東風吹かば


 東京の中学生にとって、春休み、なんていうのは貴重極まりないものだ。
 それでも今年は少しいい。祝日のおかげで2,3日長くなる学校が多いだろう。そんな祝日のそこで、杏は柳とファミリーレストランにいた。

「終わんない!おかしいよ、夏休みと違うんだからこんなに宿題いらない!」
「ほら、そんなこと言わず頑張れ」

 そのファミレスで杏が広げている春休み用の宿題冊子を、柳は赤ペンの持ち手でトントンと叩く。
 時は三月末。柳は内部進学で立海の高等部に進学を決めていた。対する杏は、そこまで迫った来年度には受験生である。そんなこともあって、短い春休みのデートは宿題デートと化したのである。

「仕方ないだろう。受験に向けて学校も杏たちの学年に力をいれる時期なんだ」
「やだー、現実逃避したいー」

 春休みだったら、テーマパークとかショッピングだっていいじゃないか、と思ったのは杏だけれど、宿題の多さと難易度に辟易して、宿題を見てほしいと頼んだのも杏だった。それが分かっているから、柳も苦笑してしまう。
 何だかんだ言いつつも、杏は容量がいいし、柳は教えるのが上手い。だから、宿題も残すところ国語だけである。
 笑った柳は、ふと立ち上がってドリンクバーからココアを持ってくる。

「ほら、現実逃避」
「ココアは現実だよ、蓮二さん」

 それに笑いながら、柳はブラックコーヒーを飲んで言う。

「終わったらご褒美をやるから」
「え?」

 不思議そうに首を傾げた杏に、柳はやっぱり笑う。その笑顔に杏は早く終わらせなければ、と思った。だって、春休みのデートなのに、ファミレスで勉強なんて、と唐突に思ったのだ。

「蓮二さん、ごめんなさい」
「なぜ?」
「楽しくないでしょう?私の勉強見たって」
「いや、そんなことはないぞ」

 お前は呑み込みが早い、と言って柳はくしゃっと杏の髪を撫でる。

「この分ならすぐ終わるから、この後ちゃんとどこか遊びに行けるだろう」
「ありがとう、ございます」

 杏は、彼のその言葉に甘やかされているなあ、と思ってしまう。心地の良い甘やかし方、と言うべきか。何の遠慮もないわけではなくて、自分と相手の位置をきっかり分かった上で甘やかしてくれる彼は、やはり優しかった。





「ごめん、これなんて読むの?」

 国語の問題集も最後の一、二問というところで、杏はふと柳に訊ねた。半分くらいは終っていたから、ファミレスでやる分は本当に早いものだ。

「ああ。こち、だな。春の季語だ」
「コチ?」
「東から吹く風。字のままだが、春や夏に吹くひがしかぜ、と言われている」

 それは和歌か何かの問題で、ふうんとうなずいた杏は答えを記入する。それで問題集は終わりだった。

「ずいぶんタイミングがいいな」
「え?」
「いや、こちらの話だ。終わったな」
「うん!ありがとうございました!」
「じゃあ、行こうか」

 立ち上がった柳は、とても楽しそうで、杏はふと首をかしげた。





「うわあ!」

 電車を三駅程乗り継いだ先にあったのは、遅咲きらしい梅のそろった公園だった。柳の言うままについてきたら、咲き揃った梅に迎えられて杏は声を上げる。

「桜には多少早いからな」

 彼が見つけた穴場らしいその公園は、混んでいるわけではないが出店などもあって花見のいい雰囲気だった。

「綺麗ね……ご褒美ってこれのこと?」

 ひとしきり眺めたところで二人はベンチに座った。その頭上にも梅が咲いている。途中法被を着た係にもらったお茶を飲みながらその梅を眺める杏に、柳は笑った。

「いや、これもそうだがな」
「え?」
「目をつぶってくれ」

 伸びた枝が、杏の髪を彩るように梅の花を咲かせる。その髪に、柳は手を伸ばした。

「東風吹かばにほい遺せよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」

 彼の澄んだ声のあとに、ぱちりと音がして、前髪の辺りに杏は手をやった。
 そこにあったのは髪留めで、見えないが、花の形のように思われた。

「髪飾り?」
「梅の花だ。似合うぞ」
「いいの?」
「当たり前だ。今日は誕生日だろう」

 そう言って笑った柳に、杏の顔はパッと明るくなる。

「覚えててくれたんだ!」
「まあな」

 照れくさそうにする柳が、どんな顔をしてこれを買ったのだろう、なんて思いながら、杏はその髪飾りを撫でる。

「さっきのは?」
「ん?」
「和歌でしょう?」
「ああ、菅原道真だよ」

 そう言ってから彼は口許に指を宛てて、これ以上は言わないとポーズを取った。

「春休みの調べ学習」
「えー!厳しいなあ」

 楽しげに笑った杏に、柳は優しく微笑んだ。


 春になれば、忘れずに咲いてください
 そうしてどうか
 私を思い出してください




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杏ちゃんおたおめ!

2014/3/21