水道の蛇口を捻ると、水が溢れ出した。その当然のことに、半ば感動しながら勢いよく頭に水をかける。水の冷たさに思わず目を閉じたら、水滴が顔にも落ちてきた。塗り固められて、練習の間、流れる汗にも耐えていたワックスが少し流れ落ちて髪がだんだんと落ちていくのが分かった。


水も滴る


今日はいつもと変わらない練習内容だったいうのに、暑くて暑くて練習が終わった途端、着替えもせずにコート裏の水飲み場に走っていた。人目も憚らず髪を掻き回す(ここは人気がないから、人目なんてもの憚るまでもないのだけど)。きっちりと整えてあった髪が見る見るうちに崩れていくが、それも憚らない。
髪がびしょ濡れになったところで体に篭っていた熱がやっと引いて、水を止めて顔を上げた。がしがしと首に掛けたタオルで顔とすっかり崩れてしまった髪を拭く。

「髪、どうするかな。」

  ぽつりと呟いてペッタリと大人しくなってしまった髪に手をかける。タオルで拭いたくらいでは当たり前だが水気は切れず、水を含んで重たくなった毛先を弄りながら、またワックスで固めるのもバカ臭いしな、なんて考えた。今日はこのまま着替えて帰ろうと決めて、水飲み場から立ち去ろうとした時だった。

「桜井……くん?」
「杏ちゃん!どうしたの?あ、女テニも今終わったとこ?」

 突然声を掛けてきたのは、杏ちゃんだった。それだけならいつものことなのだが、なぜだか杏ちゃんの目が丸くなっている。何だか様子がおかしい。いつもなら手を振りながら駆け寄ってくるのに、俺の方をじっと見つめて動かなくなっている。

「どうかした?」

 とりあえず聞いてみたが、杏ちゃんは驚いたように口をはくはくと動かしている。本当にどうしてしまったのだろう?首を傾げたら、ぽたりと髪から水滴が滴り落ちて、地面に染みを作った。

「そ……れ!!」

 首を傾げることで、自重に従って流れた髪を指さして杏ちゃんはやはり驚いたように声を上げた。しかし、これがどうかしたのだろうか?毛先からはまだポタポタと水滴が落ちている。

「これ?なんか変かな?」

 髪を一房抓まんで自分でも眺めてみるが、何らおかしいところは無い様に思われた。ただのワックスが落ちて水に濡れた髪だ。特に変わったところも無い。それでも杏ちゃんは相変わらず驚いたような様子で、それどころか顔が紅くなってきている。ここまできて、心の中に焦りが生まれた。もしかしたら自分は気づかないうちに彼女に何か重大なことをしてしまったのではないか、という焦り。それはすぐに行動に現れた。とりあえず、根本的な原因と思しき髪にすばやくタオルを被せる。

「あ!」
「え!?」

 タオルを被せた途端に、杏ちゃんの口から短い悲鳴の様な声が漏れた。隠しきれてなかったか?それとも他に何かあるのだろうか?もう何が何だか分からない。

「えっと……どうか、した?」

何度目か知れない疑問を口にすると杏ちゃんは、今度は困ったような顔をして近づいてきた。そして躊躇いがちにタオルに手を伸ばす。

「杏ちゃん?」

 突然の行動にどうしていいか分からずに名前を呼ぶが、その間にするりと髪からタオルが杏ちゃんの手に落ちた。ぺしゃんこの髪がさらけ出されて、それが杏ちゃんの変調の原因だったことに思い至った俺は、思わずそれを隠そうと腕を伸ばすが、彼女はすかさずそれを捕まえる。その手に込められた力は振り切ろうと思えばいくらでもふりきれるものだったが、あえて抵抗はしなかった(女の子を突き飛ばすような趣味は俺にはない)。だが、じっと見つめられてなんだが居心地が悪い。そうやっているうちに、杏ちゃんの頬がますます紅くなる。

(恥ずかしいのは、こっちだ!)

心の中でそんなことを叫んでみたが、彼女に聞こえる訳も無く―

  だんだんと自分の頬も紅潮してくるのが分かった。この体勢はダメだ。なんだかいろいろとよろしくない。じっと見つめる彼女の大きな瞳に耐えかねて、視線を逸らして、しどろもどろに言葉を紡ぐ。

「杏ちゃん、えっとね、この体勢はちょっと恥ずかしいんだけど……俺の髪、何か変かな?」

 意を決して(目を逸らしてはいたけど)聞くと、杏ちゃんもこの体勢のおかしさに気づいたのか、捕まえていた俺の手をパッと放して顔を背けた。ちらりとそれを見やれば、耳まで紅くなっている。しかし、彼女は視線を俺に戻し、ゆっくりと口を開いた。

「桜井くんが、ね。髪、下ろしてるの初めて見たから……」
「えっ、そうだっけ?」
「そうだよ。それでね、なんだかいつもと違うから、ちょっと、どきどきして、それで……」
「どっ、どきどき!?」

 杏ちゃんの言葉にこっちがどきどきしてしまう。どきどきってなんだ、どきどきって!!突然出てきた単語に上手く思考が追いつかない。

「それで……かっこいいなって、思って。」
「かっ……!?」

 絶句。こんな台詞、アキラあたりが聞いたら卒倒するんじゃないだろうか?いや、俺だって卒倒しそうだけれど。

「ねぇ、なんでいつも下ろしてないの?オールバックもかっこいいけどさ、私は……その、髪、下ろしてるのも好きだな。」

 絶句状態が解けない俺に『好き』だなんて核投下もいいところだ。いや、意味は違うんだろうけど。頬を紅潮させて話す杏ちゃんの姿はどうしようもなくかわいい。

(アキラが入れ込むのも分かる……分かってしまった……)

「とにかくね、不意打ちで髪下ろしてる桜井くん見ちゃって、どきどきしちゃって。えーとね、かっこいいから、たまには髪、下ろしてね?」

 彼女のかわいいお願いに、俺は思わず何度もうなずいていた。

「タオル、返すね。風邪ひいちゃうと悪いから、着替える前に髪、しっかり乾かしてね!」

そう言い置いて逃げるように走り去った杏ちゃんの後ろ姿を俺は惚けた様に見つめていた。




それから、彼女に『髪下ろして』と言われると、ワックスがついたままでも、櫛でトレードマークのオールバックを下ろしてしまう自分がいる―


水も滴る、イイ男




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桜井Web企画Sakurai Addiction様に恐れ多くも参加させていただきました。周りの皆様の作品が素晴らしすぎてかなり浮いてますが…
書いておいてなんですが、杏ちゃんも私も桜井のトレードマーク、オールバックが大好きです!!でもたまには違う姿の彼も見てみたいなぁということであえて下ろしてもらいました。というかワックスは水では完全には落ちませんよね;;
リンクにも繋いでありますが、桜井Web企画、絶賛応援中です。桜井の楽園、ぜひ行ってみてください。
2010/10/29