金曜日
「昼くらい、静かに食べたいものだな」
形も色もいい出汁巻き卵を箸で摘まんで、柳は軽く息をついた。
「いいだろ!ほんとに困ってんだって!」
そう言って、丸井は騒がしく午後一番の授業らしい英語のノートを写している。原本は、もちろん柳のものだ。
そこまではまだいい、と、柳はさらに深く息をつく。こんなことはざらにあることだ。問題は、そこではない。
「ねえ仁王。いい加減話す気にならない?」
「知らんのう」
素知らぬ顔で菓子パンにかじりついた男に「ケチ」とかなんとか言い募っている男。先の丸井を入れると実に三人のクラスの違う男子が柳の前に揃っていた。その面子は、揃いも揃って元テニス部である。
「この間なんかさあ、蓮二がご飯食べながら携帯見るっていうのがまずもって信じられないのに、笑ったんだよ!?メール見て!」
熱弁を振るうのはすっかり弁当を食べ終わったらしい幸村だ。仁王はそれに適当に相槌を打って、しぼんだ菓子パンの袋をガサガサ言わせている。
「えっ!マジかよ!」
食いついたのは丸井だった。
「ってことは、こないだ仁王が言ってた『参謀の恋愛相談』ってマジなの!?」
「丸井…写し終わったなら早く次の行動に出るべきだな。英語の次の数学は、柳生のものを写さないと授業の進行速度が合わない。ついでに言えば、今日お前が数学で当たる確率は100%だ」
「ヤベっ!昼休みあと何分残ってる?幸村くん、なんか分かったら教えてくれよな!」
慌ただしくそう言って、丸井は手早くノートや筆記用具をまとめると、「サンキュな」と言い残して昼休みの教室を去っていった。
とりあえず、一人撒いた―気分はもはやそんなものである。だが、去っていった丸井は、柳としてはそうそう目くじらを立てるほどのこともなかった。問題は、この二人だ。いや、正確には、幸村一人、というところだろう。
「で、仁王。誰なの?」
「黙秘」
幸村は幸村で、柳から芳しい返答が得られそうもないことを察知して、仁王にばかり話の矛先を向ける。ここ数日、柳に静かな昼というものは存在していなかった。と言っても、火曜に元テニス部レギュラーの前で仁王が『恋愛相談』などと言ってしまったことに端を発しているので、柳が感じているほど長々とその攻防が続いている訳ではないのだが。
仁王の問題発言から一日、水曜の幸村は、今日の丸井と大して変わりがなかった。本当にたまたま、時間割を勘違いしていたというところだが、予習をしていなかったことには違いがない。柳はそういう時にそういう人間が集まるスポット言えるだろう。真面目にやっていると言えば、真田や柳生も変わりないのだが、この二人にノートを借りようと思うと、オプションで説教が付いてくることは、もはや共通認識だった。柳も苦言を呈する程度のことはするが、怒鳴られたり、それだけで昼休みの半分を使い切ってしまったりということはないから、自然と足は彼に向かう。
水曜も、そんな、ありふれた昼休みのはずだった。
ただ、違ったのは、彼の携帯が、机の上に乗っていたことだった。
『あれ、珍しいね、蓮二が食事の時に携帯出してるなんて』
『……気にするな』
『なんか来てるよ?』
ちかちかと点滅して、着信を知らせるその小さな箱を、しかし彼は顧みないだろうと知りながら、幸村は一応気がついたので指摘しておいた。
だが、柳は予想に反して、携帯に手を伸ばし、そして―
「笑ったんだよ」
まるで難事件に対峙したかのように、大真面目に幸村は言った。何度か繰り返されたそれに、仁王はやはり適当に相槌を打つ。
木曜の昼は仁王だった。火曜のメールの返信―即ち、幸村が対峙するその笑顔の謎について、もっと言えば土曜の予定について、何か進展があったかとりあえず聞きに来た。乗り掛かった船ということもあり8割善意、2割野次馬根性というところである。
パックジュースを片手にのろのろと柳のクラスに行ってみたら、ちょうど教室から後輩の切原が叩き出されているところだった。多分、丸井か桑原あたりがちょっとした弾みで柳の恋愛沙汰(正確には恋愛沙汰ではなく、ただ仁王が『恋愛相談』と言っただけなので、曲解もいいところだ)を彼に話したのだろう。
実際に、柳に声を掛けてみたら、げんなりした様子で「お前もか」と言われた。
それでも結局、柳はため息をつくように、彼が添削すると言った当たり障りのないメールへの、彼女の返信について語っておいた。仁王にしてみれば、その返信が来た時点で、妹君は吹っ切れたか、と思ったものだが、そう簡単に事は運ばないだろうと、柳の顔には書いてあった。読みが当たったか外れたか、そこまでは分からなかったが、少なくとも出向いた昨日の昼に、彼女から明日についてのメールも、電話も来ることがなくて、期限は急に縮まった。明日だ。彼らの出掛ける予定(になるはず)の土曜は明日に迫っている。
例えば、彼女から何の音沙汰がなくとも、柳はそれを一つの通過点として捉えるだろう。だが彼女はどうか。義理堅い性格というのは、このような時に非常に厄介になる、と仁王は危機感を抱いた。どちらか一方のために他方を切り捨てるというのは、明確な裏切りとしての実感を抱きかねない。
そのような、まあまあ他人事ながらも乗り掛かった船ゆえの思考回路で、昨日に引き続きのろのろと出向いた仁王だったが、思わぬ相手に出くわした。幸村だ。
「まあいいや。進展あったら教えてよ」
そんなことを仁王が考えているうちに、幸村は諦めたように手を広げて、立ち上がる。元来、そこまで人の色恋沙汰に首を突っ込む野暮な性質ではない。たまたま、行き合ったのが堅物参謀だったのと、似合わないメールなぞと微笑みが相まって、妙な好奇心を掻き立てられただけのこと。一線は超えない。そういう、分別めいたものを持っている幸村にしてみれば、柳に突っかかってみたのは、要はじゃれているだけのようなものだった。
弁当の包みを適当に掴んで、彼が立ち去ろうとしたその刹那だった。
柳の、シンプルな携帯がチカチカとランプを点滅させて、着信を告げる。柳は、一瞬、その箱に手を伸ばすのを躊躇った。だが、箸を置くと、いつもの流麗な手つきで携帯を取り上げる。
『From 杏:土曜は立海の最寄り駅でいいですか?何時くらいに駅の何口あたり?』
確認した文面に改行はない。そのことに、柳はその柳眉をしかめた。少なからず無理をしているのではないか、と思ったからだ。その顔つきに、幸村は少しだけ心配そうな顔をして、今度こそ「次の練習でね」と告げて立ち去った。あれで案外心配性な男だ、と思いながら仁王は行儀悪く柳の携帯を覗き込む。
「こりゃあ…吹っ切れ半分、無理半分ってところかのう」
仁王の呟きに、彼は応じず、携帯を畳んで息をついた。
ロミオの深憂
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参謀編。視点が交互くらいの分量でいくのは金曜までです。
2012/5/11