ハイウェイ
高速道路を走るような、そんな気分だった。100Km出したって誰も怒らない。
代わりに、インターチェンジを見つけるまで、止まることが出来ない。
そうして私たちは、インターチェンジを見つけてしまった。
*
「橘さんは都内だよね?」
クラスメイトに声を掛けられて、私はふと顔を上げる。見ていたのは進路の紙だった。
「ああ、うん。都内。親の転勤もないし」
中学三年生の後半、部活を引退して、そうしてそれから選ぶのは進路だった。親は当分転勤しないだろうと言うし、兄も都内の高校に進学した。都内以外の選択肢、というのは少なくとも今の私の中にはなかった。
それは、昔の私に似ている気もした。何の呵責もなく、彼と走ることが出来た昔。昔と言ったってそんなに過去のことじゃないし、今でも私は‘止まっている’つもりなのかもしれない過去。
二言三言クラスメイトと話しをしてから、私はふと校庭を見た。去年の今頃、再会した男―――千歳千里は、だけれど、相変わらず飄々としていたように思う。
『付き合ってたね、私たち』
出てきた言葉は、だけれどどこか乾燥していた。みずみずしさがなかった。だって、どうしたらいいのか判らなかった。好きだった気持ちも、全部全部、真空パックに詰めて投げ捨ててしまったようだったから。
好きなのだ。その封を切れば、溢れだすような思いがあるのを知っている。だけれど、私はその封を切ることをしなかった。出来なかった。一年ぶりに再会した彼は、何一つ変わっていなかった。
大きな手も、声も、背の高さも、何もかも。
だけれど、私はその彼に素直に縋ることが出来なかった。もう一回、と言えば、きっと彼は笑って応じてくれただろうと思う。もう一回付き合って、と、無邪気に言えたなら、どんなに良かっただろう。
感情の始まりはもう憶えていない。兄から紹介されて、そうして私が好きになってしまったのだと思う。でも、バレンタインにチョコレートを渡して、付き合うことになったのはよく憶えている。わがままに付き合うような、そんなつもりだろうか、と最初は不安に思ったけれど、千歳さんは優しかった。私のわがままだったのが、段々、私と千歳さん二人の我儘になっていったような気がした。
「千歳さん、か」
私はぼんやり呟いて、荷物をまとめる。早く行かないと塾に遅れてしまう。……ちとせさん。不思議な響きだ。千里さん、と呼んでいたはずなのに、いつの間にか口に馴染むのは「千歳」という、兄の呼ぶ呼び方だった。それだけ遠くに行ってしまったのかもしれない。
だって、少し誇らしかったのに。兄だって「千歳」と呼んでいるのに、私は「千里さん」と呼べるの、と思っていたのに。
*
塾には、夏に部活を引退してから通っている。学校から電車で二駅。かなり繁華な土地だった。繁華、というか。こういうのを繁華と言うのだろうか。習ったばかりの‘繁華’という言葉が、だけれどこのビル群のここに似合うかどうか、私はぼんやり考えた。
長崎とか、博多とか、と思って、思ってから、私の基準はまだ過去で止まっているような気分になって、どうにもばつが悪い気持ちで私は駅の中に入る。こんなことばかり考えているから、もしかしたらクラスメイトに「都内に進むのか」訊かれたのかもしれなかった。
下を向いてい歩いていたら、ドンっと人にぶつかってしまって私はハッと顔を上げた。
「すみませ……え」
ぶつかった相手が、蹈鞴を踏む訳なかった。そうだというのに、運命的でも、感動的でもない塾の帰りに会った長身の男は、カラン、と鉄下駄を鳴らして、半歩下がった。半歩下がって、私を抱きとめた。
「千歳…さん」
「よっ!ずいぶんふらふらしとうとね」
彼はそう言って私をぐいっと引き寄せるい。駅の端の方のコーヒーショップには、空席があった。
*
「東京来てたの」
「まあなー。学校休みなんよ」
私が頼んだのはカフェラテだった。千歳さんはブラックのコーヒーを飲んでいる。
「杏に会うとは思っとらんかったけど」
(あ……)
私を見て言った彼に、私はどうしようもなく寂しい気持ちになった。
本当に偶然なのだ、と分かってしまったから。
どこかで期待していた。不動峰の最寄り駅じゃない駅で、私も千歳さんもいる筈ない駅で、ばったり会ったのだから、偶然に決まっているのに、私は、千歳さんと私が計算で出会ったのだと思おうとしていた。千歳さんが会いにきてくれた、とか、そんな期待じゃない。必然とか、運命とか、そういうことでもない。ただ、双方が何となく相手のことを考えて、何となく出会ったのなら良かったのに、という、不安定な望みだった。
だって、私は彼のことを考えていたから。だけれど、彼は、私のことを考えていた訳ではなさそうだった。
「千歳さん、」
「ダメやなあ」
私の呼びかけを遮るように、千歳さんはふと呟いて、私を見ると微笑んだ。
「ちとせさん、なんて呼ばれたら、ほんなこつ、どげんしてええか分からんとよ」
そう言われてから、私はハッとして口許をおさえた。千歳さん。そんな、自分自身でも変だと思っていた呼び方は、だけれどそれ以外もう思い出せなかった。
千里さん、と言おうとして、喉許まで出かかったそれを、私は呑み込む。
インターチェンジなんて嘘。
本当は、もう高速道路なんて下りているの。
ただ、料金所での清算を忘れただけ。
どちらが先に手を離したか、なんて、分からなかった。
切欠は多分私の引っ越しだったけれど、心が離れてしまったのはどうしてか分からない。それは私が子供だったから?今でも子供だから?
「大好き」
私の声は震えていた。泣いているんだ、と思ったら、ひどく惨めだった。
「だったよ」
清算しなければならなかった。全部過去のことにしなければ、私たちは進めなかった。
それだけが、私にとっての救いだった。千歳さん、という呼び方を拒絶する彼も、あの時からまだ進んでいないのだ、という、その不確かで、そうして温かくて冷たい事実だけが、私を救ってくれるような気がした。
「大好きだったよ」
真空パックの恋心に、思いっきり鋏を入れる。空気が入ったら、恋心は、もう「恋」の形をしていなかった。
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千歳杏×切ない