木曜日
駅前のコーヒーショップには、ぽつりぽつりと学生の姿が見受けられる。入口近くで、桜乃と朋香は人を待っていた。待ち人は、一つ年上の橘杏だ。
「杏さん、急に話したいことがあるなんて、どうしたのかな?」
不安げに言った桜乃に、朋香もわずかに首を傾げる。
「うーん、分かんない。どうしたんだろうね」
クエスチョンマークを浮かべる二人の下に、「ごめんごめん」と手を振って、待ち人が現れた。
「好きなのを選んで」と、杏は二人に言った。そう種類があるわけではないが、いくつかあるケーキを示されて、二人は困惑してしまう。そもそも杏は、先に頼んだキャラメルマキアートとチャイの代金も払うと言っているのだ。一体どうしたというのだろう。
この三人の組み合わせで出掛けることは、少なくない。映画に行けば、年長の杏がポップコーンの代金くらい持つこともあったが、こうも全て、それも中学生にしてみればかなりの贅沢を、払うと言われれば、さすがの二人も訝しんでしまう。
「何かあったんですか、杏さん?」
「……こんなに、払ってもらったら怒られます」
「えっと…まあ、たまにはお姉さんさせてよ」
二言、三言の押し問答の末、結局ケーキは取りやめになったが、飲み物の代金は、きっちりと杏が払った。
人の少ないスペースを選んで、四人がけの席に座る。
「で、後輩におごってまで話すことって、そんなに重大なことがあったんですか?」
おごってもらったチャイを一口飲んで、朋香が切り出した。おごってもらえる、というだけで、初めて頼んだそれは、シナモンの香りが少し強い。なかなか美味しいのだが、カフェラテを前に、考え込んでしまった杏を見ると、その香りが、まるで苦味のように感じられた。
例えば、「青学に練習試合を申し込みたいんだけど、取り次いでくれない?」とか、そういう単純な頼み事で、彼女がここまでするとは考えにくい。
杏にしては珍しく、言葉を選ぶように考え込んでしまった。
「杏さん、大丈夫ですか?」
桜乃の問い掛けに、はっとしたように顔を上げて、杏は小さく微笑んだ。その笑顔を見て、朋香は、こういうのを、あの博識な先輩なら何と言うだろうか、と思わず思いを巡らす。『キョセイだな』と、彼が言う姿が思い浮かんだが、あいにく、その字までは思い浮かばなかった。
だがそれは、彼女が考えた通り、完全な虚勢だった。無理やり作られた笑みは、どこか苦しげで、それは桜乃にも伝わった。
それは、爛漫な彼女にはあまりにも似つかわしくない。それで考えた事の重大さに、二人は、知らずごくりと唾を飲む。
「二人はさ……」
意を決して、という風に、杏は口を開いた。
「はい」
「二人はさ、好きな人にデートに誘われたら嬉しい?」
その質問に、二人はぱちくりと目を瞬かせた。それから、朋香が反応する。
「何言ってるんですか、杏さん!嬉しいに決まってますよ!」
「とっ朋ちゃん、声が大きいよ!」
杏の口からこぼれた台詞に拍子抜けしたのを隠すように、朋香は大声を出して身を乗り出した。慌てて桜乃がそれを制する。
「そうだよね……嬉しい、よね」
だが、その朋香のオーバーリアクションにもたいして反応せずに、彼女はまた俯いてしまう。
「あ…杏さん?」
「どうしたんですか?」
心配そうな二人をよそに、杏はカフェラテを一口飲んで、それからため息をついた。
「嬉しいよね、普通……」
「普通」という台詞に、朋香はちょっと眉を上げる。
「誘われたんですか?好きな人に?」
口数がめっきり少なくなってしまった杏の、それでも彼女の口からこぼれた言葉を一つずつ組み合わせて考えると、そういうことになるだろう。彼女はこくんとうなずいた。
「でも…杏さん、えっと、なんて言うか…」
嬉しくないんですか?と言ってしまうのは、あまりにも直截な気がして、桜乃は言葉をためらう。
「好きな人って言うか、付き合ってる人にね、誘われたの」
「え!杏さん、付き合ってる人いるの?」
「いるよ、一応」
そう言ってから、何だって、付き合っている相手からの誘いに、二つ返事で応じられないのだろうと、彼女はまたため息をついた。
「えーっとですね、まとめると、杏さんは付き合ってる人がいて、その人のことが好きで、だけど、デートに誘われたら…嬉しくないってことですか?」
それは、『まとめ』と自分で評しておきながら、なんだかあべこべな気がして、言葉の最後が頼りなさ気だ。
「簡単に言えば、そういうこと」
今日何回目だろう、フーッと息をついて、杏は朋香に肯定した。
「なんで、ですか?あの…だって、せっかく好きな人なのに…」
桜乃の問いに、杏は困ったというように眉を下げた。ここまできて、言わない、という手はないだろうということは、彼女自身分かっていて、だが、二人を目の前にすると、昨日した決意がぐらぐらと揺らぐ。言ってしまえば引き返せない―そんな壮大な悩みだっただろうか、と自分でも思うのだが、それくらい壮大な悩みにしてしまったのは他ならぬ自分だ、ということも杏は痛感していた。もっと早く、彼女たちに、あるいは彼らに話しておけばよかった。たったそれだけのことだったのに、上手くいかない。
「あのね……言っても驚かない?」
「……」
その言葉には、肯定も否定もしかねるだろう。『驚かない?』なんて、内容によるに決まっている。そして多分、そうやって聞くということは、『驚く』ことが前提だ。それは、彼女も分かっているようで、心を落ち着けるように一口カフェラテを啜ると、返答を待たずに、口を開いた。
「私、柳蓮二さんとお付き合いしてるの」
「柳…さん?」
「レンジ?」
告白は、二人にしてみればあまり重みがなかった。仕方ないだろう。柳蓮二と言われても、ピンとくるほどの繋がりが、二人と彼の間にあるはずもない。だが、こう言えば二人にも分かるのを、杏は知っていた。
「立海の参謀、達人、柳蓮二」
そう言うと、見る見るうちに二人の目が大きく見開かれていく。
「ええ!?あの、糸目の?乾先輩と仲のいい?」
「立海の…ですか?」
合点がいったらしい二人は、顔を見合わせてそれから杏に向き直る。
「えっと…」
「聞いてないですよ、立海の参謀なんて!!」
言葉を選ぶ桜乃を押し退けて、朋香が噛み付くようにそう言った。
「言ってないもの」
誰にも、と付け足そうとして、杏は思わずそれを飲み込んだ。
そうだ、彼女はこのことを誰にも言っていなかった。言っていなかったというか、言えなかったという方が正しいかもしれない。言えなかった。彼女たちにも、そして、彼らにも、兄にも。初めから話しておけば、こんなことにはならなかったはずだ、と考えて、杏はまた自己嫌悪にかられる。
まだ何か言いたげな朋香をよそに、桜乃がおずおずと口を開く。
「あの、杏さん…」
「どうしたの、桜乃?」
びっくりした、というところだけを取り出してしまっている親友に、軽く目配せすると、彼女もそれに気がついたのか、その目に宿る驚きが、焦りに似たものに変わっていく。
「杏さん…あの、デート、に誘われても嬉しくないってことは…その、もしかして、橘さんたちは、このことを…知らないんですか?」
桜乃の言葉に、杏はびくりと肩を揺らす。分かり易い人だ、と思わず朋香は思ってしまった。
「…そう、なの。知らないの」
それが、多分、今日言いたかった一番のことなのだろうということが伝わってくる。まるで、重罪を告白するように、彼女はそう言った。実際、彼女にとって、それは重罪に等しいのだろうということは、二人にも分からないでもない。
だって、あの立海の参謀だ。彼女の兄の件も相まって、立海は、不動峰の最も嫌う学校、と言っても過言ではない。その元レギュラー、参謀となれば、彼らがそう易々と彼女との付き合いを許すとも思えないように、桜乃には感じられた。もちろん、彼らが私怨によってそう言うのではない。ただ単純に、彼女が傷つくことを避けるために、付き合うことを認めない、そういうことだ。それは、ともすれば、柳の極めてパーソナルな人柄、あるいは杏個人の感情の問題を軽く超越する事があるかもしれない。少なくとも、とりわけ兄に対しては、杏にそういうところがあるのを、二人は知っていた。
「杏さん、でも、何の理由もなくて付き合ってるわけじゃないでしょう?」
朋香の問い掛けは正しい。何の理由もなければ、彼女はむしろ、立海のメンバーなど避けて通るところだろう。それに、また一つうなずいて、杏は、柳との出会いや、なぜ好きになったかなどを掻い摘んで説明した。
彼が、兄の力を認めている。その上で、謝ってくれた。彼女の兄にではない、彼女に、だ。そして彼は不動峰のことを確かに認めている。そこが重要なことのようで、それは二人にも分かった。
しかし、そういうところだけでなく、言葉の端々ににじむ愛情に、幸せなんだな、と感じて、桜乃は微笑んだ。
「泣いてばっかりなの、柳さんといると。全然悲しくはないのに」
「罪な男ですねえ」
はあっと息を吐き出して、朋香は冷めかけのチャイを口に含んだ。
柳の話をする杏は、思うよりずっと楽しそうで、二人は胸をなでおろす。だが、根本的な解決には至っていないことも確かだった。
しかし、多少の解決はみている。この二人に彼とのことを話す、というのは、彼女にとってかなり勇気のいることになってしまっていたから。そして、二人は彼とのことを否定したりはしなかった。ある意味で、それは杏が踏まなければならないと「思っている」段階をクリアしている。
「行けばいいのに、デート」
「え……」
何でもないことのように朋香は言った。多分、彼女がほしいのはこれだと当たりをつけて、そう言ってやる。
「別に、誰も怒ったりしませんよ、デートくらい。て言うかですね、杏さんがそんなに柳さんのこと好きなのに、反対したりしたら、私が怒鳴りつけてやりますよ、それが橘さんだって!」
「そう、ですよ。橘さんたちに、いろいろ言えるとは思わないけど、私も、デート行ってきたらいいと思います。杏さん、ちゃんと柳さんのことが好きなんだから」
二人の小さな後輩にそう言われて、杏はほっと息をついた。たったそれだけの肯定。それが欲しくて、でも手に入らなくて迷走していた自分が、なんだか滑稽だった。というより、こんなのは自分には似合わないのだ、と、杏は常々思ってきた。馬鹿げている。誰かの許可がなければデートもできないなんて。そこまで事を大きくしてしまった自分が、やはり滑稽だ。
「ごめんね」
「何がです?」
「…こんなこと、言われたって困るだけじゃない、普通」
「そんなことないですよ」
応じたのは桜乃だった。
「杏さんが幸せそうで、嬉しいから、こう言うんです。もし、そうじゃなかったら、えっと…」
「その柳って男を叩きのめしてやりますから!」
彼女の言葉を、いささか攻撃的な朋香の声が継ぐ。二人の姿に、杏はまた安堵の息をついた。
ジュリエットの安息
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思わぬところで実現した女子会!女子会…?何か違う気がしないでもないけれど、女の子可愛いです。
2012/4/12