「そのホテルなんですか!?」

 朋香は、幸村に言われた滞在先のホテルにこれまた素っ頓狂な声を上げてしまった。実家に帰る前に、明日都内で取材があって、だからそのホテルに一泊するのだ、と言われたホテルは、聞き間違うはずもなく、朋香が今晩、桜乃とリョーマと会食をするはずだったホテルだった。

「えっと、何かあるのかな?」

 幸村が困ったように言うから、朋香は事情を洗いざらい話してしまう。今日、桜乃とリョーマが帰ってくるはずだったこと、そのホテルで一日早いクリスマスの予定だったこと。そうしたら、幸村は困ったように、そうしてだけれど可笑しそうに笑った。

「ぶち壊しだね、ほんと」
「幸村さんのせいじゃないですよ」
「……じゃあ、さ」

 幸村の提案に朋香は目を丸くする。

「え、だって…」
「クリスマスに一人っていうのも寂しいけど、クリスマス前夜の浮かれ切ったレストランに男を一人で放るのは可哀そうだと思って、付き合ってよ」


‘その予約、俺にくれないかな?’


 彼は微笑んでそう言った。





「付き合ってよ、とか言ったけどさ」

 食前酒を一口飲んで、窓際の特等席で幸村は困ったように首を傾げた。

「今思うと不躾すぎるよね、これ」
「なんでです?」

 食前酒のシャンパンを一口飲んだ朋香が不思議そうに応じたら、幸村は当然のことのように言った。

「彼氏、いるでしょ。怒られない?」
「……」

 黙ってしまった朋香に、やっぱり地雷だったか、と幸村は思う。……その地雷の方向性は全く違うのだけれど。

「いませんよ、そんなの」
「え?」
「大学卒業する前に別れたの。だからほとんどまるまる一年フリーですよ」

 トンっと、少しばかり恨み事めいた所作で朋香はグラスを置いた。

「ご、ごめん」
「幸村さんが謝ることじゃないですけど」
「でもさ、じゃあ俺たち独り身同盟かな?」
「なんです、それ?」

 あんまり可笑しいそれに、朋香の苛立ちはするするとしぼんだ。

「言ったじゃない。俺、一人だから週刊誌に狙われてるんだよ」
「私狙われないもの」
「いいなあ」

 ふざけていたら前菜が届いた。美味しそう、と朋香は呟く。それには先程までの悲しげな苛立ちが感じられなくて、幸村はほっとしていた。

(ほっとしたのは、他にもいろいろ)

 心の中だけで呟いた言葉がなんだか可笑しくて、今日は笑ってばかりだな、と幸村は思った。





「あ、桜乃」

 マナーモードのそれがちかちかと名前を示しながら光るのがバッグの端で見えた。食事中に、と思ってパッと手を戻したが、幸村はちらっと目を上げた。

「竜崎さん?出た方がいいよ。明日の便取れたのかな?」
「すみません。じゃあ、ちょっとだけ……ああ、明日じゃなくて今日の夜の便みたいです。今から乗るって」
「今晩飛ぶんだ。良かった」

 クリスマスは一人じゃないね、と笑顔で続けられたので、朋香は可笑しいような、それでいて寂しいような気持ちになる。クリスマス。

「どうせ仕事ですよ、明日も」
「オフィスレディーかあ」
「そういうことです…って、リョーマ様明日仕事なの!?それは聞いてない!」
「え、日本?」
「取材ですって。だから桜乃焦ってたのかあ」

 呟くように言ったら、幸村は「越前は普通に断わりそうだからね」とため息とともに言った。
 一連の流れが済んだと思ったところで、また着信が入る。フライトまでもう少しだから電源は切ったのではないかと思ったら、今度のメールは日本国内の人間からだった。

「げ」
「え?どうしたの」
「すみません、上司が…っと!?え、何これ、意味分かんない…」

 上司からのメールには今の状況が素晴らしく正確に書かれていた。桜乃とリョーマの代わりに幸村と夕食を共にしていること、明日には二人がやってくること、そして最後に書かれていたのは‘貯まり切った君の有給は明日の分受理しておくよ’という文言。

「明日、休み?」
「どうしたの?」
「いや、乾先輩…上司が、明日休んでいいって…」
「乾!?上司なの!?」

 そう言われて食い付かざるを得ないのは幸村だった。そもそも、この難局に小坂田朋香を投入したのは、彼の幼馴染からのメールだったのだから。

「はい。同じ部署で、今日のことは話してあったんですけど…?」
「……謀ったな、蓮二」

 ぼそっと呟いたら、その参謀が視線だけで笑うのが見えた気がして、幸村はデザートのケーキにだらしなくフォークを入れた。

「どうしようかなあ…」
「休んじゃえばいいよ。小坂田さん、いかにも有給貯めそう」
「そうなんですよね。余りまくっててちょっと怒られてたから、休んじゃおうかなあ」

 怒られるほど貯めるって、完全に企業戦士だね、とは言わなかったが、その通りだった。

「どうせ部屋も取ってたし」
「ああ、ここ?」

 普段は車を使わないが、二人を空港から乗せて、一日早いクリスマスをして、お酒を飲むから、ホテルから会社に行くつもりだったらしい。だとすれば、桜乃たちと幸村云々以前の問題として、乾は彼女の‘余りまくった’有給を行使していた気がした。

「だらだらしちゃおう」

 諦めたように朋香が笑ったから、幸村も笑った。

「そうしちゃいなよ」
「幸村さん明日このホテルで取材でしたっけ?」
「そう。だから俺もここでだらだらできるよ」
「そっかあ……なんか不思議な感じですね。もっといるじゃない、幸村さんが日本に帰ってきたら一緒にいそうな相手って」

 それこそ参謀さんたちとか、と朋香が言ったら、幸村はふっと笑った。

「ねえ、小坂田さん」
「はい?」
「小坂田さんさ、空港で会った時、なんで分かったのか、って訊いたよね?」
「え?ああ、まあ」

 こんなに変わっちゃいましたし、と朋香は呟くように言った。
 有給を貯め込んで働きまくって、彼氏はいなくて、仕事が恋人みたいな状態。自分で考えたって、少し理不尽だった。クリスマスは明日。クリスマスなら誰にだって暦上やってくるけれど、王子様は誰にだってやってくるものじゃない、と改めて詮無く思った。

「そんなことない。小坂田さん、ほんとに変わってなかったから」

 幸村は、真っ直ぐと朋香を見て言った。変わりましたよ、と反駁しようとして、朋香はその真っ直ぐな視線にそれをやめる。

「君は憶えていないかもしれないけれど、俺の中の小坂田さんはほんとに‘相変わらず’だったよ」

 ちょっとくらいの面倒も省みず、気にすることなく可愛らしい軽自動車に自分を詰め込んだ彼女は、相変わらずだった。あの日、自分の肩では支えきれないだろう幸村の腕をその薄い肩に掛けて、他愛もない話をしながら歩いたあの日と、少しも変わらなかった。
 不思議そうにぽかんとした顔をする彼女に、幸村は笑いだしてしまった。本当に、素敵な程相変わらずな彼女が、どうしたって愛おしかった。