「文化祭終わったら、さすがに部長会にどっちか顔出さないと怒られるよね」

 ぽーんとラケットのフレームで伊武はボールを跳ね上げる。ボールは綺麗にフレームの上に戻ってきて、その細いフレームでボールを玩ぶのを彼は続けた。
 文化祭は明後日に迫っていて、その関係から部活動は停止となっている。全校制作か何かで、半数近くの生徒がクラスとは関係ない文化祭の準備に駆り出されているし、それ以外の生徒もクラス単位の準備が大詰めだった。
 だが、伊武と神尾がその喧騒を抜け出して話をしているテニス部の部室にまでは、そのざわめきも届かなかった。

「……お前さ、妥協できる?」
「急だね。変な入れ知恵したのは誰かって聞きたいところだけれど、桜井かな、森かな。やんなるな、そういう言い方しかできないワケ?デリカシーってもんがないよ」
「森だけど」
「あっさり吐く辺りがマジだよなあ。ほんとやんなるよ」

 伊武は、面倒そうにそう言って、ボールを高く跳ね上げる。そうしてそれから、落下してきたそれをパシッと掴んだ。

「妥協できるかできないか、じゃないだろ。するかしないか、だ」
「深司の根本的なそういう発想が嫌いじゃない」
「嫌ってくれて構わないけど」
「‘嫌いじゃない’って言ったの聞こえなかったか」
「聞こえたよ」

 言い返したら、そこから言葉が見つからなくて、沈黙が流れる。出来れば避けて通りたくて、だけれどどうしたって避けては通れない、空白。それは、言葉が出ない、というだけのことだった。何も言わなくたって、どうしようもないそれを知っていた。知っていたから、何も言えなかった。
 考え込んで、考え込んで、それでもどうしようもない。どうしようもない手持無沙汰に、二人は乱雑に置かれた役職表を見る。

「お前がやれ」
「やだ」
「即答かよ」

 別に、やる気があるだのないだのという話ではない。ただ、互いに、互いの方が相応しいと思っている。相応しくて、相応しくない。どう足掻いたって成れない存在には、やっぱり成れなくて、そうだとしたら自分たちの遣り方で解決するしかなかった。

「俺じゃ御しきれないよ」

 俺自身含めて、と、呟くように伊武は続ける。御す、か。そういう残酷とも取れる発想には、やはり神尾自身至らなかったし、多分周りの部員も至らない発想だと思う。森が言うように言うなら、そういう発想に至らないから神尾の方が部長に相応しい面があり、そういう発想に至るから伊武の方が部長に相応しい面があるのだった。困った話だ。

「個々人―――個人っていうか、俺達っていう総体みたいな個体のことね。それを御しきることは多分俺には出来ない。そこには俺自身が含まれてるから。その上新たな個を尊重するって発想に俺がなり切らないのは分かるだろ。それならやっぱり、何れにせよ御しきれない」
「お前に御しきれないなら、俺に出来るはずないだろ」
「そんなの、分かってる。だったらよりマトモな方が上に立てよ」
「押し付けてるようにしか聞こえない」
「押し付けてるからね」

 悪びれもせずに言って、彼は肩をすくめてみせた。

「新しい方策で何とかするしかないなら、俺は全力でお前に押し付けるね」

 彼の本性が見え透いてしまうと、本当に自分の方がマシなような気がしてしまって、神尾は大きく息をつく。そんなの、錯覚でしかなくて、多分、ここにいる二人どころか全員を巻き込まなければどうしようもないと知っているのに。

「一応言っておくけど、俺は全力出して巻き込むぞ」

 お前ら全員、と壁にもたれかかった神尾が、呆れ果てたように言ったら、伊武は待ってましたと言わんばかりにボールペンをとって役職表に署名した。副部長の欄だった。
 腹立たしいほど丁寧に名前を書かれて、やはり腹立たしさが抑えきれないながらも、残る空白は部長の欄だけだった。彼は鉛筆でもシャープペンシルでもなく、ご丁寧にペンで署名をしてくれたため、もう消すことも叶わない。


 出来ることなら、空白のままでそれを提出してしまいたかった。空白のままの方が、多分、上手くいく気がした。―――彼だけではなくて、そこにいる伊武すら。
 総体のような個体、とはよく言ったものだ。これから先上に立つ二人だけではなく、今までの部員と、これから入ってくる様々な個との間に、軋轢や葛藤が生まれるだろうことは、容易に想像できた。それでも、進まなければならない。


「お前を祭り上げて先に進まなきゃならないってこと」
「お前が言うな。お前だって副部長だからな」
「はいはい」

 等閑に言って、彼はペンを押しつける。
 そのボールペンを受け取った彼は、仕方がないから、その丁寧な署名の上の欄を、自分の名で埋めた。

「部長会には俺が出るけど、本気で権限は半々だからな。ていうか、全員巻き込む」
「分かってる。早く戻らないとどやされるよ、クラスの連中にさ。お前のとこはわりとマジじゃん」
「お前のクラスだってマジだろ」
「俺は頭数にカウントされてないからいいの」

 そう言って、ラケットを仕舞うと彼は部室の窓を見遣った。


 沈みかけの陽が、ひどく眩しかった。


傾く




=========
2013/7/19