「甘くて美味しい」
そう笑ってペットボトルを返してきた彼女に、これって間接キスやん、と独りでに顔に熱が集まるのを感じた。
「あ、そうだ謙也さん。私も橘だとお兄ちゃんと混ざっちゃうから名前で呼んでください。」
「え…」
そう言われて思わず情けない声が出る。自分で言っておいてなんだが、名前で呼ぶとかちょっとハードルが高い。俺はこの橘杏という少女のことを大分気に入ってしまっていたから。
『神尾くんってかわいかったわね〜』
『そうか?小春の趣味にはかなわんな。…俺はあのマネの子結構かわええと思うな』
『ま、いくらかわええ思ったかて、へたれの謙也さんには無理っすわ』
『財前ー!』
不動峰との対戦の後、そんな会話をしたのを覚えている。
見たか財前!と言ってやりたいところだが、今の状況では言えない。
「別に橘でもいいですけど…」
「え!?いや…う、えーと…杏…ちゃん」
「はい!」
弾みで呼んでしまうと杏ちゃんはパアッと、それはもう花が咲いたような笑顔で返事をした。
(か…かわええ…!)
話を続けなければ、と、思うのに顔が熱くなる。ここは日陰で、日焼けもしているから,きっとバレはしないだろうけれど俺の顔は多分真っ赤だ。
「えーと…杏ちゃんはテニス強いん?」
適当に言ってみると杏ちゃんはかくんと首を傾げた。
「どうかな?お兄ちゃんとかアキラくんと打つこともあるけど」
「凄いやん、あの二人と打ち合うなんて」
素直に驚いた。神尾は実際に試合をしてみて、体の割に重い球を打ってきたし(師範の弟程ではないが)、橘は言うまでもない。勝ち気そうな彼女の性格からして、手加減などすれば腹を立てるのは容易に想像できるから、多分ラリーはかなり重い球の応酬なのだろうと思うとやはり凄い。
「あと桃城くんともやるかな。見かけの割に重い球を打つって言われたことはありますよ」
その言葉に俺はさらに驚いた。
「桃城って青学のか!?」
「ええ。ストリートテニスでたまに」
何でもないことの様に言ったが、彼女は相当強いのかも知れない。
「なあ、良かったら今度俺と打たん?」
結構真面目にそう言うと、ぷっと杏ちゃんは吹き出した。
「謙也さん、大阪でしょ?ほんとにみんなテニスバカなんだから」
「あ…ほうか、せやんな」
考えてみればずいぶんバカなことを言った。彼女は東京で、俺は大阪。俺たちは全国大会で対戦しなければ何の接点もなかった、そんな関係なのだ。
「でも私、そういうの嫌いじゃないな」
「え…」
ぽつりと呟かれた言葉に目が丸くなる。
「そういう、テニスバカな人、好きです」
そのセリフに俺はフリーズしてしまった。
(落ち着くんや俺、テニスバカいうんは橘とか神尾とか桃城も含めての事や、何も俺だけを指して言うとるのとちゃう!)
「謙也さん?」
一人思考に没頭していると、横から杏ちゃんに声を掛けられた。
アカン、これ以上はマジで保たん!
「お、俺、そろそろ戻るわ!」
早口に言って俺はその場を立ち去った。
「行っちゃった…」
杏はぼうっと謙也の背中を見送りながら、スポーツドリンクに口をつけた。
「そう言えばあのオレンジジュース…!やだ、間接キスじゃない!」
真っ赤になった杏の顔を謙也は知らない―
「どこまで行っとったんすか謙也さん。スピードスターが聞いて呆れますわ」
「うっさいわ財前!いろいろあったんや!」
悪態をつく財前を叩いてギャラリーの席に戻ると彼は、にたりと嫌な笑みをこぼした。
「まあええですけど。謙也さんのおらん間にへたれな謙也さんのために情報収集してやってん」
「へたれは余計やボケ!」
もう一度財前の頭を叩く。しかし彼の顔から笑みは消えない。見回せば師範以外の全員が財前の様な嫌な笑みを携えてこちらを見ているではないか。
「な…なんやお前ら…」
ちょっと引き気味に言うと、財前はスッとあらぬ方向を指差した。指の先には会場に戻ってくる杏ちゃん…杏…ちゃん!?
「な、なん!?」
「謙也さんが気に入った言うてた娘ぉですわ。ね、千歳センパイ」
笑みを深めて財前が言うと千歳が申し訳なさそうに、しかし楽しそうに言った。
「ありゃ桔平の妹の杏たい。テニスが好きで部活に入っとるけん、マネやなか」
知っとる、と言いそうになった口元を思わず押さえる。次いで師範が口を開いた。
「ワシも鉄から聞いとる。マネージャーやないのによく助けてくれはるええお嬢さんやと。ずいぶん橘はんとテニス部に尽くしてはるようや」
こちらは本当に申し訳なさそうだ。きっと白石あたりに無理矢理口を割らされたのだろう。悪いことをした。
「だ、だからなんや」
「それはないやろ謙也、せっかく俺らが基本情報集めてやったんに」
フーッとわざとらしく息をついた白石。やはり主犯はコイツと財前か。
「蔵リンの言うとおりよ〜。恋の応援してあげてるんだから素直にならんと」
小春がたたみかける。こういうのを余計なお世話、と言うのだ。
「余計なお世話、や」
口に出して言ってやる。視線の先で杏ちゃんが神尾と何か話しをしているようだった。
「まあモノは試し、聞いときなっせ。杏はテニス一筋だけん好きや言うても靡かんばい。やけど謙也は顔も知れとる。ここは一つ、テニスの話題で攻めてみるんがよかっち俺は思うとよ」
さっきから杏、杏と馴れ馴れしく呼びおって。しかし具体策まで練っているとは…
「自分ら試合も見んと何やってたんや」
ため息と共に呟くと、財前にぽんっと肩を叩かれた。
「謙也さんに言われたないっすわ。まあ当たって砕けるの精神で…」
「砕けるんかい!!」
ビシッとツッコミを入れるとそこから穏やかな笑いが広がる。笑いながら、皆、試合へと視線を戻した。とりあえずこの話題は御開きだ。
だが俺はその笑いに背中を押される様に、一つ事を決めた。決勝が終わったら、彼女をテニスに誘おう。大阪に帰るのは明日。今日の午後の短い自由時間は、彼女の見かけの割に重いという球を打ち返してみよう。
別にコイツ等に言われたからやるわけではない。
(それに、俺は砕けん)
静かに決意して、俺は蒼天を見上げた。
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謙杏でした。果てしなく謙→→→杏って感じですが。この後謙也は杏ちゃんとストテニできたのか?杏ちゃんのメアドくらいは聞けたのか?全て謎です。
夏風邪的なあれ。
2012/3/17