「ねえ兄さん!次は焼きそば!」
先ほど買ってやった焼きイカを美味しそうに頬張りながら、杏は楽しげに振り返った。
喧騒
「食べ終わってからにしろ。それと、食べながらしゃべるな、行儀が悪い」
妹を一つ窘めると、彼女は焼きイカを含んで膨らんだ頬を、それ以上に膨らませて見せる。
「いいじゃない、兄さんのケチ!」
「だから……」
食べながらしゃべるな、と付け加えようとしたが、杏は脇の金魚すくいに目を取られて、桔平の言葉を聞いてはいなかった。
「金魚!ねえ、一匹くらいなら怒られないわよね?」
気がついたら、彼女はもう、気前のよさそうな店主からポイを受け取っていた。
その行動の速さに、桔平はわずかに苦笑する。だが、その笑みは、彼女の問いへの肯定でもあった。
屋台の、蛍光灯とは違う柔らかな光が、屈んでプールに向かう彼女の姿を仄明るく照らし出す。
一昨年―それはまだ、熊本にいたころ―、中学生になるからと祖母が彼女のために仕立てた浴衣は、白地に薄紫の朝顔が描かれた、古典的な浴衣だった。文庫に結ばれた真っ赤な帯が、白地の浴衣の上で踊っている。彼女はその浴衣を、「少し子供っぽい」と言って拗ねていたが、桔平の目には、実際に浴衣を着てみた杏が、ずいぶん大人っぽく映った。その感動は今もまだ色褪せない。それは、昨年まで、夏はいつもテニスに追われて、この妹と夏祭りに出掛けるなどということ自体、していなかったからのように思う。秋祭りには行くこともあったが、大抵、親友とその妹がいたり、後輩がいたりして、そして彼女も浴衣を着ることはなくて、彼にしてみれば彼女のこの浴衣姿をまじまじと眺めるのは、これが初めてのこと、と言っても過言ではなかった。
桔平にとって、この夏は、良くも悪くも、久々に静かに過ぎ往こうとしている。
きっちりと浴衣を着付けられて家から出た時には感じなかったが、こうして屋台の薄明かりに照らされると、己が成長しただけ、彼女も成長したのだ、という、あまりにも当たり前の事実に、彼は、妙に感慨深いものを感じた。
彼女の浴衣は、確かに子供っぽいかもしれない。それこそ、大して背丈も変わらない頃に手を引いた彼女の浴衣姿も、白地に赤い模様だったように思う。
だが、今着ている浴衣のその白は、程よく日に焼けた彼女の肌にぴたりと寄り添い、照らす明かりに、彼女の輪郭を浮かび上がらせる。
(背が…少し伸びたかもしれない)
髪も少し―
短いことには違いないが、去年の今頃より、彼女の髪は伸びていた。それは、杏が部活を引退し、それから髪を切っていないからだった。
大輪の花の下、真っ直ぐ伸びた髪に指を伸ばすと、ぱしゃん、と頼りない音がして、彼女の手の中のポイを破って赤い金魚が一匹逃げた。
「あ…もう!…兄さん、もう一回やってもいい?」
わずかに髪に触れた指先に気がつかずに、彼女は振り返る。
「…?兄さん?どうしたの?」
だが、引っ込め損ねて不自然に差し向けられた手に、杏は首を傾げた。
その問いに、彼は一瞬、応える言葉を失う。
わずかに伸びた髪と、白い浴衣は、彼にいつかの夏祭りを思い出させた。
―いつかの
記憶は、その「いつかの」夏祭りに留まらず、濁流のように様々な「思い出」を叩きつける。
例えば、彼女の手を引いて、大きな屋台の間を縫って歩いたことを。
例えば、失った親友の右目のことを。
例えば、出会った新たな仲間のことを。
例えば、もう一度彼の隣に並び立ったことを。
例えば、例えば、例えば―
痛みを伴う過去と、それから書き加えられた項を、めくれど、めくれど、彼女の姿は、どこか幼いままで止まっていて、だから彼には、この成長した彼女の姿が、妙に真新しく映った。
もちろん、彼が彼女を顧みなかった訳ではない。ただ、杏は、桔平の中で「幼さ」というものと結びつく存在であって、成長という事実そのものが、目に入っていなかった、というだけのことだ。
一年、二年と月日は過ぎる。
あまりにも自然に、彼女は「成長」した。彼が、それと気がつかないほど自然に。当たり前のことだ。それが与えたものを、奪ったものを、手に入れたものを、失ったものを、彼は今、目の当たりにする。
いつまでだって、彼女は己の後ろをついて歩く幼子だった。いつまでだって、手を引いて歩くのだと思っていた。だが、この一瞬によって、それはもはや過去のことになりつつある。
だけれど、だけれど。
不思議そうな顔をした彼女の手を、すっと取る。
「兄さん……?」
「もう行くぞ」
もう一回、という彼女の言葉を無視する形になったが、不安定だった手を、彼女のそれに重ねることで、桔平はとりあえずその場をとりなした。
だが、杏の方は、その重ねられた手にどくりと訳もなく胸をざわつかせる。
それは、テニスをする者特有の堅さを持った手だった。そういう手を、兄以外で杏はあまり多くは知らなくて、その感覚を、いつかの「兄以外」の手の堅さと知らず重ね合わせて、杏は少しだけ顔を赤らめた。
それを覚られないように俯けた視線は、カラコロと涼しげに鳴る下駄に落ちる。
しかし、数歩歩けば、繋がれた手の温度は、溶け合って兄妹のそれになる。
「…焼きそば食べたい!」
俯けていたはずの視線は、いつの間にか上げられて、目聡く屋台を見つけ出した。
「さっきイカを食べただろう。太るぞ」
「何よそれ!太りません!太らないもん!」
「かき氷にしておけ。運動もしていないんだから」
「だって…焼きそば…」
「かき氷で我慢しろ」
先に見える屋台を示して、焼きそばの屋台から離れると、杏は、口惜しそうにぶつぶつ何か言っていたが、かき氷の屋台の隣に目をつける。
「じゃ、りんご飴は?りんご飴ならいいでしょ?」
飴のかけられたりんごや苺が、てらてらと甘そうに光っていた。桔平の返答を待たずに、繋いでいた手をすりぬけて、杏はその屋台に向かう。
「兄さん、これあげる」
戻ってきた杏は、そう言って、彼にあんず飴を差し出した。甘いものが好きとか嫌いとか以前に、突然渡されたそれに、桔平は面食らった。
「どうした、急に?」
「今日、兄さん誕生日でしょ?一緒に夏祭り行けて、兄さんが楽しめたならそれでいいかなあって思ったんだけど…なんて言うか…それじゃ足りないかなって思ったから、これ」
差し出された杏子飴を受け取って、桔平はまた追憶に囚われる。りんご飴が食べきれなかった杏のために、自分のあんず飴と食べかけのりんご飴を交換してやったのは、もうずいぶんと昔の話だ。小さい頃の二人にとって、屋台で売っている飴は、甘くて、小遣いを目いっぱい使った、この上ない贅沢だった。その思い出が蘇って、彼はあんず飴に一口口をつける。それから、思い出の中の幼い彼女と大人びている今の彼女を重ね合わせて、ふと、杏に声をかけた。
「りんご飴、食べきれるか?交換してやってもいいぞ」
「子供扱いしないでよ、兄さん」
それは怒っているような口調だったが、苛立ちはなく、彼女は微かに笑っている。りんご飴を左手に持って、空いた右手をごく自然に差し出した。差し出されたそれを握って、二人はまた歩き出す。
シャリッと、杏はりんご飴をかじった。その姿に、桔平もあんず飴を食べる。
祭りの喧騒は、潮騒のようにざわざわと道に広がっている。
その喧騒の中を歩く二人の、切り取られた静寂は、思い出か、或いは―
追憶、或いは―
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桔平兄さん誕生日おめでとう。珍しく感傷的な感じで。あんまり誕生日要素がなくてすみません。いつものことですが。
2011/08/15