今年のバレンタインは月曜だ。幸い、杏の部活は休み。不動峰の面々にチョコレートを渡してからでも、柳のところに行く時間は十分ある。
「14日なんだけど…柳さんの家に行ってもいいですか?」
『…構わないが…五時以降でもいいか?』
微妙な間でそう返してきた電話の向こうの相手に杏は首を傾げた。は不動峰の面々や兄にプレゼントを渡す予定だったから、神奈川までの移動を考えてもその時間の方が都合がいいのは明白だった。しかしさっきの間はなんだろう。
「まあ私もその方が都合がいいんですけど…どうかしたんですか?」
『いや、大したことではない。それでは五時に家に来てもらえるか?』
「分かりました」
『楽しみにしている』
「じゃあこれ、杏ちゃんの手作り!?」
神尾の嬉しげな声に杏もつられて笑顔になる。
「私今年はちょっと頑張っちゃった」
「昨日遅くまで起きてたからな」
推薦で進学を決めてから、また練習に顔を出すようになった橘もそう言って笑う。スポーツ推薦でも引く手数多だったのだが、橘は敢えて学業推薦にこだわった。真面目な性格で、成績も優秀な橘のこと、スポーツ推薦でなくとも、学業、部活の実績で、それなりの高校が決まった。テニスの実績がある学校に行きたいという思いもあったが、スポーツ推薦というのは、何となく馴染まない気がしたというか、それだけの実績があったとは思っていない橘だ。そこには、未だ燻る自責の念がちらついていた。
「…ふーん手作りね。去年は板チョコだったのに…なんだろ?心境の変化ってやつ?」
「深司くん!!」
ぼそりと呟かれた台詞を杏は真っ赤になって止めた。
「あーあ図星か。かわいそうな神尾…」
「私、これから行くとこあるから」
「練習見てけばいいのに」
「ごめんね。外せない用事なの」
伊武のぼやきは神尾には聞こえていなかったようである。
不動峰から柳の家までは、電車で四つほど駅を行ったところにある。立海も不動峰も県境近くだから行き来するのにそれ程不便は感じない。
「こんにちは」
『はーい』
柳家のインターホンを押すと女性の声がした。それからパタパタと軽やかな足音と共に玄関の扉を開けた女性に、杏は突然抱きしめられた。
「杏ちゃん!今日も可愛いわ」
「お…お姉さん」
ぎゅっと杏を抱きしめて放さないのは柳の姉だった。
「姉さん…出掛けるんじゃなかったのか」
「あら夜からよ。言ってなかったっけ」
「とにかく杏を放してくれ」
「いや。蓮二ばっかりいつもずるいわ」
「姉さん」
短くたしなめられて、柳の姉はしぶしぶというように杏を放した。
「仕方ないわね。いいこと、杏ちゃん。何かされそうになったら大きな声出すのよ。お姉さんが蓮二なんか倒してあげるから」
「ハハハ…はあい」
「杏もいちいち構うんじゃない。お前が構うから図に乗るんだ。おいで」
手招きされて柳の部屋のある二階に上がる。部屋の前でふと柳が動きを止めた。
「…杏」
「はい?」
「勘違いしないでくれよ」
「え…?」
柳がそう言って部屋のドアを開けると、中からは柳とは結び付かないような甘い香りが漂ってきた。
部屋の隅に追いやるように紙袋が3つ。はみ出している可愛らしいラッピングに杏はぱちくりと目を瞬かせた。
「すごい量…」
「彼女がいると言ったはずなのだが…すまない」
「柳さんが悪い訳じゃないでしょ…それにしてもすごい!」
柳の予想に反して、杏は楽しげにその紙袋に寄っていった。
「全部柳さんがもらったの?」
無邪気に聞いてくる杏に柳は一つうなずいて近寄る。
「自慢ではないが、それでも元レギャラーの中では少ない方だ」
「それで今日は早い時間じゃダメだったのね。あー…」
綺麗にラッピングされたチョコを眺めて、杏は小さくため息をついた。
「お煎餅とかの方が良かったですね、こんなにあるんじゃ…」
手に持った紙袋の中身は、これらと同じくチョコレートだ。杏はそのことを気にしているらしい。
「そんなことはないさ。杏からもらうのが一番だ」
手作りなのだろうと耳元で囁けば杏の顔が真っ赤になる。
「そ…そうです」
「今日は夕飯を食べていけ。杏からのチョコは食後にゆっくり食べるとしよう」
フッと笑った柳の顔に見とれていると、今度は柳がため息をついた。
「しかし…どうしたものか…」
「何がです?」
「このチョコの山だ。捨てる訳にも…」
「捨てるだなんて!!女の子の気持ちが詰まってるんですよ!」
柳の台詞を遮って、杏は叫んだ。自分の彼女からそんなことを言われるとは思ってもみなかった柳は驚いて杏を見返す。
「そう…か?」
「そうです!ちゃんと食べてお返ししないと!」
そういう訳で、夕食までの時間は、柳の貰ってきたチョコを二人で消費する時間と相成った。
「すごい…高級品ですよこれ」
「杏からのチョコの方がいい」
さっきからこんな調子でチョコを食べている。杏も甘いものは嫌いではないから、作業は案外あっさり進んだ、かに思われた。
「柳さん、これ…え…!?」
美味しいですよ、と勧めようとして振り返ると、何が起きたのか、柳がはらはらと泣いている。
「柳…さん?」
「杏は…俺のことが嫌いか?」
「ええー!?」
突然泣き出した上に、そのようなことを聞かれて杏は面食らった。
「柳さん…どう…したの」
「それだ…神尾や伊武でさえ名前で呼ぶくせに俺はいつまで経っても『柳さん』だ…杏は俺が嫌いなのか?」
赤く染まった頬に涙を伝わせて聞いてくる柳に杏はほとほと困ってしまった。
「嫌いなわけないじゃないですか」
どうにか落ち着かせようとそう言っても柳は泣き止まない。それどころか突然杏のことを抱きしめた。
「だが杏は俺のことを名前で呼んでくれないし、いつまで経っても敬語のままだ」
「柳さん、苦しい…っ」
普段以上の力で抱きしめられ、苦しい。柳の頬を伝った涙が杏の肩を濡らした。
「杏…」
抱きしめたまま泣く柳に困惑して、柳の近くに落ちていたチョコの箱を確認すると原材料名の中に『ブランデー』の文字を見つけて、杏は頭の痛みを覚えた。
「まさか柳さん、酔ってるの?」
「やはり杏は俺が嫌いなのだな」
「そんなことないですよ」
ぐっと胸板を押して離れようとしても、柳の強い力に負けてしまう。
「では名前で呼んでくれ。敬語もやめるんだ」
「え…えーとっ」
「出来ないのか?やはり杏は俺が嫌いなのだな」
パッと杏を放して、柳はさめざめと泣き続ける。それには流石の杏も焦った。
「えーと…蓮二…さん」
とりあえず、おずおずと名前で呼んでみると、柳は顔を上げた。
「杏?もう一度」
「…蓮二さん」
そう言うと杏はまたしても柳の腕に捕らわれた。
「杏、好きだ」
「れ…蓮二さん…私も好きです」
「敬語もやめるんだ、杏」
「え…はい…いや、うん?」
そう言うと柳は満足げに頷いて杏の肩にしなだれかかった。
「蓮二さん…蓮二さん?寝ちゃったの?」
涙は止まり、今度は肩口から寝息が聞こえる。
「なんだったのよ…もう…」
数十分後…頭に感じる柔らかい感覚に柳は目を覚ました。
「ん…」
「あ、起きた?」
目を開ければ真上に杏の顔がある。いわゆる膝枕というやつだ。
「蓮二さんずっと寝てたのよ」
その杏の台詞に柳は数十分前のことを思い出し青ざめた。
「俺は…何をしていたのだ…まさか…夢だろう」
「蓮二さん…夢じゃないのよ」
蓮二さんという呼び方に、柳は杏の膝から飛び起きた。
「その呼び方…」
「嫌?」
小首を傾げた杏を見て柳は全てを思い出した。
「いっ…嫌ではないがお前はいいのか?」
「蓮二さんがいいなら」
「…勿論だ…が…俺はどうしてあんな事になったのだ…?」
「ああ、チョコにブランデーが入ってて酔っぱらっちゃったみたい」
「酔ったの…か」
「ちょっと困っちゃったけど、蓮二さんの本音が聞けて良かったよ」
「では…」
「うん、これからは蓮二さんって呼ぶし敬語もなるべく使わない」
―怪我の巧妙というやつである。
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泣き上戸な参謀。こういうのは真田の方が映えるのですが。というか、柳はきっとザル。
杏ちゃんの前では余裕をなくして欲しいのです。というわけで、ベタにお酒ネタ。柳姉を出せて満足でした。
柳より、杏ちゃんはきっと悪酔いするタイプ。桔平に絡んで欲しいです。
2011/2/14