岸の向こう

「なぁ。」
「なんだ?」
「俺たちさ、ダブルス組むのやめないか?」

 それは、日常の会話と全く変わらないテンポでの言葉だった。


岸の向こう


 全国大会が終わって、慌しかった夏休みも過ぎた。もう9月に入ったというのに、今年は残暑という言葉がしっくりし過ぎるほど暑い。残暑どころか猛暑の勢いの中行われた部活からの帰り道、少しでも涼しい道を、と思って桜井と石田は川沿いの道を選んだ。
 いつも通り他愛も無い話をしながら歩いていたところで、その他愛の無い話とまるで変わらない事の様に桜井は先の言葉を言った。

「なん、だよ…それ?」

 石田は思わず立ち止まって彼の顔を凝視する。その顔が平時と何ら変わらなくて、それどころか、先ほどまで話していた時に浮かべていた薄い笑みさえ見て取れて、石田は急激に頭に血が上っていく感覚に襲われた。

「そのままの意味。俺とのダブルス、解消しようっつってんの。」

 ザアーと川の流れる音がする。相変わらず桜井の態度は『普通』で、しかし恐ろしく重い事をサラリと言った。

「理由が、ない。」

 感情を押し殺す様に言った台詞は掠れていた。

「理由なんて、幾らでもあるだろ。例えば、全国で、俺は橘さんからお前とのダブルスを外された。それは偏に俺の力量不足が原因だ。」
「そ、れは…」
「橘さんをどうこう言いたいわけじゃねぇよ?でも確かに俺には力が足りない。」

 桜井は薄く笑んでいる。でもそれが自嘲の笑みなのだと気づいて、石田の頭に上った血は引く事を忘れた。

「なんで…なんでお前は今更そんなこと言うんだよ!?」

思わず石田は彼の肩を掴む。しかし桜井はそれにも全く動じない様子で真っ直ぐに石田の目を見返した。その凛とした、それでいて儚げな視線に射竦められて石田は息を詰める。

「今更、じゃねぇよ。全国で、お前がアキラと組んだの観て、『こりゃ、外されても仕方ないな』って思った。どんな球にも追いつくアキラと、お前の強烈な打球があれば、これ以上のダブルスなんて無い。それに何より、お前は俺とじゃ四天宝寺戦で観せてくれた本気をだせない。そんなこと分かってるんだ。全国が終わってから、ずっと考えてた。俺と一緒にやってても、お前はきっと成長できない。俺にはお前は分不相応なパートナーだったんだ。だから―」


『やめよう』


 そう形作られた唇。しかし石田の耳はその言葉を受け入れるのを拒み、脳はその意味を理解するのを拒んだ。

 大会で橘の組んだオーダーは、必ず勝利を掴みにいくものだった。それは、部員の数が元より乏しい上、戦力が均等ではない事に起因していて、それに異を唱える事はしない、というのが暗黙のルール。しかし、そこに鬱屈を抱える者がいなかった、と言えばそれは嘘になる。
しかし不動峰には、変則オーダーに鬱屈を抱えているだけの者の席を準備している余裕はなかった。そんなことは桜井も百も承知で、鬱屈を抱えながらも練習時間が終わってもコートで黙々と練習する姿を石田は何度も見ていた(他の部員だってそうだ。合間を縫ってなんとか自分の能力を磨いていた)。
石田は桜井の抱える鬱屈と努力を知っていた。知っていたつもりだった。だが、たった一言、たった一言『やめよう』と言われて、彼が鬱屈など突き抜けてしまっている事に初めて気づく。

彼は、優しい。そして、強い。

桜井は自分の事を省みながらも、自分の背中を押してやる事を決意していたのだという事実に、石田は愕然とした。
『やめよう』というたった一言が、分不相応だとか、実力差がどうとかいう事柄を並べた『逃げ』ではなくて、あらゆる努力を、あらゆる信念を棄てても、チームを、石田を高めようということだという事実。それがそんなに簡単に決意できたはずもない。それは大会のオーダーによって彼が抱えた鬱屈とは比べ様もないものだ。

「桜井…」

 絞り出す様に呟いた声は震えていた。そこから、数十秒の沈黙が守られた。相変わらず川の流れる音が聞こえて、それが絶え間なく静寂を破っている。

「なぁ、やめようぜ。俺は本気だ。」

 やはり何でも無い事の様に桜井はあっけらかんと言った。推し量れることといえば、彼の顔に載っている笑みから推測される自嘲だけで、でも石田にしてみれば、それすらもどうでもいい事の様に思われた。同時に頭に上った血が爆ぜる。

「やめるわけ、ないだろ!」
「っ…!!」

 石田はグイッと桜井の胸倉を掴んだ。肩にかけていたテニスバッグが落ちる。だがそんな事に頓着する気にはさらさらなれない。

「俺のダブルスパートナーはお前だろ?お前は不動峰のダブルスに必要不可欠なメンバーだ。なんで今更そんなこと言われなきゃならないんだよ!」

 普段、感情を顕わにする様なことの少ない石田の行動に、桜井は瞠目した。だが同時にそれは桜井が抱え込んでいた様々な思いに火を点ける。

「…俺だって、お前と組みたいさ。不二さんたちから勝った時のことなんて、今でも忘れられない。俺にとってダブルスはテニスの中でも一番好きなことだ。やれるもんならダブルスをやりたいさ。でもお前は、お前たちは遠すぎる。岸の向こう側にいるんだ。俺は岸辺の水にさえ足をとられそうなのに、お前は川を渡りきった向こうにいる。追いつけるわけ、ないだろ?」

 そう一気に言って、桜井は胸倉を掴む石田の手を払い退けた。そのまま屈んで手近にあった石礫を拾い上げ、川に向かって投げる。川よりも大分上の歩道から投げたから、土手の上を通り越しても、石はこちら側の岸ギリギリのところにしか落ちなくて、ポチャンと間抜けな音を立てた。

「…届かないんだよ。解るだろ?」

 振り返った彼の顔に載る哀しい様な笑み。それでも、石田はそれを了見できなかった。

「そんなの、お前らしくない。…俺たちらしくない!」

 声を荒げて桜井をきつく睨む。

「泥水啜って、生傷つくって、這い上がって、負けて、それでも喰らいついてきたのが俺たちじゃないか!なんだよ、一歩、二歩俺が先に行ったからって終わりにしようなんて、お前いつからそんな軟弱になったんだよ!」

 桜井の決意が、軟弱なものだなどとは石田も毛頭思っていない。むしろその決意は何より重いものなのだろう。でも言わずにはいられなかった。

「岸の向こうくらい、お前だって行ける。来いよ、遮二無二やって、形振り構わずこっちに来いよ。」

 石田の言葉に、桜井は驚いたように目を見開いた。少しの間そうしていたが、彼は不意に口元に笑みを浮かべた。それは先程までの自嘲ではない。不敵な、そう、彼がコートに立つときに見せる様な高揚や期待が詰まった笑み。

「いいさ、行ってやるよ。川くらい簡単に越えてやるから覚悟しとけよ!」

 そう言って彼は石田に向かって拳を突き出す。石田もそれに応える様に、コンッと自らの拳を彼のそれにぶつける。

「お前が川渡ってこっちに来る頃には俺だってもう二、三本向こうの川にいてやる。覚悟するのはお前の方だ。」

 二人で笑い合って、それを合図にした様にまた川沿いの道を歩き出した。




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夏目様主催『桜井Web企画Sakurai Addiction』様に投稿させていただいた作品2作目でした。

2010/12/16