桃之夭夭


(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)

 混乱する幸村精市を余所に、小坂田朋香はこてんと首を傾げた。

「幸村さん?」

 青春学園中等部の敷地内で、二人は互いに顔を見合わせた。





「……あれ」

 時は遡って、半年と少し前。昨年の秋の真ん中頃に行われた青学と立海テニス部の合同練習に、幸村は参加していたはずだった。
 最後の記憶は、日差しが強いな、というもので、そこから先の記憶はない。全国大会前の入院は、多少尾を引いているらしく、免疫力不足の風邪気味か、という体で参加したのが悪かったのかもしれない、とぼんやり思った。
 何せ、秋だというのに強いと思った日差しの代わりに目に入ったのは蛍光灯で、保健室かどこかに横になっていることは明白だった。

「あ、気が付きましたか?」
「…?」

 シャッと控えめな音を立てて仕切りのカーテンが開く。そうして少女がやってきて、ベッドサイドにボウルを置いた。

「えっと、俺、倒れたかな?」
「はい。びっくりしました」

 少女は答えて、起き上がろうとした幸村の肩を押す。

「まだ寝ててください。ずっと気を張ってたからだろうって、柳さんが言ってました」
「えっと…」

 声を掛けようとしたが、名前が分からない、と彼はぼんやり思う。そうしたら、彼女はボウルから水で冷やしたタオルを取って、彼の額に当てる。

「誰でも倒れますよ。今日はもう残暑ってレベルじゃないもの」
「それもそうだね」

 病気によるブランクを暗に否定してくれるような言葉が、どうにも心地よかった。だけれど、彼女は病気のことなど知らないかもしれない、とも思う。そうだとしても、なんだかもうどちらだって良かった。

「君、青学のマネージャーさん?」
「あ、臨時です!臨時っていうか、応援?マネージャー的なことは何もしてないんですけど…」

 していない、と言いながら、現に保健室に付き添っているじゃないか、と思って幸村がきょとんと目を瞬かせると、少女は困ったように笑った。

「桜乃…女テニの友達も今日は立海と合同練習で」
「そういえば、そうだったね」

 そういえば、今日の青学での合同練習は、男女ともだったな、と幸村は思う。男女ともに三年生は最後になるだろう対外練習だった。

「応援に来てたんです。そしたら幸村さんが倒れて」
「え、ちょっと待って!君、女子の応援に来てただけの子なの!?」

 ガバッと起き上がりそうになった幸村の肩を制するように押して、彼女は厳しく言った。

「まだ寝ててください!ほんと、みんな無理しますね!」

 今飲み物持ってきますから、と言い置いて、彼女は一度ベッドから離れる。保健室の端にある冷蔵庫の方に見えた少女の後ろ姿は、幸村にしてみれば小さかった。小さくて、幼く思えるのに、何のためらいもなく自分に付き添ったのか、と思うと、ペットボトルを持って振り返った彼女がひどく眩しかった。

「何かついてますか?」

 私の顔、と言った彼女は冷えたスポーツドリンクを差し出す。
 それに首を振って、今度は怒られないようにゆっくり起き上がって受け取ると、彼女は笑った。

「常温がいいとか乾先輩なんか言いそうだけど、今日は暑いから、冷えてるやつで」
「ありがとう」

 ふふっと笑った彼女に、幸村は釘付けになって、それからゆっくりたずねた。

「君の、名前は?」
「私は―――」





「小坂田さん!」

 久しぶり、と、フリーズ状態から脱した幸村は、結構な声量で朋香の名字を呼んで、それから久しぶり、と続けた。不自然極まりないが、朋香はそれをあまり気にしている様子でもなかったから、彼は安心したように息をついた。

「幸村さん、青学に用事ですか?」

 きょとんと首を傾げて訊かれ、幸村は狼狽する。なんでここに朋香がいるんだろう、と。自分は青学は青学でも高等部の敷地にいるはずで、帰り道で、と必死に頭を回転させていたら、朋香も不思議そうにこちらを見てくる。
 それに耐えきれずに幸村はばっと顔を逸らした。
 何てったってアイドルというやつである。あの日保健室で名前を名乗った小坂田朋香という少女は、今でも幸村の小さなアイドルだった。
 あの日のあとで、朋香のことをぽつぽつ真田や柳に聞いて、それはますます強くなった。
 担架を出したら、本気で心配したらしく、大石に許可を取って保健室についてきてくれたことだとか、練習があるだろうと言って見ていてくれたことだとか。

『マネージャーとかそういうのとは全く関係ないらしいのだがな』

 最終的に言われた真田の一言が決定打だった。申し訳ない気持ちもあるが、同時に強い憧れが幸村の中に芽生えた。
 憧れだった。何の衒いもなく手を伸べる小坂田朋香という少女に最初に抱いたのは憧れで、憧れはそのまま淡く色づいた。

「幸村さん?」

 などというのは、しかし今の状況には全くそぐわない訳である。

(なんで!?)

 憧れにしろ、淡い恋心にしろ、それがあるとしても、いや、むしろそういった感情があるからこそ、突然、何の準備もなくその相手と出会って全てを上手く対処できるほど幸村は完璧人間ではない。

「ゆーきーむーらーさん?」
「はいっ!」
「えっと」

 返事をされたが、朋香もそんなに威勢のいい返事を求めていた訳ではないので少しばかり困惑する。幸村らしからぬ行動、と思われた。
 あの日、幸村の方は朋香のことを初めて知ったのだが、朋香の方はそうでもなかった。もともと立海の部長なのだから、全国大会などでも見知っていた。だが、朋香にとってもそういった全部を勘案に入れても、幸村の今のぼんやりした、それでいて混乱している姿は想像の範疇外だった。

「道に迷ったんですか?」

 高等部との連絡通路を指差して、朋香はきょとんと訊ねる。

「あそこの廊下通って、こっちに下りちゃうと中等部だから」
「そう、みたい」

 幸村がぼんやりしているのは道に迷って、行くべき方向が分からないため、と判断した朋香は、彼の返答に納得したようにうなずくと、言った。

「どこ行くんですか?案内しますよ」
「あ、いや。小坂田さんもいろいろあるでしょ?案内見てちゃんと帰るよ」
「あれ、もう帰るとこなんですか?」
「うん。高等部の方の合同練習の件でちょっと来てただけなんだ」

 じゃあこっちですね、と朋香は生徒通用門へと幸村を案内するべく前を歩いていってしまう。本当に、何でもないことのように。

「変わってないなあ…」

 その背中に呟いたら、朋香がふと振り返った。だけれどその呟きは、聞こえては、いないだろう。

「何でもないよ。ありがとう」

 素直に言ったら、花開くように彼女の顔がほころんだ。





「良いことあったなあ。プレゼントみたい」

 校門よりも近道である生徒通用門から駅の方へと歩いていく幸村を見送りながら、朋香はぽつりと呟いた。手に持った携帯には、話の流れで幸村のアドレスが入っている。
 憧れの男子の、しかも学校も学年も違う人と、また会う日が来るなんて、と思いながら、朋香はその携帯を見て小さく微笑んだ。
 そうしたら、そのマナーモードの小さな機械が着信を告げる。親友からのそれに、朋香はハッとして駆けだした。

「ヤバ!遅れる!」

 主役が遅れたら、それこそ桜乃や杏に申し訳が立たない、と思って、朋香は幸村の通ったそこを通り、彼が行った駅とは逆の道へと行く。喫茶店で、桜乃と杏が待っているから。
 ……駅へと向かった彼は、今日が彼女の誕生日だったなんて、もちろん知らない。




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朋香誕生日おめでとう!
タイトル:四言古詩「桃夭」より

2014/4/17