「いたっ…」

 小さく言って桜乃は指先を見やる。暗色の毛糸にうずもれていた指先が少々ささくれだって、小さな痛みをもたらしていた。


Present for you


 高校生活もだいぶ慣れてきた二学期の終業式を終えて、明日からは講習期間である。渡り廊下ではあっと指先に息を吹きかけたが、昨日気がついたささくれは、やっぱり小さく痛みを伴って、一晩寝ても治らなかった。

「さーくの!」
「朋ちゃん!」

 そんな彼女に後ろから抱きついたのは、親友の朋香だった。高等部に上がったらクラスが変わってしまって、少々さびしい思いをしているのは二人とも一緒で、こういったクラスも部活も関係のないところではよく話している。

「どうしたの?」

 息を吹きかけているのを見ていたのだろう。寒いの?と言ってぎゅっと手を握ったところで、朋香はあっと気がついた。

「桜乃、手、荒れてる」
「ちょっと指先使うことしてたから…」

 すごく、というわけではないが、指先が少しささくれだっている。少々痛そうだった。痛そうなのもそうだが、この時期にこの手荒れは少々いただけないな、と思って、朋香はちょっと頬を膨らませた。

「桜乃!」
「ひゃっ」
「だめでしょ、もうすぐリョーマ様が帰ってくるのに!」

 大きめの声で言ったら、案の定桜乃は困ったように首をすくめた。

 ―――中学の時に渡米した越前リョーマは、毎年、年末年始だけ日本に帰ってくる。年末というのはつまりクリスマスのあたりで、クリスマスのあたりということは彼の誕生日のあたりということで、桜乃はその頃を毎年楽しみにしていた。それはリョーマも一緒だろう。渡米する前から、ここ何年かは、クリスマスイブは当たり前のように桜乃を呼んで二人で過ごしているのだから。

 だから朋香は、その一年ぶりの逢瀬を直前にした桜乃の怠惰を嘆いた訳である。桜乃はそういったことにこだわりがないのだが、朋香はせっかく可愛いのだから、そういうところにこだわればいいのに、と常日頃から言っている。

「私も昨日気付いてね。痛いな、って思ったらささくれになってて…」
「これは今日買い物行かないとね」
「え?」
「ハンドクリーム!」

 沽券に関わるのよ!と朋香は続けた。まるで年上の杏か寿葉のような言い分に、桜乃はたじろいでうなずくしかなかった。




「朋ちゃんはどんなの使ってるの?」
「私?機能性重視かな」

 ドラッグストアのハンドクリームのコーナーは、冬ということもあり品揃え豊富に二人を誘った。機能性重視、と言って朋香が手に取ったのは薬品メーカーのもので、値段も手ごろだし、効果も十分だった。家事の手伝いに邁進する朋香にとって、ハンドクリームは必需品だ。……もっとも、そうやって働く手が好きだよ、と言う誰かのために、いくら水回りの仕事が多くても、手が荒れないようにしよう、と思い立ってハンドクリームを使いだして、まだ一年ほどだが。

「同じのにしようかな」

 桜乃がそう言ってそのパッケージを眺めていたら、朋香はちょっと首をひねる。

「そう?もっと可愛いのにしたら?」
「だって、朋ちゃんが使ってるなら効果とか、いろいろ安心だし」
「うーん、そりゃあね、効果はばっちりだけどさ……」

 大好きな人に会うために整えるなら、もっと可愛くたっていいじゃない、と自分のことを棚に上げて考えた朋香は、桜乃が眺めるパッケージの隣に目をつけた。同じメーカーの同じブランド。違うのは、無香料か香り付きかだ。

「じゃあ、これにしたら?」

 テスターを開けてみたら、果物と花だろうか、甘い香りがした。使用感も指先にすっとなじんで良さそうだ。 桜乃も手に出してみて、気に入ったようだ。バッグに入れてもかさばらないくらいの大きさで、持ち運びにも向きそうだった。

「そうする。いい匂いだね」
「うん、女子力高めって感じ。私も次はこれにしようかな」

 そんなことを言いながら、レジに向かう。クリスマスイブまで、あと三日である。




 今年のクリスマスイブは、寒波到来だった。東京にも、滅多に降らない雪がちらついていて、ホワイトクリスマス、なんて言葉が桜乃の頭の中に踊った。
 メールには、昼前にリョーマの家に来るよう指定されていて、ちょっと珍しいな、と思う。いつもはぐらかすけれど、桜乃を家に上げるのは恥ずかしいらしいことを言われたことがある。
 だが、今日の指定は、昼を食べずに家に来ること、だった。イブその日の午前中に帰ってくるらしく、空港に行こうかと言ったのだけれど、雪で道が混むからいいと言われてしまった。
 それで家に行ったところ、出迎えてくれたのは彼の従姉だった。

「桜乃ちゃん、いらっしゃい」
「お久しぶりです、菜々子さん」

 丁寧に頭を下げたら、笑った菜々子が手を引いてくれる。

「入って。リョーマさんも今来たところなのよ」
「ちょっと、ちょっかいかけないでよね」

 家の中から面倒そうな、それでいて少し上ずったような声がして、桜乃の頬が上気する。一年ぶりに聴いた、リョーマの声だ。

「やっぱり可愛い。リョーマさんに無理を言って良かった」
「え?」
「今年は桜乃ちゃんを連れて来てねって言ったの。だってリョーマさん、毎年帰ってくると桜乃ちゃんを独り占めするのよ?」
「あの…!あっ!」

 真っ赤になっている桜乃と菜々子のところに、業を煮やしたふうのリョーマが現れた。

「ちょっかいかけないでって言ったでしょ。竜崎も相手しなくていいから」
「リョーマくん!」

 久しぶり、とか、様々かける言葉があった気がしたのだが、本人を前にするとどうしてもそう言った言葉は鳴りを潜めてしまう。

「今日はリョーマさんの誕生会なんです」

 菜々子がにこにこと言ったら、リョーマはちょっと不機嫌そうに「そういうこと」と言った。だが、それが不機嫌ではなく、照れているだけなのだ、と分るくらいには、桜乃もリョーマのことを知っている。




 パーティーの食卓に並んだ料理はクリスマス仕様だった。誕生日兼クリスマスという体で進められたパーティーで、招待された桜乃は、倫子からも菜々子からも(もちろん南次郎からも)可愛い可愛いと言われ、なんだか誰が主役なのか、という気分だった。
 そのせいか、リョーマが機嫌は少々斜めになる場面もあったが、何だかんだと楽しいらしく、アメリカでのことなどを話しながら進んだパーティーは、2時過ぎにはお開きとなった。

「洗い物手伝います」
「いいのよ」
「でも」
「じゃあお皿運んでくれる?」

 そんなことを言いながら、パーティーですっかり意気投合した女性陣三人がキッチンに入っていく。

「ちょっと、竜崎に怪我させないでよ」

 リョーマは桜乃を盗られてしまった気分で、その背中に釘を刺したが、聞こえているのかいないのか。

「余裕ねーな」

 ニヤつく父にそんなことを言われたので、リョーマはとりあえず彼をはたいておいた。






「終わった?上、来なよ」

 キッチンから戻った桜乃にリョーマは階段を示す。上、というのはリョーマの部屋だ。

「あのっ、あんまり長居するとお邪魔じゃないかな?」

 心配そうに言った彼女に、リョーマはちょっと顔をしかめてみせる。

「せっかく帰ってきたのに、まだちゃんと話せてないんだけど」

 その一言に真っ赤になって、桜乃は彼の部屋に上がった。


「あの人たちはほんと…あんな馬鹿騒ぎしなくてもいいのに」

 部屋に入るなりそう言った彼に桜乃は微笑む。

「でも、料理も美味しかったし、リョーマくんも楽しそうだったよ」
「……まあね」

 珍しく肯定の言葉が落ちたから、やっぱり楽しかったのだ、と思ったら、桜乃は自分のことのように嬉しくなる。

「今年も一年お疲れ様。怪我もなかったってさっき言ってたから、安心したよ」
「エアメール送ってるでしょ」

 照れたのか、ぶっきらぼうに彼は言うが、桜乃は笑って言う。

「リョーマくんの口から聞くと全然違うよ」

 それに、リョーマはやっぱり照れたように視線を逸らし、それから、ふと気がついたように桜乃を見遣った。

「竜崎、なんかつけてる?」
「え?…ちょっ!」

 中学の頃より数段成長して、大きくなったリョーマの身体が桜乃をとらえて、気がついたら彼女はすっぽりと彼の腕の中に収まっていた。

「シャンプー変えたワケじゃないね」

 首筋に顔を埋めて言われて、彼の髪がさらさら当たってくすぐったい。
 というか、シャンプーの匂いを覚えているらしいリョーマに、桜乃は今の状況もそうだが、様々と赤面した。

「香水って感じじゃないし」
「リョーマくん、くすぐったい」
「何つけてるの?」

 甘い匂い、と言って抱きしめる腕に少し力を篭められたから、桜乃は困ったように、思い当たることを考えた。考えて、そうして思い当たる。

「ハンドクリームじゃないかな?」
「ハンドクリーム?」
「うん。さっき洗い物手伝ったあとに塗ったから」
「竜崎、手、荒れてるのに水触ったの?」

 ハンドクリーム、というのに、リョーマが言ったが、桜乃はきょとんとするだけだ。

「大丈夫だよ。ちょっとささくれがあるだけ。テニスにも支障ないし」
「見せて」

 後ろから抱きしめたまま、リョーマは彼女の手を取る。
 なるほど、果物と花の香りは確かに白くやわらかな手からするようだ。それから確かに指先が少々ささくれている。

「痛くないの」
「大丈夫だよ。だから」

 二人っきりといえど、恥ずかしいからやめてほしいと言いたいのだが、リョーマの吐息が指先にかかって、桜乃は息を詰めてしまい、それは阻まれてしまう。

「痛くなくとも、気をつけないとダメだからね」
「うん」

 うなずいたら、手は解放されたが、やっぱり抱きしめられたままだったので、桜乃はまた違った意味で困ったように、そうして少し焦ったように肩を揺らす。

「どうしたの」
「あのね…その…誕生日プレゼント、渡したいから…」

 耳まで真っ赤になって桜乃が言ったから、リョーマは抱きしめる腕にもっと力を篭めたい気分になったが、桜乃が本当に困っているようなので、腕から彼女を解放する。
 そうしたら、やっぱり顔も真っ赤にした桜乃は、ポーチと一緒に持ってきたらしい包みを大事そうに引き寄せて、それをリョーマに差し出した。

「誕生日、おめでとう」

 赤くなりながら、だけれどはにかんで言ったら、リョーマはちょっと照れたように笑ってそれを受け取る。

「ありがと。開けていい?」
「うん」

 了承を得て、開けたプレゼントの中身は、黒のマフラーだった。

「あったかそう…手作り?」
「うん…どうかな?」
「気に入った。ありがと。…これ編んでて指?」
「え?あ、うーん、どうかな?指先は使うけど」
「なら余計嬉しい」
「え?」

 ちゅっと小さくリップ音がして、彼が指先に口付けたのだと気がついたから、桜乃はぼんっと赤くなった。

「リョ、リョーマくん!」
「嫌?」

 意地悪くリョーマが笑ったから、桜乃は困ったように、だけれど小さく応える。

「嫌じゃ…ないよ」

 それにリョーマは、誕生日も、パーティーも、手作りのマフラーも、小さな指先も、彼女がいるから、彼女だから、こんなにも輝くのだ、と思って、その幸せに、もう一度彼女を抱きしめて、そうしてそれから、その小さな指先をふわりとなでた。

「俺からもクリスマスプレゼントあげる」
「え?」

 桜乃が気がついたとき、彼が口付けた指に収まっていたのは、淡い金色の輝きだった。

「本物は、もう少し待って」

 リョーマはいたずらっぽく笑って言った。

「予約したから、本物がここに嵌るまで、よそ見しちゃ駄目だからね」

 約束の印が、音もなく落ちる雪のように、静かに彼女の指を彩った。




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リョ桜でクリスマス!指輪はなんかもうこのサイトのテンプレです。

2012/12/24