最高速度

「重くない?」
「へーき!」

 キイッと小さく音を立てて、神尾はペダルを片方だけ踏み込んだ。

「ちょっと神尾、いつもみたいに荒い運転したら許さないからね」
「うるせーよ、深司!やるワケないだろ!」
「どうだか」

 学校の自転車小屋から少々遅れて出てきた伊武が、神尾をねめつける。
 ねめつけた神尾の乗る自転車の荷台には、杏が座っていた。

「杏ちゃんに怪我させないでよね」
「大丈夫だよ、深司くん」
「杏ちゃん神尾に甘いよね。甘やかしてもいいことないよ」

 ぶつぶつ言う彼が隣に並んだから、「行くか」と神尾が一言言って、自転車を動かした。




 春休みの部活終わりの昼下がり、女子テニスの部室から制服姿で出てきた杏に、待ってましたと言わんばかりのスピードで神尾と伊武が近づいてきたのはつい先ほどのことだ。

「え?今日は男子早いね。切り上げたの?」
「別に早くないよ。杏ちゃん自主練してたでしょ。もう昼過ぎだよ」
「え、深司くんたちも自主練するでしょ?」

 きょとん、と首を傾げた杏に、伊武と神尾は笑った。確かに、彼女の言う通り、もう少し自主練するのがいつも通りだが、今日はここにいる二人も、残りのテニス部メンバーも、そうして、引退した彼女の兄まで巻き込んだ計画があるので、少々早く練習を切り上げた次第だ。

「どうしたの?」
「杏ちゃん、一緒に帰らない?」
「うん?いいけど?」

 本当に不思議そうにしている杏に神尾が提案したが、一緒に帰ることだってそんなに不思議なことではないので、杏はやっぱり不思議そうに首を傾げた。

「…あ!私、今日歩きなんだけど、二人とも自転車だよね」
「乗せてく。神尾が」
「ごめん、自転車で来れば良かったね。自転車、なんか兄さんに取られちゃったのよね。駅に忘れてきたとか言ってたんだけど、何だったのかな」
「橘さん今日なんかあったの?…ってやめろ、馬鹿深司!」

 知っていながら訊く声が、少々上ずったので、伊武は神尾の脇腹に肘を入れる。だが、それも杏にはいつもの光景に映ったらしく、別段気にしている様子もなかった。

「駅前で模試とか言ってたよ。高校入学前に受けといた方がいいとかなんとか」
「そっか」
「珍しいの。兄さん寝坊したのよ?歩きじゃ間に合わないから自転車貸せ、って言って、良いとも悪いとも言わないうちに行っちゃったんだから」
「そりゃ、橘さんにしては珍しいね」
「でしょ?」

 なんて笑いながら、自転車小屋まで歩いたのがつい先ほどだ。




「杏ちゃん、寄り道する時間ある?」

 自転車をゆっくり漕ぎ出して、校門を出たあたりで後ろを走る伊武が訊いた。

「私は大丈夫だよ。深司くんとアキラくんは大丈夫なの?」
「だいじょーぶ。じゃ、ちょっと飛ばしますか」

 その一言と共に、神尾のペダルを踏み込む力がぐっと増して、自転車が風を切った。

「ちゃんとつかまっててね。あと、深司、遅れんなよ」
「うるさいなー」

 そんな二人のやり取りに、杏は笑って言う。

「ね、どこに行くの?」

 当然の疑問として訊いたら、二人が笑う気配がした。

「秘密」

 薄く笑った二人の声が重なって、杏は好奇心に駆られた。




「下り!」
「ちょっと、変なとこでテンション上げないでよね」
「下り!スピードすごい!」
「杏ちゃんも!」

 伊武の制止もどこ吹く風という体で、先を行く杏を乗せた神尾の自転車は坂をスピードを上げて下っていく。

「深司、おせーよ!」
「荒い運転するなって言っただろ。だいたいこれだから神尾は馬鹿なんだよ」
「楽しかったあ!」

 下り坂の向こうにあった公園で、先に着いていた神尾と杏に、伊武は大きく息をついた。

「あ!寄るとこってここのこと?」

 自転車の荷台から降りた杏が、きょろきょろとあたりを見回す。ここ、と言ったって、学校から近い、住宅街の公園だ。杏も場所くらい知っていたし、何か特別なことがありそうにも思えなかったのだが、二人揃って「寄る」と言ったのだから、何かあるのだろう。

「半分正解」
「半分不正解」

 やっぱり二人は曖昧にそう言って、自転車を適当な場所に止めた。

「え?何かあるの?」

 杏が言ったら、買っておいたらしいスポーツドリンクを伊武に渡された。

「ありがとう…?」
「ちょっと話でもしない?」
「え?うん?」

 不思議そうな杏に構わず、伊武はベンチに座る。それに倣うように神尾と杏も座った。横長の椅子に杏を挟んで三人が座る形となった。
 話でも、と言ったは良いが、二人とも決定的な話題がある訳ではなさそうで、手持無沙汰という感じにスポーツドリンクを飲むから、杏はやっぱり不思議に思いながらしかし、二人に声を掛ける。

「男子テニス部新体制はいかがですか?」
「急に改まらないでよ」
「だってね、最近受験やら何やらで、兄さん行ってなかったじゃない?心配してたのよ」

 だから杏は、二人の反応にちょっと笑ってそう言った。新体制は、旧部長である橘を交え秋過ぎごろ決定されたらしかった。U‐17合宿などがあったため、全国大会の後もばたばただったからだ。その結果、部長が神尾、副部長が石田、会計が伊武、ということになったらしい。
 部長選出が多いにもめた話を、杏は後から、森と桜井と内村から聞いた。神尾と伊武の押し付け合いになったらしい。それから伊武の舌鋒に負けた神尾が部長を承諾した下りまで、容易に想像ができて、森たちと共に笑ってしまった。言われると断れない、案外律儀な神尾と、会計という、あまり責任も伴わないだろう微妙なポジションを獲得した伊武が、それぞれ『らしい』というものだった。……板挟みの石田が一番面倒だよな、とは桜井の言だ。

「上々、かな」
「まあまあ上手くいってるよなあー」

 だが、元々結束の強い部員であるし、神尾と伊武はそれぞれ性格やら何やら違うように見えて、びっくりするほど息が合う時が案外ある。だから、伊武と神尾が「上手くいっている」と言うのなら、それはきっと本当なのだろう、と杏には思えた。

「新入部員、集まるといいね」

 杏の一言に、二人は揃って天を仰いだ。その杏の一言に含まれるのは、揶揄でもなんでもない、だけれどひどく重大な言葉だった。彼女も分かっていてそれを言うのだ。だからこそ、二人の中に広がる、ほろ苦くて、だけれど甘酸っぱくもあるものがある。

「そうだね」

 空から目を離して、伊武が静かに言った。神尾はまだ空を見ている。


 テニスがしたくて部活に入ったのに、テニスができない現実が、あった。
 それは、もう取り消したり、なかったことには出来ない。
 それに、それを、なかったことにしよう、なんて、誰も思わない。

 それは現実だから。

 そうしてそれは、彼の打球が、フォアサイドを捉えなかったのと変わらない現実だから。


 全部を同値にしようなんて、誰も思わない。

 恐怖を、悔恨を、強さを、弱さを、過去を、未来を、現在を

 一人一人の一つ一つを同値にしようなんて、莫迦げたことなんだ、と長い夏が終わってから、彼らは思ってきた。
 それは、途方もなくて、莫迦げていて、そうしてひどく重かった。
 でも、だから立っていられる気もした。そういう、尺度の違う一つ一つが、それぞれを立たせているのだ、と思う。自分独りではなく、相手の中の様々な感情が、彼らを結び付ける。そんな気が、少しだけした。
 そう思ったら、妙にむず痒くて、神尾も空から視線を外して、取り繕うように笑った。

「青春、しちゃってるんだよね」
「いいじゃない、青春。若々しくていいわ」
「杏ちゃん、ちょっとあれだよ、若々しさが足りないよ」
「深司くん!」

 三人に笑いが拡がる。青春、か。と伊武は思った。凄まじいスピードで駆け抜けていったいろいろな感情や出来事を、青春と言ってしまえるようになった自分たちのことを、彼はぼんやりと、だけれど一方ではっきりと思う。

「まあ、神尾にしてはイイこと言ったかな」
「深司ィ!」

 杏を挟んで、いつも通りの喧嘩が始まりそうになったところで、伊武が携帯を開いた。

「神尾、時間」
「え?ああ、もうOKか?」
「うん。森からメールきてた」
「森くん?」

 二人の会話に杏が首を傾げたら、二人はベンチから立ち上がった。

「じゃ、目的地に行きますか」
「みんな待ってるからね」
「……え?」

 不思議そうにしながらも、杏は二人からちょっと遅れて立ち上がる。

「ね、どこに行くか教えてくれない?目的地ってここじゃなかったの?」
「残念だけど、ここは時間稼ぎ」
「へ?」
「目的地は杏ちゃんの家だよ」

 今度こそあっさりと答えた神尾が笑った。その前に伊武が「時間稼ぎ」と言っていたから、杏はますます分からなくなる。

 時間稼ぎ?みんな待ってる?

 不思議そうにしている彼女に、二人は少しだけ意地悪く笑った。
 様々と考えているうちに、乗り直した自転車が風を切る。その道は、間違いなく家への帰路だった。


 自転車が住宅街を縫うように走る。そうして、混乱する彼女に構わず、見慣れた自宅の屋根が見えた。

「あれ?」

 そうしたら、一日模試だから、と言って自転車を奪っていった兄も、それから、神尾と伊武以外のテニス部の面々が玄関先に出ていた。

「遅かったっすか?」
「いや、ぴったりだ」
「ちょっと、兄さんまで…どうなってるの?」

 両横の神尾と伊武を見上げて言ったら、二人は――二人だけではなく、そこにいる全員が、悪戯の見つかった子供のように笑った。


「Happy birthday!」


 兄のやわらかな声がして、杏はきょとんと目を見開いた。


at top speed






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最高速度で走る不動峰メンバーと、橘さんと。
杏ちゃん誕を口実に集まっちゃえばいいよ。
そんな感じで杏ちゃん誕生日おめでとう!

2013/03/21