「ここまで来たら渡さなきゃ嘘よ」

 嘘よって、何よ、と私は思った。思ったけれど、電車を乗り継いで神奈川まで来ているのだから、渡せなかったらやっぱり嘘みたいなことになる。
 目的の人物は立海の柳蓮二さん。
 私の片想いから始まった恋は、まだ知り合いか、よく見積もっても友人というくくりにしか彼には思われていない気がした。
 学校から帰って急いで着替えて、ラッピングしたチョコレートを持って、電車に乗ってメールした約束の時間に何とか間に合わせた。
 チョコレートだって準備万端だ。……朋香ちゃんに頼み倒して、一緒に作ってもらったんだけど。兄さんに頼むのは絶対無理だったから。
 立海の最寄り駅のアナウンスが流れて、私は吊革から離れる。降りたそこには、予測していたように片手を上げる柳さんがいた。





 始まりは些細なことだった。それに立海に良い感情なんてなかった。良い感情もなかったし、どうしようもなかったけれど、立海との試合が終わった後、兄の病室でぼんやりしていた私は、どうしたって不自然だったろう。その不自然の理由を兄は知っていた。

『悪かったな』

 本気を出せなくて、と兄は私の髪を撫でて言った。
 その病室に来たのが、柳さんだった。
 一通り謝罪と見舞いを述べた彼は、定型句を言っているというよりはマシだったけれど、どこか冷たい感じがして、私は思わず叫んでいた。

『出てって!』
『おい、杏!』
『分からないでしょう、どうせ!あんな試合、謝ってもらう必要ないわ!』
『……何故?』

 柳さんは、至極冷静に激昂する私に訊き返した。

『あれは橘桔平じゃないもの!』

 様々な懊悩を込めて、だけれど目を吊り上げて言ったら、柳さんはクスッと笑った。

『橘。妹さんは九州時代のお前をよく分かっているな』
『柳、古い話を持ち出すな……真田によろしく』
『ああ。そういえば真田から言伝だ。「たるんどる」だと』

 私の思考の及ばないところで続く会話に、私は戸惑った。だけれど、柳さんが(或いは真田さんが)昔の兄を知っている、というのは伝わってきた。それがどうしてか私の心を軽くした。

『橘杏さん、だったね』
『……はい』
『君のお兄さんの本当の実力を分かっていて、見舞いになんか来た俺を許してほしい』

 それが、私と彼が最初に交わした会話だった。





 それから連絡先を交換したり、全国大会が終わって柳さんも兄も引退したりして、月日は目まぐるしく廻った。私が柳蓮二さんという人に引かれた最初の理由は、兄のことを認めてくれている、ということだった。でも惹かれた理由はもう数え切れない。小さな会話が、他愛もない言葉が、少しずつ私の中に積もって、それはいつしか恋になっていた。
 そうして、今日が来たのである。2月14日、バレンタインデー。

「寒くないか」

 海風が吹くから、と柳さんは続けた。駅から出て、彼は私に喫茶店に行こうと言ってくれた。私からメールをしたのに、土地勘もないここに来てしまっては私自身形無しだった。
 だけれど私は、喫茶店までなんて待てるほど強靭な心臓を持っていなかった。今だって、手の中の紙袋が震えてしまう。

「寒いだろ、杏さん」

 自然な手つきで彼は手を差し出した。駅から出た歩道の真ん中で、私はその伸ばされた手に、紙袋を引っ掛けた。

「え?」

 不思議そうにする柳さんは、なんだか珍しい気がした。

「バレンタイン、ですから…」
「チョコ?」

 こんな往来で、私は何をやっているんだろう、と思ったけれど、歩く人たちは私たちに目なんか留めない。だから私は、彼がその包みを持ってくれたのをもう一度確認して、意を決して言った。

「柳さん、好きです」

 付き合ってください、まで言えたらいいのだろうけれど、それはあんまり虫の良すぎる話しな気がして、私は「好き」ということだけを伝えた。
 そうしたら、柳さんが突然笑い出す。ふふふと、綺麗な笑い声がした。からかわれているわけでも、馬鹿にされているわけでもない。嬉しそう、というか、上手くいった、という時にするような笑い方の気がした。

「遅かったな」
「…へ?」
「君が俺に恋している確率は100%だった」
「な!え!?」

 分かってたの!と叫び出そうとしたら、包みを受け取ったのとは逆の手で、彼は私の手を取った。どきりと心臓が鳴る。彼と手を繋ぐなんて初めてだったから。

「それから、俺が君に恋をしている確率も100%だ」

 爆弾発言をしたうえ、企みが上手くいったように嬉しげで、上機嫌の彼は、私の手を引いて、笑った。

「君が言ってくれるのを待っていた。ひどい男だろ」

 それが私たちの始まりだった。


する確率