火曜日


「ずいぶんと悩ましげなため息じゃな、参謀」

 後輩たちがまだボールを打ち合っているのをよそに、彼らよりも小一時間ばかり早く部活を抜け出す三年生が集まるロッカールームで、仁王は面白いものを見つけたような顔をして笑った。

「…仁王」

 自分でも気がつかないうちにため息をついていたのだろうか?そう思うと、柳は、重症だな、と着替えかけのワイシャツのボタンから手を外して、額に手を当てた。

「おっ、からかったというんに怒らんな?珍しいのう」

 それどころか、ますます『悩んでいます』と言うような行動を取る柳に、からかったはいいが、仁王自身も少し調子が狂う。

「どうした、参謀。らしくないのう。さては女か?」

 狂ってしまった調子を覚られないように、輪をかけてひどいからかいを口に乗せると、驚いたことに柳はピクリと眉を動かして、すうっと、普段ひどく細められている(ように仁王には思える)目を開いて見せた。

「オイオイ、どうした?」

 さすがに焦ってパタパタと意味もなく手を振ると、柳はフーッと長く息をついた。

「仁王、この後ゲーセン行くだろぃ?」

 後ろから、丸井に声を掛けられて、仁王はわずかに逡巡して、それから柳の手を引いた。

「今日はパスじゃ。参謀殿の恋愛相談に忙しいんでの」
「はあっ!?」
「おい、仁王っ!俺は…!」
「いいから行くぜよ、文句は無しじゃ!」

 「恋愛など、たるんどるっ!」だとか、「春だね」だとか、様々、否定しておきたい声やや弁解しておきたい声から引き剥がされるように、柳はずるずると部屋から仁王に引きずり出された。




 連れ込まれた喫茶店で、ウェイトレスが長閑な声で注文を繰り返した。

「どういうつもりだ、仁王」

 彼女が立ち去るのを見届けて、柳はキッと仁王をにらみつけた。

「どうもこうもないぜよ。自覚なしか?それこそ重症じゃな」

 そう言われれば、口をつぐむしかない。自覚がない、と言われれば、そうかもしれないが、心当たりはある。

「そんなに、酷いか」

 息を吐き出すのと同時に、柳はそう吐き出した。仁王が手を出してしまいたくなるほど、酷いというのなら、それこそ『重症』だろうということは、容易に知れて、自分で訊ねておきながら、彼は早くも後悔していた。仁王は、そういうことに無関心そうな顔をしているが、案外仲間思いだ。だが、並みのことではそうそう手は出さない。それは、彼なりの思いやりというやつだということを、柳は知っている。だから、彼がこうやって、手を出してしまったということは、己の状態がかなり酷いことの証明にすぎなくて、彼はやるせない気持ちでいっぱいになった。
 はあっと、本日何度目か分からないため息をついて、柳は、ロッカールームでしたように、額に手を当てる。

「自覚はあるぞ、一応」
「なんじゃ、自覚ありか。あれか、どうしようもない片恋とか、そんな感じか?」

 自覚があることは、仁王も分かってはいた。しかし、可能性の一つとして挙げた「叶わない片思い」を、柳は首を振って否定した。

 口を開こうかどうか、柳が迷っていると、注文したコーヒーが届く。

「ご注文のお品は、以上でお揃いでしょうか?」

 お決まりの台詞を述べたウェイトレスにちらりと目をやったが、何が解決するわけでもない。

「大丈夫です」

 彼女に応えたのは仁王だった。それも、標準語で。擬態のうまい奴め、と心中思ったが、口には出さないでおいた。

「で?片思いじゃのうてそこまで悩むなんぞ、浮気でもされたか?」

 ウェイトレスが立ち去ると、仁王は一口コーヒーを飲んで、なるべく平板に声を出した。配慮のつもりだったが、余裕を失っているとは言え、そこは柳の方が一枚上手だ。

「気を使うことはないぞ。別段、後ろ暗いことで悩んでいる訳ではない」
「お前さん、案外余裕じゃの」

 半ば呆れてそう言うと、柳は苦笑してコーヒーに口をつけた。

「……苦い」

 妙に素直にそう言って、彼はシュガーポットからためらいもなくコーヒーカップに砂糖を入れだす。

「お前…ほんとにどうした?」

 柳がコーヒーに砂糖を入れるところなど、今まで一度も見たことはなくて、驚きに呆然とそう言うが、彼の手の動きは止まらない。
 明らかに入れすぎた砂糖を溶かすため、細長い指でつまんだスプーンで、くるくるとカップの中をかき混ぜて、もう一度コーヒーを口に含む。

「甘すぎる」
「…阿呆か」

 思わず口をついて出たのは、案外辛辣な言葉だった。だが、仁王としては「馬鹿」とまで言わなかった己をほめてほしいと思ってしまう。大阪の人間ではないのだけれど!

(前言撤回、じゃな)

 その一連の動作を見て、余裕なんてものは彼の中にはかけらも残っていないのだろうということが知れた。
 柳は、面倒そうにソーサーごとカップを押しやって、コーヒーを飲むという行為自体をやめにした。

「…飲むか?」
「やめんしゃい、俺はお前さんと間接キスなんぞする趣味はないんでな」

 提案を一蹴して、今度は仁王が息をつく。ここまで酷いとは、さすがに思いもよらなかった。

「で、お前さんをそこまで惑わす彼女がおるとは、知らんかったぞ。どこのお嬢さんじゃ」

 わざと茶化して、だが、かなり真剣に聞くと、柳は「うー」とだらしなく呻いた。そんな姿を見るのも初めてで、仁王は不謹慎にも面白いと思ってしまう。ここまで彼を乱れさせるとは、さては年上の女性との身分違いの恋か?などと、考えは変な風に飛躍した。

「お前も、多分知っている」
「…へ?」

 知っている?柳と仁王共通の知り合いは多い。だが、それが一たび女性となると、それはなかなか難しい問題だ。立海の中に柳の彼女がいるとは思えなかったから(さすがの柳でも、隠しおおせはしないだろう)、共通の、それも女性の知り合いなど、相当に限られてくるのだが、どの顔も今一つピンとこない。自分か、あるいは丸井あたりならば声をかけそうな相手がいないでもないが、目の前の彼がここまで入れ込む相手を、仁王は思いつくことができない。

「誰じゃよ、そりゃ?」

 問いかけると、柳は悩むように口元に手を当てる。迷うように眉間にしわを寄せて、それから、思い切って、という風に口を開いた。

「橘杏、だ」
「たちばな…?」

 覚悟を決めたのか、柳はきっぱりとそう言い切る。だが、仁王が、その「たちばなあん」にたどり着くには、少し時間がかかった。

「えっと…」
「橘桔平の妹だ」
「はあっ!?……あの、子…か?」

 接点が、試合を観戦していた、程度のものしかない仁王にとって、「橘杏」は、先ほど考えた「共通の知り合い」の候補の中には含まれていなかった。だが、橘桔平の妹、と言われれば、心当たりがないでもない。

「おかっぱの?」
「ああ」

 特徴を端的に言うと、短く肯定の返答があった。だが、仁王にしてみれば、それこそ接点が思いつかない。彼女に対するイメージと言えば、「睨まれた」としか言いようがないからだ。当たり前だと言われればそうだろう。実の兄をあそこまでのラフプレイで傷つけられれば、誰だって、牙を剥きたくなる。マネージャーだと思っていたら、後から妹だと聞いて、自分でやった訳ではないが、何となく申し訳ない気持ちにもなった。

「…どういう縁じゃ…まさか、お家同士のご紹介、なんて言わんだろうな?」

 言ってしまってから、いや、柳ならあるいはと考えて、それからさらによくよく考えて、柳も杏も、転勤生活を送る親の下、引っ越すような生活を(橘は確か去年獅子楽にいた)している者同士だということに思い至って、そこまで事細かに考えてしまった自分に、仁王は何となく脱力した。

「偶然、だな」
「…お前さんの口から偶然という言葉が出ると、似合わんのう」

 脱力したまま、惰性のようにコーヒーを口に運ぶ。それから、眼前の彼がコーヒーを飲むこと自体を放棄したことを思い出して、ブラックのそれが、何となく無駄に苦いものに思われた。

 それから柳は、杏との出会いとその後を掻い摘んで話した。

 書店で、偶然出会ったこと。
 全国大会で、彼女が涙を流したこと。
 偶然出会った書店で、また『偶然』出会ったこと。
 そこから始まった付き合いと、現在の状況。

 惚気か!と突っ込みたくなること数度。しかし、話を聞くに、あまり良い状況とも言えないだろうということも、仁王には伝わっていた。

「で、だ。デートのお誘いを断られそうでお前さんはそんなに悩んでんのか」

 今の状況を、なるべくシンプルに切り取ってやる。だが、状況だけを見れば、そういうことになるが、そういう訳でもない。

「誘いを断られるくらいでがたがた言うほど、俺の心は狭量ではない」
「…強気じゃの」

 問題は、と仁王は一人考える。多分、眼前の男も考えていることは同じだろう。

「橘の妹君が、義理堅い性格をしとるのは、分かった。だとしたら、問題は―」
「問題は、俺と、兄や不動峰テニス部を秤にかけることだ」

 実際問題、杏はもう秤にかけようとしている。秤にかけて、でも答えが見つからなくて、彼女は相当苦悩している。
 それが伝わるからこそ「別れようか」なんて、口から出まかせも言えたというものだ。

「そればっかりは、妹君の性格の問題じゃからのう…まあ、橘が、お前と付き合っているからとがたがた言うような性格にも思えんが」

 付け足したそれは、気休めのようなものだった。橘に怒られるとか、そういう低次元のことで彼女は悩んでなどいないのだろう。もっと根本的な、彼らと、そして柳との関係性、ということに思案を巡らせているのだろう。

「まあ、何と言うかな…あっ!こういうのはどうじゃ?『妹さんを僕にください』って感じで、外堀を固めて、妹君を安心させるとか」
「……」
「…いや、笑ってくれんと俺が困るんだが…」

 仁王の言葉に、柳はじっとその細められた目でもって応じた。

「…橘には、話をつけなければならないとは思っている」
「話をつけると言うてもじゃ、何と言うよ?まさか本当に『妹さんを僕にください』という訳にもいかんじゃろ。別段、中学生同士の健全なお付き合い、そこまで謙るのもおかしいと俺は思うが…と言うか、話をつけるという必要性そのものに、若干の疑問も感じるがな」

 事情は事情だが、誰が誰と付き合おうと、別にいいのではないか、というのが仁王の考えだ。だが、そういう訳にはいかない律義な(難儀な、と言い換えることもできるかもしれない)ところが杏にはあるのだろう。それこそ、先ほど言った『妹君の性格の問題』というやつだ。

「お前さんをどうこうするよりも、妹君が柔軟にものを考えられるようにしてやる方が重要なようだの…」

 呟くように言って、しかし、それに必要なのが『彼ら』の了解なのだということも分かっていて、仁王は、ふと考えた。

「…たとえば、どうでもいいようなメールはしとるか?」
「……あまりしていないが?」
「それじゃいかんぜよ!そのままじゃ、いつまでたっても彼女は委縮する。お前さんらしくないの。少し考えれば分かるじゃろ。今の段階では、お前さんと妹君の関係は、二人だけの秘密、じゃ。もしかしたら、友達に話しているかも知れんが、彼女がほしがっているのはそういうんじゃない。お前さんと自分の立場を知っとる人間に理解されたいんじゃろう。それは、実際問題、今はお前さんしかいない。一緒にいていい、と思わせる、そういう優しさがないと、保たんぞ」

 パンっとテーブルを軽くたたいて、仁王はきっぱりと言った。

「…そう、だろうか」
「そうだ。そういう優しさがあれば、彼女はお前さんと一緒にいることを苦には思わなくなっていくかもしれん。周りの人間にも相談がしやすくなる。……根本的な解決にはなっておらんがな、そういうことも必要だということじゃ」

 『優しさ』という言葉に、柳は少し目を伏せる。よく考えれば、足りなかったかもしれない。

「お前さん、案外恋愛初心者じゃの。それか、今までそういうんがなかったか、初恋でもあるまいし」

 その指摘に、彼はフッと息をつく。「初恋でもあるまいし」と言われると、何と返していいか分からなくなる。確かに、初恋ではない。それなりの付き合いをしたこともある。だが、そのどれも、愛情や優しさと言うものに対して、あまりにも受け身だった。そう考えると、彼女たちのことを真剣に好きだったのかどうか、データにしても分からないことのように、彼には思えた。

「そういう訳で、ちょいとメールでも作ってみんしゃい。俺が添削しちゃる」

 そう言われて、柳は虚をつかれたように動きを止める。

「今、か?」
「今、だ」

 そう言った仁王の表情は、真剣そのもので、詐欺師と言うにはほど遠かった。

「似合わんぞ、仁王」
「黙りんしゃい、人がまじめに考えてやっとるというに…いいから、早くメールを作ってみろ」

 必要なこと、と言われれば、それは確かにそうだろう。それは分かる。だが、何でもないメールを打つのは、酷く難しいことのように思われた。
 連絡の延長で、何通かメールをすることはある。それはそれで楽しいからこそ、しているのだ。そうでなければ、自分は無駄なメールをするような男ではない。
 そう考えてから、その考えを柳は即座に否定した。彼女との間に「無駄」なことなどありはしない。彼女と付き合ってみて、そういう考えを持つようになった。杏に相当に参っているということだが、そのことには柳自身気がつかない。
 話したいことは、山ほどある。だが、できれば直接会って話したい。そういう思いも邪魔をして、だが、のろのろと柳は携帯に手を掛けた。

 当たり障りのないことを書き綴ってみる。今日の天気、潮風が気持ちよい場所にいること、彼女の体調を慮る一言、そちらの天気はどうか……

 出来上がったメールは、柳にしては案外長かった。素直にそれを仁王に見せる。

「お前さんにしては、案外まともなメールやのう」

 必要最低限の内容だけを(それこそ、「土曜は来られるか」などという直截な内容を)書いているかもしれないと心配していた仁王にしてみれば、そのメールはまあまあ及第点だろう。

「まあ、ここをちょっとこうして……どうじゃ?」

 ハートやメールを表す手紙の絵文字をいくつか選んでつけてやる。それに、柳は秀麗なその顔を歪めた。

「そういう性格ではないだろう、俺は」

 クリアボタンを押して、付け足されたそれらを一つずつ消していく。

「そーいうユーモアっつーか、面白味もないと捨てられるぜよ」

 にやりと笑って言ったが、柳は一つ息をついただけだった。

「それで、合格なのか?」

 笑顔の彼に、それは聞くまでもないことのように思われたが、一応聞いておく。

「合格ゴーカク。やればできるもんじゃの。そういう積み重ねが大事なんじゃ。ほれ、ぽちっと送信ボタンを押して完了じゃ」

 その言葉に彼はボタンを押すのをためらう。

「…?どうした」
「杏は…メールが早い…」
「そりゃ、今時の女の子やからのう」
「だが、このメールには、30分以内に返信が来ない確率86%だ」
「…お前さん、返信が来んのが怖いんか?」
「…違う。逆に、彼女を追い詰めることにならないか、と考えていただけだ」

 彼のそれは、仁王には杞憂のようにも思われたが、彼が80%を超える確率で「返信が来ない」と言うからには、多分返信は来ないのだろう。その理由が、彼女の悩みに直結しているとすれば、追い詰められるということもあるかもしれない。

「それでも、送信した方がいいと俺は思うがな」

 それでも、というより、それだから、と言った方が正しい。

「そうやって、メール一つで追い詰められるような関係性、早いところ破らんと、破局だってありうるぞ。お前さんたちがどれだけ思い合っていようと、だ」

 その言葉に、少し悩むような顔つきをして、それから彼は送信ボタンを押した。

「何と言うか…まるで、ロミオとジュリエットやのう」

 すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけて、彼は遠くを眺めるような目つきをしてそう言った。

「一応、立海と不動峰の名誉のために言っておくが、俺も杏も誰にも話していないだけのことで、実際に反対されたり、妨害されたりという事実はない」

 ロミオとジュリエット、という例えに眉をひそめて、柳はまた息をつく。

「物の例えじゃよ。お家同士の因縁、許されざる恋…ふむ、そう言うとなかなかに燃えるものがあるの」

 面白そうに言った彼に、からかわれたのだと気がついて、柳はますます顔をしかめた。何か言ってやろうと口を開きかけて、彼はそれに失敗する。代わりにまた一つ息をついて、それから、眼前のコーヒーが、飲めた代物ではなくなってしまったことを思い出した。

「全く、どうかしている」

 自嘲めいた声音で言って、柳はもう一度額に手を当てた。

 いっそ、彼女を攫ってしまおうか。

 そう、ふと考えて、それは幾分、ロミオとジュリエットよりもまともだなと、心の中で苦笑した。
 彼女が仮死の薬を飲むくらいなら、攫ってしまえばいい。さすがにそこまで追い詰められていやしない。




 結局、彼の言った通り、30分経っても返信は来なかった。


ロミオの憂鬱




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杏ちゃんが悩み症だと思ったら、柳も悩んでいたようです。杏ちゃんを困らせたいけど、柳も困らせたい。
2012/1/31