いつからだろう、私の前に立つ兄の背中が、どうしようもなく愛しくなったのは。
その度に、私の理性は叫ぶ。
だめだと。そんな感情には、何の意味もないと。
彼が私の髪を撫でるとき、私はどうしようもない絶望を味わう。彼にとって、私は、かわいいかわいい妹でしかないという事実を突き付けられるから。でも、同時に私は、彼の手が触れたところから広がるその「愛」の温かさに恍惚とする。だって、それは、私だけが享受できる愛だ。それが、私の考える愛と違っていても、私はその微温湯のような愛にさえ、縋ってしまうほど彼が愛しい。
いつからだろう、私たちの愛がすれ違ってしまったのは。
噛み合わない愛は、私を苛む。でも、それでも、私は彼に愛されたい。
「どうした、杏?」
グリップテープを器用に替えながら、私の視線に気がついた彼は、目線を上げる。
「何でもないよ」
「そんなに見ておいて、何でもないはないだろう」
彼は苦笑してラケットを床に置くと、私を手招いた。それに従って、彼の隣に腰を下ろす。
「グリップテープがお目当てか?」
「まさか。兄さんの使ってるテープじゃ、私は力が入らないよ」
新品のグリップテープを翳してみせた彼に、私も苦笑を返した。
「そうか?」
不思議そうに呟くと、彼は唐突に私の右手をとり、自分の手と重ねる。
「ずいぶん、小さく見えるなあ」
感慨深げに言った彼に、私は心中、泣き出したい気分になった。
たった一年。
私たちの歳の差はたった一年だ。だけれど、成長期の男女の差は私たちに大きな差を齎す。合わせた彼の掌は、私のそれよりもずっと大きく、そしてずっと堅く、厚かった。
少し前までは、ほとんど同じようだったのに。手の大きさだけではない。背の高さも、走れる距離も、テニスのプレーでさえ、私たちは共有することができた。
それが、いつの間にか、彼はするすると私を置いていってしまった。何でもないことのように。実際、彼にとってそれは何でもないことなのかもしれない。そうして、たまに思い出したように私を振り返る。
そう、その愛に溢れた視線で。
その視線は、私から、それまでの彼と自分を隔てるものへの苛立ちや、焦りを失わせる。
あらゆる齟齬は、もう意味を成さない。ただ、彼からの愛を受容して、私は満たされる。
食い違った愛。屈折した愛。あらゆるすれ違いは最早、どうでもいいことになる。
私は、彼に愛されている。それは妹として、だ。しかし、それでさえ、私には彼の愛が私に向かっていることに歓喜する。
「杏の手、柔らかいな」
何の気なしに、彼は言った。女と男の手。私の手は彼のそれに比べればふっくらとしていて、それに絡まる彼の手は、男らしく堅い。その瞬間に、私はありえない期待をしてしまう。もしかしたら、彼が、私のことを、女として見てくれているのではないか、という期待。でもそれは無駄なことだ。彼は、「妹」という存在を愛しているのであって、その愛は橘杏という少女に向けられるものではない。
私はそれに絶望する。でも、その愛に、どうしようもないほど喜びを感じる。この矛盾。
私は、彼の妹から動けない。動けない焦燥と、妹、というだけで与えられる無条件の愛を失うのが怖くて仕方がないという、矛盾。
そんな自分に失笑を禁じえないが、表情は動かさなかった。
私の手を握っていた彼の手が、私の髪に伸びる。そこから伝わる熱。それが、どれだけの熱量を持っているかを、彼は知らない。そして私は、どれだけの熱が篭っても、そこから動くことはできない。
私はきっと、彼の愛を喰らい尽くしてしまう。その無条件な愛を貪り続けて、終には自らと彼を巻き込んで破滅へと向かっていく。
彼の、長く節ばった指が私の髪を撫でるのを感じながら、私は小さく微笑んだ。
破滅へと向かっていくなら、それで構わない。
そこに、彼がいるのなら―
バロメッツの憂鬱