千歳さんと兄が同じコートに立っている―それは杏にはにわかには信じられないことだった。

 関東大会の折、ふらりと見せた姿を追おうとしたのを兄に止められたのは、記憶に新しい。今思うと、あの時、橘も千歳こうしてまた戦うことを予見していたのかも知れない。

「あの人…やっぱり関東大会の時橘さんに声かけたやつ…」

 ぼそりとつぶやかれた声に、杏ははっと我に返った。

「千歳さんは―」

 自分の知る限りのことから少しだけ私情を差し引いて、不動峰の皆に千歳と橘のことを説明しているうちに、試合はどんどん展開していく。

「千歳さんの右目は…」

 最後まで話をしてから、杏は消え入るようにつぶやいた。試合は千歳が無我の境地を発揮し、まさに佳境に差し掛かっている。

「杏ちゃん?」

 心配して声をかけた神尾の声は杏には届いていない。
 右目の容態は、何度も兄にたずねた(兄は千歳とたびたび連絡を取っているようだったから)。その時の返答はいつももう治ったで、今日も試合の直前に「もう治った」と千歳が明言している。

「…じゃあ、どうして…どうしてお兄ちゃん」

 またぽつりと杏がつぶやいた時、桔平の構えが変わった。

「!?」
「橘さん!」

  不動峰の皆に押されるように桔平が放ったのは、暴れ球だった。その瞬間、杏は目を閉じた。

千歳さんは絶対にこの球を返せる。だって、お兄ちゃんは―




  九州二翼の対決という劇的な最後に終わった試合の後、杏は会場を駆けずりまわっていた。やっとのことで見つけた四天宝寺のメンバーはちょうど会場近くの自販機で涼んでいるところだった。

「ちと…せさん!」

走ってきた杏に、千歳は思わずしまったと舌打ちした。それでも平静を装って千歳は笑う。

「どげんしたとね、杏。そないに急いで、桔平たちと一緒におらんでよかか?」
「あらぁ、不動峰のマネージャーさんやない」
「せや、千歳、知り合いなんか?」

わらわらと騒ぎ出したメンバーに軽く手を挙げて、千歳は集団からちょっと離れて杏の頭をなでた。

「千歳さん、あの、ね…」

昔と同じように笑う千歳に、一番したかった質問をぶつけるのを杏は一瞬ためらった。それは兄と千歳と自分の間にある、越えられない壁のように感じられたからだ。

「どげんしたとね?」

いよいよいぶかしんで聞く千歳に、杏はありったけの勇気を振り絞って言った。

「…千歳さん、目はもう見えるの?」

  そう言って顔を覗き込んでも、両目の色は同じで、見た目だけでは彼の目が治ったかどうかは判断付きかねた。

(言われてしもうたか…)

  心中、苦虫をかみつぶしながら、しかしそれを表に出さずに千歳は笑い続けた。

「おう、もう治ったとよ!」

  ぐっと顔を近づけてきた千歳に、杏は思わず目を見開く。

「だけん、杏のかわええ顔もよう見える。」

  にかっと笑った顔は昔と変わらなくて、それが杏には余計つらい。大好きだった笑顔が悲しくて、歪んでしまった顔を隠すように杏は俯いた。

「ウソばっかり…」

  沈みきった声に、今度は千歳が顔を曇らせる番だった。

「ウソて…」

  言いかけた言葉は、弾かれたようにあげられた杏の泣き顔に遮られた。

「千歳さんもお兄ちゃんもウソばっかり!ウソやん、見えてへんのやん!お兄ちゃんかてわかってるくせに治っとるって言う。さっきの暴れ球だって、わかってたから返せたんやん!せやから千歳さんに直接聞いたんに、千歳さんまでウソつく!いつまでたっても私ばっかし子供扱いや。」

  飛び出した訛りは、千歳にどうしようもない懐かしさを感じさせた。桔平の口から聞くのとは違う懐かしさ。でもその内容は、杏にはどうしても言わせたくなかった内容だった。

「子供扱いって、杏…」
「子供扱いよ!何がもう治ったよ!お兄ちゃんはフォアサイドに一球も打たなかった。千歳さん、見えてないんでしょ?あんな風に別れたのに何の連絡もよこさないで、そんなにあたしは…そんなにあたしは踏み込んじゃいけないの?私が東京に行くって決まったとたん別れようなんて、言って、目のことも何も教えてくれなくて…!」

  ぼろぼろと泣きながら言う杏に、千歳は本当に困ってしまった。
  できるなら、自分のことなど忘れて、中学生らしく彼氏でも作って、笑っていてほしかった。自分は杏の笑顔が一番好きなのだから。目のことも杏にだけは心配をかけたくなくて、桔平にも黙っておくように言っていた。というか、目のことを杏に言わせるのは負けだと思ってきた。それは自分と桔平のことに巻き込んで別れさせたことを杏に認めさせることで、それだけはしたくなかった。それはもうほとんど千歳のエゴだ。だがその一線は杏に越えられてしまった。

「泣かんで、杏。俺が困る。」

  抱き寄せてしまいたいのをこらえて、頭をなでるが杏は泣きやまない。もう別れたのだ、もう治ったのだ、もう杏は自分の腕の中にはいない、そう自分に言い聞かせて、繰り返しさらさらと指通りのいい髪を梳いてやるが、やはり杏は泣きやまない。

「だって、私は…」

  しゃくりをあげる杏に千歳は本当にまずいと思った。この先は、言わせてはいけない。

「杏、そろそろ戻らんといけん。」
「千歳さん!」

  これ以上はだめだ。これ以上踏み込んではいけない。これ以上踏み込ませてはいけない。

「ごめんな、杏、」
「私は千歳さんがまだ好きなのよ!」

  杏はしゃくりをあげながら千歳の袖を引いた杏を前にして、千歳の中で築いていた一つの籠城が決壊してしまった。

「…ッ!」

  千歳は袖をつかんだ杏を引き寄せて杏を抱きしめた。

「…そんなん、知っとる。」

  一番言わせたくなかった一言。しかしそれが千歳の中で氾濫する。
一番言わせたくなかった言葉が、一番聞きたかった言葉だったという矛盾と愉悦。

「俺だって、まだ杏のことが好きばい。」

腕の中で瞠目するかわいいかわいい彼女を抱きしめながら、たった一言でよかったことに千歳は苦笑する。

「こんなこつのために、泣かせてしもうたな。」

  もう一度、今度はもっとちゃんと、頭をなでる。もう放さないように―


もう一度、と―




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元カレカノ千歳杏でよりを戻す話でした。OVAの設定をちゃっかり無視。千歳杏大好きです。
2010/10/28