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「え…予定…なに?」

 空港でその電話を受けた幸村は、電話の向こうから、手塚が彼らしくもなく要領を得ないことを言ってきて、国際電話って高いんだよなあー掛けてきたのは手塚だらか俺が払う訳じゃないしいいけど、と悪鬼羅刹のごときことを考えながら、滞在先のアメリカで受け取ったその電話を聞いていた。今から飛行機に乗って日本に向けて発つ彼は、完全なオフという訳ではないが少なくとも、この電話の相手である手塚が次に出る大会は回避していた。
 越前リョーマが出る大会にはもれなくエントリーしている、という点だけが一致している自分と手塚と、それから越前に、青春の名残のような茫洋とした感傷をいだくあたり、年を取ったな、と考えてしまうほどには手塚の話を真面目に聞いていなかった。
 日程をメールしておいたらしい、確認して行けそうなら行ってくれ、と言われてやっと幸村の思考は繋がった。

「それ日本でって意味だよね?すごいな、手塚も俺も呼んで交流会?カルチャースクール?なんてヤバいことになるんじゃないの?俺そういうのヤだよ」

 曲がりなりにも有名人だ、ということに全く頓着しないようなそれに、暗に「行かない」という言葉をにじませて言えば、電話の向こうの手塚がかすかに笑った気がした。

『知り合いしかいないと思う。会場も貸し切りで、跡部が主催だから。というかどういう話の聞き方をしたらこれがカルチャースクールになるんだ?』
「なんだー同窓会的なあれ?えー、俺聞いてないよ?」
『ギリギリで計画が出たから連絡しても捕まらなかったのがお前らしい』
「はあ…でも少しは一般人も来るとか?」
『……一般人…に該当するのか。該当するといえばする者も来る』
「?あ、俺日本では調整だからコート立てないよ」

 テニスラケット持ってないとテニスやる人だって認識されないんだよね、と続けた幸村は、とりあえずは参加の意思があるということで手塚の中で処理された。しかし、まだ思考が繋がらないのか、それともこういったことがずいぶんなかったからなのか、仲間内だけと言われても人目を気にするようなことを言うのが手塚にはいくぶんおかしく感じられた。全く身を入れて聞いていないそれに疲れているのだろうな、などと彼は一人納得した。
 だってそうだろう、と思う。プロプレイヤー以外を一般人に分類するなら跡部だって、真田だって一般人に数えられてしまう。そこまで考えてから手塚は思い出したようにああと続けた。

『ああ、一般人。そうか。お前の想定していそうな一般人も来る』
「想定内の一般人ってなにさ」

 ぽつりと返したが、意に介する様子もなく手塚は続けた。

『竜崎が』

 続けたはずだったその言葉は、次にはツーツーと通話が途切れたことを示す電子音に切り替わった。それで幸村はぽかんとそのスマートフォンを眺める。メールをしようか、とも思ったが、竜崎さんが来るという話なら別にそのラインの一般人か、くらいに思ったし、彼女が来るなら一緒に来ることをちょっと期待してしまう相手もいる。
 などという思考がまとまらないうちに、アナウンスが聞こえて幸村はスーツケースを引いて搭乗口に向かった。





「聞いてないよ」

 会場になった古城のような場所の庭先で、飲み物片手に幸村はぼんやりと呟いた。確かにいろいろと訊くべきところを訊かなかったのも聞かなかったのも自分だ。というかこの状況自体想定していなかったからいろいろと驚きどころでは済まない。

「そっかー、越前と竜崎さん籍入れてたのかー」

 ぼんやりとその当人を前に呟いたそれが今日のすべてだった。リョーマと桜乃が入籍したことを日本で発表するのが今月らしい。そこまではいいが、その情報が跡部に伝わったために、記者会見後でバタバタする前に知り合いだけで一席設けようという趣向だったようだ。それはいいが、跡部がやると規模が問題だな、と関東のどこを探せばこんな土地を見つけてこんなイギリスの城みたいな建物が建つんだろうと思うようなそこに幸村は思った。

「越前、ごめん、ほんと言ってくれたらよかったのに。ていうか先月の試合で一瞬一緒だったよね?俺何も用意しないで来ちゃったよ」
「別に。俺もこれ聞いて耳疑ったけどみんな集まるって言われてって感じでしたし」

 相変わらずな態度のリョーマは主役ながらその喧騒から抜け出す形で、やはりその喧騒から一歩下がっていた幸村の近くに来てそう言った。

「ていうか俺より竜崎大変だったんスよ。ただでさえ記者会見とかの前だったのに、日本に連絡して小坂田と二人でいる国違うのに連絡とりながらいろいろ走り回る感じになって」
「あ、やっぱり小坂田さん巻き込まれてるー」

 小さく笑って言った幸村に、リョーマもふと笑う。

「ね、幸村さんってさ、まだ小坂田のこと好き?」
「え?あー、あれねー、もうほんと、結婚まで行っちゃうと人って図太くなるよねー」

 お手上げ、と笑って幸村は手元の甘い酒を呷った。





 始まりがいつだったかはよく覚えていない。もういつがその感情の始点か明瞭には思い出せない。
 彼女が応援していたのは、リョーマだったのだから。だから、その応援がいつの間にか自分にも及んでいたのが幸村には最初信じられないことだった。
 ゆっくりと思い出せば、それはプロになるよりも前、高校に入ってからもう始まっていた気がする。

『すごい!幸村さんすごかったです』
『え』

 掛けられた声の主は、何度か合宿や合同の国際大会の応援に来ていた少女だった。竜崎桜乃というリョーマがいたく大事にしている少女と一緒にいる小坂田朋香という少女だった。

『ちょっと、朋ちゃん!駄目だよ、たぶん幸村さん私たちのこと知らないもの』

 制服の袖を引っぱったのはその桜乃で、彼女といつも一緒にいる朋香から声を掛けられたのが幸村には驚き以外の何物でもなかった。

『いや、分かるよ。小坂田さんと竜崎さんだよね?いつも越前の応援に来てるし、俺も合宿でお世話になりました』

 驚きつつも律儀に言えば、二人はホッとした顔をする。

『今日は高校の大会見に来たんです。優勝おめでとうございます』
『ありがとう…?って言って大丈夫かなこれ、乾あたりに怒られない?』
『先輩たちも惜しかったけど、幸村さん強いんだもん』

 そのあまりに素直な賞賛に幸村は目を瞬かせた。こんなふうに、なんの気負いもなく人を応援したり、ほめたりできる少女に驚いたのか、はたまた目を奪われたのか、と彼は思いながら相好を崩した。

『また見に来てもいいですか。今度は幸村さんのファンとして』
『それはもちろん嬉しいけど、ほんとに乾たちに怒られちゃうな』

 その時、その言葉を彼はお世辞だと思った。何せ、その大会を最後に彼はプロに転向することになっていたのだから。





 だから、公式戦の後に今でも届く小坂田朋香からの試合の感想のメールは、幸村にとって奇跡のような繋がりだった。





「ほんとに今でもびっくりしてるんだよ。先月もメール来て。まあでもさ、越前と竜崎さんのついで、なんだろうけどさ、テレビで試合チェックしてくれて、感想くれて、応援してくれて。そういうファンって思えれば違うのかもしれないけどさ、知り合いだから」
「知り合いだからとかそういう言葉でごまかすと取り返しがつかなくなるんじゃない」
「もう取り返しなんてつかないよって越前と竜崎さんの結婚の件今日聞いて思った。そういう年齢だもんね。小坂田さんも俺もそういう年齢だから」

 最初は言葉だった。思わずこの縁を切らさないためにと勢い込んで教えたメールアドレスは迷惑だったかなと思ったのに、そのアドレスには今も試合のたびにメールが届く。  その少女に恋をしたのはいつだったか思い出せない。あの時、突然声を掛けられた時に目を奪われて、でもそれはその瞬間だけで終わると思っていた。そう思っていた時間は今もまだ続いている。だから、ずっと恋をしている。
 だからこそ、取り返しがつかないのが分かる。取り返しがつかないくらい彼女を特別に思う自分と、なんの気負いもなく、普通のこととしてメールを送って応援してくれる彼女では温度が違いすぎる、と。

「取り返しがつかないって分かってるなら、上等じゃない」

 そう、年下の男に笑われて、幸村は焼きが回ったなとため息をついて見せた。大仰なそれにリョーマが笑ったところに、その二人めがけて駆け込む人影があった。

「リョーマ様ー!あ、幸村さんも来てくれてたんだ!って、それより桜乃今からドレス変えるって跡部さんが言ってるからリョーマ様ステージに戻って!もう連れてかれちゃいますよ!」
「小坂田、竜崎大丈夫なんでしょうね。着せ替え人形じゃないんだから…ていうか小坂田も少し休んだ方がいいって、絶対」
「そうは言ってもリョーマ様がどっか行っちゃうから主賓が桜乃だけに…!知り合いしかいないからいいんだけどとにかくリョーマ様いったんみんなを引き受けて!」

 血相を変えて本日の主役を呼び戻しにきた朋香に、リョーマは仕方がないなと踵を返す。その時に、彼はふと言った。

「小坂田、竜崎の着替えって小坂田担当じゃないよね?」
「違いますよー!私たち二人とも知らなかったんだから」
「じゃあ小坂田も休憩して。そこの人知り合いなんだし、二人で適当に休んでてよ。幸村さん、小坂田よろしく」
「え、ちょっと越前!?」





「なんというかすごいね、ここ」
「本当ですね…」

 取り残された二人は、城を彩る庭の端の芝生の上でぼんやりとそんなことを話していた。

「幸村さんに会うの一年ぶりくらいですかね」
「ほんとにいつもありがとうね」

 ひとしきりこの城とこのイベントについて話した後で、朋香はふとそう言う。言いたくなかったわけではなく、先月の大会あとだってメールをしているのはいつものことだったから、あえて言うのも違うかな、くらいにしか思っていなかった。
 そうしてその幸村の対応もごくごくありふれたものだから、朋香は少し安堵して少し落胆する。
 そうしてその朋香の言葉はごくごくありふれたものだから、幸村は大いに落胆した。
 このボタンの掛け違えを知らないのは、たぶん当人たちだけだから、リョーマは二人を残して行ったのだけれど。

「桜乃も結婚っていうとなんか嬉しいけど寂しいなあ」
「友達なことに変わりはないからいいんじゃないかな」

 だから話題は、やっぱり今日のこの話に戻ってしまう。

「それは分かってるんです。ずっと前から相談もされてたし。そうじゃなくて、なんていうか私はどうなんだろって思っちゃう」
「それは……俺もかなあ。二つ下の越前が結婚かあって」

 ありきたりな言葉に落とし込んでみようとした結婚という言葉は、だけれどひどく重い。自分以外の誰かと、なんてそんなに大それたことじゃない。ただ、やっぱり違うんだ、と思ったら空しかった。

「ね、小坂田さん」
「はい?」
「変なこと言ってもいい」

 だからこれは、全部が全部、この奇妙な時間と日本とは思えないような空間のせいだと幸村は責任転嫁してこれが最初で最後になるのを思いながら言った。

「俺さ、君のことが好きだよ」
「……え?」
「君は俺の最初のファンで…とか言うと逃げになるなあ。自分がプロになったことを利用した逃げになっちゃう。そうじゃなくてさ、なんの気負いもなく、ずっと変わらずに見ていてくれる君のことが好きになっちゃった。だけどこんなこと言うようなやつのファンやめたいって思われるのも嫌でっていうぐだぐだした感情のままここまで来ちゃった」

 静かに見つめ返す朋香に微笑んで見せて、幸村は続けた。

「ごめんね」

 その言葉を紡ぐ彼を見つめて、彼女は―――





「まだ痛い…すごい…小坂田さんに全力でぶたれるのは流石に予想外だった」
「だから、謝ったじゃないですか!」
「いや、俺も結構驚いてるっていうか、なんて言うんだろ」

 痛む頬をおさえながら、しかしその頬が緩むのも抑えられない幸村はその情けない顔をさらさぬように俯けた。

『なんとも思ってない人のこと今の今まで毎回、仕事の時は録画までして!有料チャンネルに登録までして!全部試合見ると思ってるの!?ていうか私がずっとやってたのなんだったの!?』
『え……?まさかと思うけどえ、小坂田さん?』
『このアプローチ方法が間違ってたんだって思ってあきらめようと思ってたのに幸村さんのバカババカー!!!』

 バチン、と鳴り響いた音の一拍あとで、彼は自分がぶたれたのだと気がついていた。

「そっかー、中学の時からかー」
「ニヤニヤされるとすっごく恥ずかしいんですけど」
「もっと早く言ってほしかったなーとか言ってもいい?」
「それはこっちのセリフです」
「だよねー、これで行くと俺ちょっと甲斐性なしだよね」
「付き合ってたわけじゃないから甲斐性とか求めてませんけど!」

 朋香の精一杯の照れ隠しに、幸村は今度こそ笑みが抑えきれなくなる。

「ね、小坂田さん」
「はい?」
「これからはさ、テレビじゃなくて、もっと近くで見ていてよ」

 追いかけたのは、追いついたのは、どちら?




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朋ちゃんおたおめ!遅刻!

2017/04/28