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いつも兄は先んじていると杏はこんな時にも思う。中学校最後の夏休み、花火大会には行けなかった。それは自分が受験生だからだ、とさすがに分かるけれど、去年の兄はこんなに苦労して勉強していただろうか、とちょっと疑問に思うのも確かだ。
「よく言うじゃない」
くるりとシャープペンシルを回して、杏は昨日の晩に、口にしたことをもう一度呟いた。やっぱり彼女は、その先を言わなかった。
桔平は結局、不動峰の部員にも、千歳にも、何も言わずに高校に進学してからテニスを辞めた。春になって、学校が始まると、「みんな驚いていたよ」と杏は少なくとも嘘ではないことを彼に伝えた。そうしてそのまま、夏が来て、彼らの最後の試合も終わってしまった。
その先を呟こうとして、彼女は階段を昇る音を聞いた。こんなふうに音を立てて昇ってくるのは兄しかいないから、彼女は立ち上がってドアを開ける。多分自分に用事だろうと、何故か分かったからだった。
「なあに」
「いや、勉強ちゃんとやってるかと思ってな」
「サボってなんかないわ」
「じゃあご褒美」
笑いながら言えば、桔平はアイスをのせたお盆を見せた。それに目を輝かせて杏は兄を部屋に招き入れる。
「兄さんも一緒に食べるでしょ」
「ああ」
「なに、これすごい贅沢!」
机の上に載せられたアイスは、杏にしてみればちょっと贅沢なカテゴリーのアイスだった。
「昨日、花火と一緒に買ったんだよ。杏が好きだったなと思って」
「きゃー、お大尽!」
「そんな言葉どこで覚えてくるんだか」
はしゃぐように言ってスプーンを手に取った杏に桔平の顔は綻んだ。昨日彼は、花火が見に行きたいと言っていた杏に花火を買ってやった。庭先で彼女はとても楽しそうに花火をしたのだけれど、彼女は花火が嫌いで好きだと言った。
そうして「よく言うじゃない」と、「馬鹿ね」と、呟くように兄に言った。
誰に言ったのだろうと今日になって桔平は思うのだ。
二人とも、馬鹿だ。
桔平も、杏も、結局同じ瀬に立ってしまう。
「アキラくんたちも、今日は受験勉強かな」
「引退したのか」
「うん、兄さんにまだ言ってなかったね。三年生はみんな引退したよ」
橘さんに伝えてくれと言われたけれど、言わなくたって分かる気もしていたのはそれを杏に言った神尾も分かっていた気がした。だって、去年の今頃、その桔平も引退したのだから。
「みんな高校でもテニスするのかなあ」
ぱくっと冷たいアイスを一口食べてから杏はぽつんと呟いた。
「どうだろう」
甘いアイスが苦いように桔平には感じられた。
彼らがテニスを続けるとして、あるいは辞めるとして、それは桔平のそれとは同質にはなりえない。
彼らには選択肢としてテニスがある。
桔平にはテニスを捨てる以外選べなかった。
どちらがいいなんて言えない。
「自分のために選ぶなら、どちらでもきっとそれでいいんだと思う」
そう桔平は続けた。
彼が始めた二度目のテニスは、エゴイズムだった。
全部とは言わない、言いたくない。だけれど、それは間違いなくエゴイズムで、だというのに「誰かのための」テニスだった。自分本位なのに、それはいつも「不動峰のため」とか「千歳のため」とか、そういう献身をはらんでいた。それは贖罪に似ていた。
誰かのためにテニスをするなんて、どこにも届きやしない。
二度目のテニスの中で、自分のために打った球は、だけれど一度テニスを辞めた理由と同じ球だった。
それがどんな意味を持つのか。もしかしたら千歳も、あるいは不動峰の二年生だった彼らも知っていたのかもしれない。だけれど、その意味を許容できたのは、彼自身と、そうしてその瀬に立つことを選んだ彼女だけだった。
「そうだね。そうじゃなきゃ、歪んでる」
杏はそう返した。昔ならきっと言えない言葉だった。
歪んでいると口にすることは互いに出来なかった気がしていた。
二人は歪みの中にいた。いや、本当は桔平だけがいたはずだった。だけれどいつの間にか杏はその歪みの中にいて、その歪みを許容していた。
利己と利他が混ざり合う歪みの中で、その歪みを許容してしまう。
「馬鹿ね」
昨日、花火をしながら呟いたことを、そうして兄が来る前につい先ほど呟いたことを、彼女はもう一度呟いた。スプーンの上で、綺麗な緑の抹茶アイスが少しだけとけている。
「馬鹿だわ。兄さんも、私も」
「……そうかもしれない」
本当は、思う様兄を詰ればよかったのだろうかと思う時が彼女にもある。
でも出来なかった。
どうしてテニスを辞めたのか、と聞かれれば、それはどちらも同じだった。
不動峰テニス部だって、千歳だって、同じだった。
「どうしてテニスを辞めたのか」、という問いは、そのまま、「どうして裏切ったのか」、という問いになる。
だから、少なくとも裏切られてなんかいない私は兄の方につく、と自分自身に言い訳する。本当は、彼女も兄を詰りたかったのかもしれない。どうして裏切ったのか聞きたかったのかもしれない。だけれど、彼女はどこまで行っても千歳の後輩で、不動峰テニス部の同輩で、そうして桔平の妹だった。
「ひとりは嫌よ」
一年前よりも、ずっと器用に笑って彼女は言った。
「そうだな」
私はひとりが嫌。
兄さんもひとりは嫌。
そんな言葉が隠れている気がした。遠慮するなと言ったって、杏は桔平の妹であることを辞められやしないのだ。
だけれど、器用に、綺麗に笑う彼女を見て、ああと彼は思う。
こんなにも、彼女は大きくなったのだ、と。
微笑む顔を、遠く思った。
それでも、隣にいようとする彼女を思う。
「ねえ、聞いてくれる?」
「なんだ?」
微笑む彼女は、一年前とは別人のようだった。
況や、一度目にテニスを辞めて自分の代わりのように泣いた彼女とは、全くの別人のようだった。
「ごめんなさい、兄さん」
一年前のあの日、彼が遮った謝罪の言葉を、彼女はすんなりと口にした。
苦しげでもなく、微笑んだまま。その笑みの裏にたくさんの思いがあることを彼は知っていたけれど。
窓の外からセミの鳴き声がして、桔平はとけかけたアイスを口に運んだ。
それを見て、思い出したように杏もアイスを食べる。
彼女が何に対して謝ったのか、訊いてみたい気もした。
だけれど、そんなの分かっている気もした。
どんなに頑張っても、彼女は彼に成り代われない。
どんなに手を伸ばしても、隣にいることしかできない。
隣にいてもその手は届かない。
届かなくても、彼女は隣にいてしまう。
隣にいてしまうと知っている。
理解ではない。直感だ。
「知っていることと、解ることって全然違うのね」
「受験勉強の話か」
「そうよ」
笑い合った二人は、だけれどいつも一人きりで立っている。
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2015/08/16