パコンと、球を壁に打ち付ける音がする。音がする、なんて思いながらも、それをしているのは俺自身なのだけれど、人のいないテニスコートに響く音が、俺にはまるで他人事のように思えた。

 橘さんとアキラ、深司は、U-17合宿に参加している。そういうこともあって、今、不動峰テニス部にいるのは俺も含めて四人しかいない。その事実が、重く圧し掛かる。

 弱い―その事実を、今までの戦いで突きつけられ続けてきたが、この合宿のそれは、さらにそれを俺に突きつける。
 部内での実力差。公式戦での負け。橘さんは、健闘を称えてはくれるけれど、俺は、弱い。
 壁から跳ね返ってくる球を、様々な懊悩を込めて打つ。懊悩と苛立ちに任せたそれは、必要以上に力が篭っていて、俺は思わず「あ…」と短い声を上げた。それは、予測通り、壁から俺のところに帰ってはこなくて、逸れた打球は腕を目いっぱい伸ばしたが、ラケットの先、ギリギリに届かず、俺の後ろに跳んでいった。

 ボールを拾おうと振り返ったら、そこには、転がるボールを拾う内村の姿があった。

「何やってんだ」

 呆れたような顔をして、彼はこちらに球を投げてくる。

「何っていうか、自主トレ?」

 そう言うと、彼は更に顔を歪めた。空を見れば、もう陽は西へと傾いている。生憎、このテニスコートには照明がないが、沈みきらない太陽の残光が、辛うじてボールやラケット、そして内村の輪郭を現していた。こんなに暗い中で練習していた自分が少しだけ滑稽だ。同時に、そこまで打ち込んでいた自分に、少しだけ驚きを覚える。
 内村が来なければ、俺は多分、この暗いテニスコートで壁打ちを続けていただろう。

「ごめん。ボール、ぶつかったりしなかった?」
「壁から跳ね返ってきた球くらい、ぶつかるわけないだろ」

 目深に被った帽子の下の表情を読み取ることは、難しい。でも、長い付き合いというのは人を成長させるもので、彼が呆れて、そして少しだけ苛立っているということは、容易に知れた。
 苛立ちは、ボールが飛んできたことに対するそれではない。

「なに焦ってんだよ」

 それは、叱責にも聞こえる。その真意など、簡単に知れて、それが彼を苛立たせている原因であることも分かっていた。

「焦ってるっていうか…なんか、置いてかれたなぁって思ってさ」

 彼の手から、俺の手に戻ったボールを、それでもまた打つ気にはなれず、手の中で玩ぶ。

「俺はさ…なんていうか、不動峰のお荷物だなって思う。三人が合宿に行った、とかいうのより、ずっと前から、俺には取り立ててすごい能力があるわけじゃなくて、いつも負けて、オーダーでは下位で、プレーを避けさせなければならない存在だろ。なんて、言うのかな…自分が、不甲斐ない」

 ぽつりぽつりと呟くように言った言葉を、彼は黙って聞いていた。
 沈黙が流れた。それがなんだか耐えられないような気がして、俺は玩んでいたボールを、ぽとりとコートに落とす。西日が、そのボールの深い影をコートに落とした。
 それは、ころころと転がって、内村の足元に辿り着く。さっき拾ってもらったのに、これでは堂々巡りだ。

「で、お前は、橘さんとか、アキラたちに追いつきたいのかよ?」

 その俺の浅薄な心の内を見透かしたように、何も言わずに足元のボールを拾い上げて、彼は事も無げに言った。だがそれは、今の状況にはそぐわない、日常の会話と同じ速度だった。
 追いつきたいのか、という問は愚問だと思う。俺たちは、強くならなければならない。アキラや深司に追いつけなければ、俺に不動峰テニス部に所属する権利はない。ただでさえ選手の少ない中で、お荷物を抱えることは絶対に避けなければならないから。

 でも、同時に、この暗がりで壁打ちなんかしたところで、何も変わらない、ということも、自分自身が一番良く分かっていた。
 これは、練習なんかじゃない。ただ、単純に、己の未熟を婉曲に詰っていることに他ならない。

「何やってんだろうなって、自分でも思うよ。こんな程度で、橘さんたちに追いつけるはずもないのに、気付いたらこうしてる」

 それは、自嘲なのかもしれない。どんなに足掻いても、高みには登れない。その事実が、俺を容赦なく切りつける。そうして俺は、気がついたら、みんなが帰ったコートで壁打ちをしている。


 なんて、不毛―――


 自分でそう思うと、口の端に歪んだ笑みが生まれた。

「なに笑ってんだよ」

 険のある声で内村が言ったが、俺は歪な笑みを絶やさなかった。否、絶やせなかった。
 自嘲しか、俺の中にはない。練習すれば、橘さんたちに追いつけるかもしれないという、希望的観測は、少なくとも今の俺の中にはない。これは、ただの自己満足だ。
 自己満足なのに、同時に俺は、この壁打ちを通して、己を詰っている。今の自分のことも、かつての自分のことも。ボールとラケットを振りかざして、身体の関節をしならせて、自分を詰る。


 例えば、先輩の暴行から、仲間を守れなかったこととか。
 例えば、今まで不動峰のために、何一つ出来なかったこととか。
 例えば、自分にない能力だとか。
 そして、例えば、テニスの才がないこととか。


 数え出したらキリがないそれらは、緩やかに俺を苛んだ。
 それでも、この壁打ちは、何故か俺に少しの満足と安息を齎している。
 そんな、矛盾だらけの行為を、内村に見咎められたのは、少しだけばつが悪い。

「なんだろうね…うん、まあ、自己満足、かな」

 相変わらず、口元には歪な笑みが浮かんでいた。西日は、空間に僅かな光を放って消え去ろうとしていて、彼の輪郭はますます曖昧になった。それは同時に、自身の輪郭が曖昧になっていることに他ならなくて、このまま闇に融けてしまえたら、と柄にもないことを考える。
 そんな不安定な暗がりの中で、彼が手を伸ばすのが分かった。その指先は、真っ直ぐに俺の頬を指す。

「傷」

 短く言われた言葉に、思い出したように頬を擦る。乾いた血がぱらぱらと落ちた。さっき転んだときについたのだろう。壁打ちで転ぶなんて、どれだけ集中力が落ちていたかが知れるというものだ。今まで感じていなかったのに、そこに傷があることに気がつくと、頬がひりひりと痛んだ。

「消毒しろよ」

「するする。これでも救急セットは常備品ですから」

 苦笑して言うと、彼もまた、少しだけ笑った。今の苦笑は、先程の歪な笑みとは違って、きっと上手く笑えていたのだろう。自信はなかったが、笑みを返す彼に、少しだけ安堵した。
 生傷や怪我が絶えなかった一年生の頃。喧嘩に積極的に参加することもできなかった俺にできることといえば、救急セットを常備して、仲間の手当てをすることくらいしかなかった。その名残で、俺は今でも救急セットを部室のロッカーに入れている。
 今となってはそれが使われることも、滅多になくなって、消毒液や絆創膏の補充を、最近いつしたか、思い出せない。
 あの頃―――まだ、テニスなんてできなかった頃。それでも俺たちはテニスをしようと耐え続けてきた。結局それは、どこからともなく現れた橘さんが救い出してくれた訳だが。
 それでも、俺は救急セットをロッカーから持ち去ることができない。誰かが怪我をするのではないか、という心配ではなくて、もしかしたら、あの日々が再び戻ってくるのではないかという恐怖が、俺にそれをさせる。
 俺たちの結束は、確かに強固で、きっと崩れることはない。でも、もしそれが崩れる日が来るなら、それを起こすのは、きっと自分だ、という誇大妄想。それなのに、俺は救急セットを手放さないという、ひどく歪んだ矛盾。

 それは、壁打ちの矛盾に似ていなくもない。
 追いつけやしないという事実と、齎される自己満足。

「焦ったところで、何も変わらねえだろうがよ」

 舌打ちして、内村は二、三歩下がると、転がったボールを拾って、もう一度俺にそれを放った。でも、俺は手を伸ばせなくて、ボールはまたコートに落ちる。

「オイ」
「ああ、ごめん」

 呟くように謝って、ボールを拾おうとしゃがみこむと、スッと己の影が、濃く、長くなった。

「……内村?」

 目線を少しだけ上げると、そこには、本当に呆れきった顔をした内村が、俺の影に重なって、影を伸ばしている。

「それとも、焦ってるわけじゃねえのか?」


 その問に、俺は曖昧に笑う。近づいた内村の顔が、くしゃりと歪むのが分かった。ぼんやりしていた彼の輪郭は、鈍い橙の光と、深い陰影で、いやにはっきりして見える。

 ―――まるで彫像のようだ。

 そう思ったら、どうしようもない期待が胸のうちに浮かんだ。何もかもが作り事で、何もかもが嘘だったなら、それはどんなに良かっただろう。同時に、どんなに残酷だっただろう。


 ほら、また。


 また、醜い矛盾が俺を苛む。


 太陽は、最後の光を残して沈もうとしていた。今日は、月が昇るだろうか―――

西、残
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森、誕生日おめでとう。誕生日要素0ですが、こんな立位置の森が好きです。