「千歳さんは?」
「え?」
「就活してる?」
「あ、ああー、そうだね。一応教員免許は…取る…かな…」
どこか歯切れ悪く、彼女―千歳ミユキは学食を囲む友人たちに応じた。
Promise
「やっぱりー!もう12月なんだよ?来年三年!面接とかってまではいかなくても、説明会とか行った方がいいって!」
「先輩たちもみんな就活してるしさあ」
そうだね、と呟くように言って彼女は味噌汁に箸をつける。学食の味噌汁は具が少ないと常々思っているミユキだ。サラダを付けても、バランスの悪いことこの上ない―逃避だった。友人たちの言う「就職」の二文字から、どうにか逃避を図って、結局味噌汁を詰ることにした。ずいぶんお粗末な逃避だった。
就職―例えば教員免許を取ったとして、どこの教員採用試験を受けるのだろう。その程度の展望さえ、自分の中にはないことに気がついて、ミユキはげんなりとしてしまう。
展望がない、というのは少し違う。展望ならあった。だが、その方向性はだいぶ違っていて、妙に彼女を苛立たせる。
昼食の後、午後一番の講義はドイツ語だった。
ドイツ語―
大学に入学して、第二外国語の選択にミユキが迷うことはなかった。今時、工業系か医療系でもなければドイツ語など流行らないとも思ったが、迷いはなかった。高校時代も、英語の授業には並々ならぬ熱意で臨んで、ずいぶん上達していた。実際に外国に行って通じるのかという疑問もあったが、それを含めても、英語とドイツ語を大学で学べば、きっと大丈夫だろうと思っていた。
カチカチとシャープペンシルの芯を繰り出す。びっしりと書き込まれたノート。教壇には流暢に異国の言葉を発音する教授。
ドイツ語にしろ、英語にしろ、大学で学んだからと言って、ペラペラに話せるようになるなんて、幻想だということに、一年生の半ばあたりで彼女は突き当たった。焦って市販のテキストを買ったりテレビ番組を観たりもしたが、不安は増すだけだった。
不安。不安だった。
大学に入学して、彼女の世界は急速に拡がった。上京して初めは覚束なかった標準語も、いつしか口になじみ、兄から電話でもかかってこないと、方言が飛び出すことも減った。
単位も着実に獲得している。ドイツ語だってそうだ。授業をサボることもなかったし、テストもなかなかにいい成績だった。
だけれど、不安ばかりが募る。彼はいつも遠ざかるばかりだ。
彼―手塚は中学生の時、ミユキはまだ小学生の時に単身ドイツに渡った。ジュニア、一般を問わずに多くの大会で好成績を残し、プロに転身して数年。今では、テニス界において彼を知らない者はいないだろうというほどの強さを誇っている。
嬉しかった。彼が念願のプロになったとの知らせを聞いた時のミユキの喜び様は、かつてのチームメイトよりも大きかったかもしれない。
一刻でも早く彼に近づきたくて、彼女の英語に対する熱意は高まった。一時期など、ドイツから届くエアメールを英語で書けと手塚にせがんで、困らせたりもしたほどだ(例えば彼が英語で書こうものなら、ひどく難しいものになって読めやしなかっただろうけれど)。
テニスをして、大学に入って、英語とドイツ語が話せるようになって、そして、そして。
希望は膨らむ。
だけれど、膨らんだ希望をしぼませるだけの『新しい世界』というものが、大学に入ったミユキには突き付けられた。
意気揚々と臨んだはずだった世界は、容赦なく『現実』という世界を突き付ける。
学業、単位、資格、試験、就職……そして、未来。
未来に、いや、もっと身近かも知れない。現在に、そして未来に。手塚という男のそこに、己の場所はあるのか。例えばドイツ語。例えば英語。例えば資格試験。例えば先輩たちの就職先。例えば成績通知。例えば就活をする友人。例えば、例えば、例えば―
それら全てが目を背けていた事柄を彼女に突き付ける。その訪れは、思うよりずっと簡単だった。ドイツに留学した教授の、オペラを観て時間をつぶした話を聞いた時に、それはいやにリアルに彼女の許に迫った。
(彼はオペラを観るだろうか。ドイツ語で?テニスの試合帰りに?暇を持て余して?)
(ウチはその時隣におるやろうか。笑い掛けるの?ドイツ語で?日本語で?英語で?)
唐突に、不安になった。彼の隣に、己の居場所があるのかと。
今までは考えもしなかったことだ。そんなことにいちいち悩まなくとも、彼との関係に息苦しさを感じたことなどなかった。だが、大学に入学して、多くのことを突き付けられた途端に、彼があまりにも遠くに行ってしまったことを実感せざるを得なかった。天真爛漫が取り柄だったのに、新しくて大きな世界を前にして、将来のことを考えざるを得なくなると、さすがのミユキも自然と眉間にしわが寄る。
ドイツ語や英語をペラペラに話せる訳ではない。筆談なら自信があるが、そもそも彼がいるドイツに、自分の居場所はあるのだろうか?
それもそうだが、就職というのもある。単位を取って、資格を取って、就職活動をして。それは全て『日本で』というのが前提の話だ。海外に飛び出して、職を見つけて、生活して…ということが自分にできるのだろうか、と不安になる。
教壇では、教授がドイツで美味しかったメニューを話して学生の笑いを誘っている。それに、ミユキはまた追い詰められたような気分になって、ノートの上に置いた携帯を何となくいじった。
その時だった。サイレントマナーの携帯のランプがチカチカと光る。
「っ!?」
ランプの色は水色。それは手塚からのメールの着信を告げるランプとして、着信ランプとしては唯一設定したものだった。
携帯に手を伸ばそうか、伸ばすまいか逡巡しているうちに、講義は終了した。
どやどやと学生たちが教室から出ていく。ミユキは幸い午後の講義はこれで終了だった。人がほとんどいなくなった教室で、ミユキは携帯に恐る恐る手を伸ばす。いつもなら、嬉しくて仕方ないはずの彼からのメールも、昼食の時の友人との会話と、午後の講義のせいで何となく見たくない。
だが、開けない訳にはいかなくて、彼女はのろのろと送信ボックスに入ったメールを選択する。
Toミユキ From 手塚の兄ちゃん
急ですまない。今週の土曜日は空いているだろうか?会って話したいことがある。用事がなければ、来てほしい。青春台の駅前の喫茶店に前に一緒に入ったところがあるのを覚えているだろうか?そこで待っている。
短い文面に、様々な感情が綯い交ぜになる。彼に会える。会えるけれど、会ってどうするのだ。
それでも結局、ミユキは土曜の何時とか、そういう細かいことを聞くメールを彼に返した。それから、友人たちが企画していたクリスマスパーティーに欠席する旨のメールも送信する。
今週の土曜日は、クリスマスイブだった。
そして土曜日の昼。指定された時間は3時だったので、ミユキは手早くオムライスを作る。一人暮らしの自炊は慣れたものだった。
それから、携帯のアプリを起動して、喫茶店の位置を確認する。駅前の喫茶店でも、手塚が入るくらいだから趣味がいいというか、落ち着いた雰囲気の喫茶店だったな、と思い出した。
大学に入って覚えた薄化粧は未だに慣れるということがなかった。テニスをするのに日焼け止めを塗るから、それで済ませることもしばしばなくらいだ。
口紅を塗って、コンパクトの鏡を見つめる。唇は薄く色づいていた。
街の中は、どこもかしこもカップルでいっぱいだった。そうでなければ、テンションの高いグループ。今日はクリスマスイブなのだから仕方がないだろうが、ミユキは少しだけ機嫌が悪くなる。クリスマスの午後の街角、待ち合わせの相手はいる。それでも憂鬱にならざるを得ない。
(なんで呼びだされたんやろ)
もう付き合いきれないとか、もう別れようとか、思い浮かぶのは否定的な言葉ばかりだった。
(そもそも……)
そもそも、手塚との関係に、明確な始まりはなかった気がする。携帯のメールも、エアメールもずっとしているし、高校生の頃は彼が帰国する時には上京していた。そこまで考えて、ミユキは、はっとして立ち止まる。
(…帰国…しとらんの?いっぺんも?)
そんなのおかしい。おかしいが、ミユキが大学に入学してからの足掛け二年、彼は一度も帰国した旨をミユキに伝えていない。つまりは、大学に入学してからは手塚と一度も会っていない。
(何…なん…?)
その事実に気がつくと、ミユキの足は途端に竦んだ。
(分からん…兄ちゃんの考えてることが分からん)
自分に会いたくなくなっているのだとして、どうしてまた、今日になって呼び出されたのだろう?
呼び出す必要性―必要性がない。もうメールをしたくないなら着信拒否すればそれでメールは途絶えるし、そこまでしなくてもアドレスを変更すれば事足りる。エアメールだって、あちらの制度がどうなっているのか分からないが、受け取りを拒否する制度くらいありそうなものだし、そもそも返事を書かなければいい。だが、彼からのエアメールが途絶えることはなかった。
だけれど。だけれど。
そんなこと分かっていた。精神の自己防衛は、今、初めてそれらの事柄に気がついたように振る舞うが、頭の中の冷静な部分では、それらのこと全部、分かっていた。
大学に入ってから彼が一度も会ってくれないことも、距離を置かれていることも。そして―
(きっと、兄ちゃんの隣にウチの居場所はない)
彼があまりにも遠ざかってしまったことも。
全部、全部、分かっていた。もう子供ではないのだから。世界はあまりにも広かった。その広い世界で、彼はあまりに遠すぎる。
空気は乾いていて、頬が冷たかった。アパートを出た時よりもずっと冷静に、彼女は切符を買って、電車に乗り込んだ。
青春台の駅前も、クリスマス一色だった。手塚が指定した喫茶店の店先にもツリーが飾ってある。
店の扉を開けると、控え目なボリュームのクリスマスソングが流れていた。それは誰でも知っているような洋楽で、それに加えて、大学に入って磨きのかかったリスニング力は流れる歌詞を瞬時に和訳する。明るい曲調に反して、それは恋が叶わないやるせない内容で、彼女の心を波立たせた。
席に案内しようとする店員に手を振って、ぐるりと店内を見回す。
一番奥の窓際の席に、彼は座っていた。傍らには大きなスーツケース。帰国してすぐここに来たのだろうか。
なんと声を掛けたらいいだろう、と逡巡して、しかしミユキはずいぶん適当に声を掛けた。
「久しぶり」
本当に久しぶりの再会だというのに、声はどこかぶっきらぼうに響いて、ミユキはそれに早くも後悔していた。だが、頭の中の冷静な部分は少しも後悔しないのだ。ひどい話だと、ミユキは心中ため息をつく。ひどい話だ。冷静な思考は、彼を前にして、もう驚くほど多くのことを諦めている。
「ああ、久しぶりだな。急に呼び出してすまない」
二年ぶりに会った彼は、相変わらず堅物そうだった。だが、微かな違和感にミユキは首を傾げる。その違和感の正体は分からなくて、そのまま向かいの席に座る。
水を持ってきたウェイトレスに、ミユキはメニューも見ないで「ブレンド」と告げた。その姿に、手塚は目を丸くする。
「飲めるのか?」
「バカにしとう?」
コーヒーさえ飲めないと思われていたのだろうか、と考えてから、その思考を訂正する。正確には、ミユキがコーヒーを飲めるようになってから、こんな風に二人で喫茶店に入ることなどなかっただけだ。それにコーヒーを頼んだのはちょっとした意地でもあった。本当だったら、メニューを見て、何か頼んだ方がずっと良かっただろうに、ミユキは自分でも呆れてしまうほどどうでもいい類の意地を張った。
(ほんなこつ、子供みたい)
どちらからも言葉が出なくて、沈黙ばかりが降り積もる。そのうちに、ミユキの前にブレンドコーヒーが置かれ、ミユキはそれを一口飲んだ。
「話ってなんね?」
三文芝居の別れ話を持ちかけられる役者のようだ、とミユキは思う。
話はなんだ?別れたい。
ありがちな応接だった。
だが、手塚はどこか困ったように指先でテーブルを叩いている。そこでミユキは、先ほど感じた違和感の正体を突き止めた。彼は上の空なのだ。神経がこちらを向いていない。その事実に、彼女は絶望と諦めが混ざり合った気分を味わう。
自分を呼び出しておきながら、彼の意識の中に自分はいない。それは、やはり道すがら覚悟した、多くのことを諦めなければならないことに他ならないように彼女には思えた。
彼女の苛立ちなど知らないと言う風に、手塚はやはりどこか上の空で、スーツケースの鍵を弄る。その姿に、ミユキの口は自然と動いていた。
「帰る」
話したくもないのなら、わざわざいるのもうるさいだろうと、回さなくてもいい気を回して、淡々と言うと、彼女は席を立とうとする。
その時初めて、手塚の視線が彼女を捉える。その眼差しに、ミユキの胸は不覚にもドキリと高鳴った。その、真剣すぎるほど真剣で、真っ直ぐな視線を、彼女は愛して止まない。
帰る、と言ったのに、彼の視線一つで絡め取られる。
「駄目だ」
懇願にも聞こえるし、命令にも聞こえる。だが、どちらにせよそれは真っ直ぐで、先ほどまで上の空だったのとは打って変わってしまって、ミユキは射竦められたように、立ち上がりかけた体を席に戻す。
「話があると言っただろう」
「言うた、けど」
「大事な話だ」
そう言って、彼はスーツケースに手を伸ばした。その時に、また上の空のような、いや、よく見ればどこか焦っているような表情をして、それでも、決意したとでも言うように彼はスーツケースの鍵を開けた。
彼がスーツケースから取り出したのは、小さな箱だった。ビロードの赤い生地で覆われた四角の箱。その箱は、ミユキの前に置かれ、それから彼の長い指が箱を開ける。
「何…こ…れ…?」
「見ての通りだ」
「見ての通りって…何、言うてん!」
「見ての通りの婚約指輪だ」
「ッ…!」
ミユキはその一言に言葉を詰まらせた。なるほど、先ほどから上の空だったのは、これを出すタイミングを考えていたのだろう。
婚約指輪―突然にも程がある。連絡は取っていたし、明確な何かはないが、きっと自分たちは付き合っていたのだろうと思う。それに、大学に入ってからミユキはずっと、手塚の『隣』というものを模索し続けてきた。だが、その度に、彼と歩む道は、容易くはないどころか、きっと無理なのだと、不安や諦めばかりが募っていた。
そこに現れた婚約指輪。様々な感情が押し寄せて、ミユキは返答に窮する。
「婚約…指輪、って…どういう、こと?」
「そのままの意味だ。俺はお前と結婚したい」
辛うじて聞いた(と言っても、答えが明白な問いというものが成立するのかどうかは微妙なところだが)問いには、至極単純で、明快で、当たり前で、予想通りの答えが返ってきた。
しかし、それに何と応じていいのか分からなくて、言葉を継げずにいると、手塚の真っ直ぐな瞳が彼女を捕える。
「答えを聞きたい」
「答えって…」
「この指輪に対する答えだ」
「い…ま…?」
「性急なのは分かっている。だが、答えを聞きたい」
今すぐに、と彼は小さく付け足した。ずいぶん尊大に見えたが、ひどく余裕を失っているようにも思えた。
「分かっとらんでしょ、兄ちゃん」
指輪の入った箱を持つ手が僅かに震える。それは腕を伝って徐々に肩に上り、彼女の薄い体を震わせる。
「意味なら分かっている。大学卒業まで待つつもりもある」
「そんなんと違う!」
気が付いたらミユキは大きな声で言って、テーブルを叩いていた。
「分かっとらんよ、なんにも。ウチが…ずっと…」
声はしぼんでしまって、代わりにぽたりと滴が頬を伝って震える手に落ちた。
「ミユキ?」
言葉は続かなくて、彼女はただぽたりぽたりと滴を落とす。
嬉しくない訳ではない。いや、嬉しくない訳がない。だけれど、どうしたらいいのか分からない。
諦めた、なんて、嘘に決まっている。頭の中の冷静な部分は、精神の自己防衛以上に自分を守ることに徹していただけだ。遠いとか、かなわないとか、単位とか、就職とか、いろいろな事どもをちらつかせて、彼との関係をリセットしようとしていた。大学に入って、気がついてしまった多くのことを、抑えつけて、或いは昇華させて、なかったことにしようと努めていた。
そんなところばかり、『大人』になった自分が悔しい。
本当は、ずっと、いつだって、隣にいたかった。隣にいてもいいと言ってほしかった。だがそれは、昔も今も簡単なことではない。
「……待っていたんだ」
「何を…?」
「お前が、憧れや親近感だけで俺を見るのではなくて、もっと広い世界を知って、それでも俺を見てくれるのを」
それは、普段の彼から考えたらずいぶん饒舌で、そして情熱的な言葉に思われた。
「分かっている。俺が求めていることは、想像以上に難しいことだ。住んでいる国が違う、仕事が違う。この二点だけでも、拒絶する十分な理由になる」
その言葉と、向けられる視線の苛烈さに、ミユキは俯けていた視線を上げる。
「難しいだけではない。お前にとって、俺を選ぶよりもずっといい選択はいくらでもある。そのことを、大学に入ってお前は知ったはずだ。一度も帰国を伝えなかったのは、もし伝えて会ってしまったら、ミユキの意思を尊重しなければならないのにきっとその決意が揺らぐと思ったからだ」
「分かって…た…ん…?」
声は微かに震えていた。涙はまだ流れている。それでも、大学に入学してから降り積もった不安は、彼によって掬い上げられる。汲み上げられる。
「試合は海外が多いから、上手く時間を合わせられないかもしれないが、拠点を日本に移す算段もしている。…いや、そんなことを言ったって無理難題を押し付けているのは分かっている」
手塚の真っ直ぐな瞳の奥には、鮮烈な色と、優しさが混じり合っていた。それに、ミユキはまたぽたりと涙をこぼす。
「それでも、俺を選んでくれないだろうか。俺と一緒に来てほしい」
真摯な声に、ミユキは涙を拭う。それでも滴はとめどなくこぼれ落ちて、せっかくしてきた化粧は台無しだろうなと、心のどこかで考えた。
「…一緒に、いても、よか?」
「当たり前だ」
「ウチで…よか?」
「お前でなければ駄目だ」
手塚は簡明に、快活に、愛を告げる。それがミユキにはどうしようもなく嬉しかった。
「ウチでないと駄目やなんて、兄ちゃんがわがまま言うから……受けとったる。一緒に、行ったる」
精一杯の強がりを言って、それから目許をこする。涙は止まった。
「ああ。俺の我儘に付き合ってくれ」
手塚は珍しく微笑んでそう言った。その笑顔に、ミユキは面映ゆくなって、ティースプーンで何も入っていないブレンドコーヒーをかき回す。
「どんな顔して買うたん、これ?」
気恥ずかしさを覚られないように、それとなく会話を逸らすと、手塚の口からは想像だにしなかった言葉がこぼれた。
「給料三カ月分、というのが基本だと聞いた」
違うのか?と首を傾げられて、ミユキはギョッとしてしまう。
「こっ、こんなんもらえん!」
「給料三カ月分」を想像した彼女は青褪めたかと思ったら、箱をつっ返す。
手塚は世界タイトルのホルダーだ。タイトルの賞金に加え、どれだけの給金がもらえるかなんて想像したこともなかったが、日本に比べればヨーロッパではタイトルホルダーに対する待遇も桁違いのはずだ。
その彼が給料三カ月分などと宣った。恐ろしいことだ。華奢な印象を受ける輪も、その上に乗る石も、そう言われると精緻に作り込まれたものだと確信せざるを得ない。
言われてみれば、前に友達と冷やかした宝飾店で見たどの指輪よりも、乗っている石は大きかった。
だいたいだ、給料三カ月分なんて、何年前の価値観をしているのだろう、と思ってしまうものだ。少なくとも平成の価値観ではありえない。どこがソースか知らないが、そんなことを律義に守る男なんて、もう絶滅危惧種どころの騒ぎではないだろう。
「給料三カ月分というのは違っていたか?」
先ほど答えを求めた時の緊張感はどこに行ったのだろう。不思議そうにしている彼が心配になる。
「そういう問題じゃないっちゃ!計画性!」
計画性―計画性だ。例えばこの先結婚するとして、こんな金銭感覚の男とやっていけるのか。そこまで考えて、ミユキは頬にカッと朱を上らせた。
(けっ…結婚…するん?これ、嵌めたら…?)
一緒に来てほしいと言われて、応と答えたのに、その実感は今初めて湧く。こんな金銭感覚の男とやっていけるのか。何をやっていけるのかと言われれば、それは取りも直さず『生活』のことだろう。結婚生活というやつだ。一介の女子大生にそれを突き付けた手塚という男の感覚は、そもそもにして狂っているのかもしれない―彼女限定で、だが。
「計画性ならむしろ問題ないだろう。何せ三カ月分過不足なく…」
「違う!」
彼の言葉を遮ってそう言うが、手塚はまだぽかんと首を傾げている。だが、真っ赤になった彼女を見て、何を思ったのか、その小さな箱に手を伸ばした。
「?」
彼の指が、その小さな指輪を取り上げて、それから空いた左手が、彼女の左手を捕まえる。
「な…に…」
彼が握るその一回りも二回りも小さいその手は、大学の友人たちのように爪を伸ばして、形を整え、綺麗に色を塗ったものに比べれば、どうにも見劣りするようにミユキには思われた。テニスのために短く切られた爪。日に焼けて、決してなめらかとは言えない肌理。何もかもが足りない気がして、彼女はその手を引っ込めようとするが、手塚は思うよりもずっと強い力でそれを阻んだ。
「受け取ると、お前は言ったからな」
だから、もう逃げることは許さないと言うように。
彼にとっても、彼女が大学に進学しての二年は、大きな意味を持っていた。
彼女が、新しい世界に次々と触れ、多くのことを学び、そして多くの人と出会う。或いは自分よりも大切な存在が生まれてもおかしくなかったし、そうなった時には潔く引かなくてはならないと、そう決意していた。
二年は長かった。現に、目の前に座る少女だったミユキは、美しい女性に変貌している。
だが、彼女は受け取ると言った。それは共に生きる、そういう意味だ。そういう意味だと手塚は理解した。
こわばった彼女の手を、やんわりと撫でて、確かめるようにその指先に触れる。
「受け取ってくれ」
ひんやりとした硬い感触が指に触れて、ミユキは思わず肩をすくめる―だが、必ずしもその冷たさや硬さだけがそうさせた訳ではないことを、彼女も彼も知っていた。
測ったようにぴったりと寄り添う輝きに、彼女は息をのむ。
それは、拡がる未来を目の前にして息をのむのに似ていた。
店内には、控え目なボリュームでクリスマスソングが流れている。だが、店に入った時のような息苦しさはもう感じなかった。
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メリークリスマス!という訳で当サイト初めての塚ミユでした。塚ミユはきっと手塚がいろいろ急いで、ミユキが学生のうちに結婚を迫ると思っています。ミユキが良くも悪くも大人になった。しかし、クリスマスに指輪ネタはこのサイトのテンプレなのだろうか…
2011/12/24