「お帰りなさい」

 リビングに行くと二人分の声が重なった。

「今日はごめんなさい、わがまま言って」
「やだ、わがままなんかじゃないのよ。ねえ蓮二?」

 ここにいては、あることないこと詮索されそうだ、と思った俺は、一つ息をついて杏の手を引く。杏の手は、温かかった。

「おいで」




 物の少ない部屋に彼女を通すのは何度目だろう。ちょこんと部屋の真ん中あたりに座った杏は、いつも通り、部屋を見回す。

「めずらしい物はあるか」

 初めは意地悪のつもりだった質問も、いつの間にか定型句となった。何もない部屋なのに、杏は器用に様々なことを見つけ出す。

「うん。高等部の校章、初めて見たよ」
「そうだったか…」

 彼女が今日目をやったのは校章。そう言われて、俺は唐突に、高等部に進学してからこうやってゆっくり会うことが少なくなっていたことに思い至った。五月は更にだ。中学の頃よりも大会が早くなったこともあり、特に平日は、杏と会うことも減っていた。その中で会ったのが、あの長雨の間に行った散歩。だから余計に、俺の心は波立った。

「蓮二さんの部屋に来るのも久しぶりかも」

 そう言って微笑んだ彼女に、俺は言いようのない感情を抱く。

「蓮二さん…?」

 それは、寂寞を埋める安堵のようで、気が付いたら俺は彼女を引き寄せていた。

「ちょっ…!」

 杏を後ろから抱きしめて、首筋に顔をうずめると、雨の湿気で水を含んだ髪の下の白い肌から甘い香りがした。
 シャンプーかもしれないし、彼女のことだからフレグランスかもしれない。それは、密閉された部屋、そして何より水気を含んでいるために、いつも感じているよりもずっとリアルに迫りくる。

「蓮二…さん」
「傘を買わなかったろう」

 今度こそ本当の意地悪だ。腕から逃れようとする彼女に、分かっている質問をして、逃げられないように腕の中に閉じ込めてしまう。

「……売り切れてたの」

 放す気がないのを覚ってか、杏は諦めたように息をついて、それからくすぐったそうに頭を揺らした。
 温かい。抱きしめた杏の体温は、間違いなく温かくて、そこに彼女がいることを示していた。

「あたたかいな」
「どうしたの、急に」

 杏の体温を、存在を、ずいぶん感じていなかった気がした。どこか遠くに行ってしまいそうだった彼女は、今確かに己の腕の中にある。

「テニス、充実してる?」

 抱きしめられたまま、こてんと俺の肩口に頭を預けた杏の問いに、俺は微笑んだ。

「もちろん。高校は大会が早いから、余計な」
「レギュラー、取ったんでしょ?頑張らなきゃ。応援行ってもいい?」
「橘の応援はしなくていいのか?」
「兄さんの応援も行ってるよ。それから、私も三年になったし、頑張らなきゃ」

 彼女の柔らかな髪に指を通す。杏は、グリップを握る武骨な俺の手が好きだと言う。俺はそれから、杏のテニスで日焼けした頬に口付けた。

「蓮二さん!」

 いつまで経ってもこういうことに慣れない彼女がやはり愛おしい。俺は、彼女が俺の手を好きだと言うように、彼女のテニスで焼けた肌が、ラケットを握って、お世辞にも滑らかとは言えない手が好きだった。その一つ一つを、抱きしめる腕を動かして撫でる。

「くすぐったいよ」

 その一つ一つを確認して、彼女がここにいるというそのことを俺は実感する。それで俺は、電車に乗っていた時のようにやっぱり苦笑する。彼女がどこかに行ってしまうのではないか、なんていう不安は、少し滑稽なのかもしれない、と彼女の存在を確認して思った。

「ねえ、蓮二さん。そろそろ放して」

 柔らかな声で言われて、俺は僅かに戸惑う。それはまるで、五月のあの日の彼女に似ていたから。
 それでもゆっくり彼女を放すと、杏はこちらをくるりと向いて、にっこり笑う。

「今日は何の日でしょう?」
「今日…か?」

 少し考えていると、杏はにっこりから、今度はパッと笑った。

「正解は蓮二さんの誕生日です!」

 そう言って、彼女は持って来たらしい紙袋から、透明のビニールをかぶせられた鉢植えを取り出した。

「…?」

 鉢植え、と言うのは語弊があるかもしれない。鉢植えと言うより、それは苗木だった。

「誕生日プレゼント」

 笑って彼女は、ずいっとビニールに包まれた苗木をこちらに差し出す。

「何だか分かる?」

 その問に、俺は少しだけ考えて、それから記憶に繋がる木を思い出した。

「空木か?」
「正解!」

 嬉しそうな杏に、俺も思わず笑顔になったが、どうして急に、という思いもある。それを察したのか、杏は少し恥ずかしそうに口を開いた。

「前に会った時にね、私、この花すごく気に入っちゃって。だけど、蓮二さんはなんだか寂しそうな顔をしていたでしょう?私が何かしちゃったのかな?って思ったんだけど、もしかして、この花が蓮二さんを寂しくさせるのかな、とも思ったの。でもそうじゃなくて、多分、って、考えただけなんだけどさ、雨で花が散っちゃうのが寂しいのかな、とも思ったの。だから、これ。庭に植えれば、いつもそばにいるよ」
「杏…お前…」

 言葉に詰まった俺に、杏は何を思ったのか眉間にしわを寄せてしまった。

「やっぱり気に入らないかな…あの時、私が何かしちゃった?」

 そう言う彼女を、俺は、今度は正面から抱きしめる。

 違うんだ。という言葉は出てこなかった。いや、要らない気がした。
 俺の感じた寂しさや、杏を失ってしまうのではないだろうかという不安を、彼女はいつの間にか察知していた。それが、彼女の輪郭を、体温を、存在を、しっかりとしたものにして、俺は安堵する。彼女はここにいるじゃないか、と。

「雨が止んだら、植えようか。来年、花が咲いたら雨に打たれる花を一緒に見よう。花腐し、なんて、なかなかいいじゃないか」


君と一緒なら、どこにでも行ける気がした。
君と一緒なら、全てが美しい気がした。




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柳誕生日おめでとう!
空木、花言葉は秘めた恋。柳杏に似合っている気がしました。

2012/6/4