サヨナラの速度
「これ捨てたらもったいないかなー」
けっこうな数の段ボールの前に服やら食器やドライヤーやら、様々なものを広げて、ほとんど足の踏み場のなくなっている杏の部屋で、俺は彼女の荷造りを手伝っていた。そんな中でふと杏が言った声に、俺は妹の手元を見る。そこにあったのは使い掛けで残りはあと2,3回分しかないくらいのテニスラケットのグリップテープだった。
「うん、無駄なもの持って行くと荷物になるし」
その声は、いやにきっぱりしていて、そうしてそれから彼女は荷造りと片付けのために段ボールと共に部屋にあった可燃物のごみ袋にそれを放り込んだ。
「おい」
思わずかけた声に、だけれど俺はその先になんと言ったらいいのか分からなくて、そうだというのに彼女のその行為を咎めようとした自分がひどく愚かしく思えた。
「なに」
透徹しきった瞳と声が俺を射貫く。
「もう、私もテニスはせんとよ」
唐突に、だがごく自然に、彼女は郷里の言葉遣いでその全てを言い切った。
途方もなく、遠い気がした。
俺が?
杏が?
どちらが?
何が?
誰が?
遠いんだ?
*
テニスを辞めると言ったとき、その言葉を是とも否とも言わずに聞いていた自分の妹に、俺はひどく救われていた。俺がテニスを辞めるという選択は、多分、彼女以外の誰にも許容されない、承認されない。そう、分かっていたから。
「ずっとそんな気がしてた」
静かに、それでもよく通る声で杏はそう返した。
「ねえ、きっとみんな逆のことを思っていたんだと思うの」
台所の椅子を引いて、俺の向かいに座ると、杏はそう切り出した。
「一度目は、不動峰のテニス部を作り直した時。多分みんな、兄さんがテニスをやることをもう一度選択したんだと思ったと思う」
彼女は苦く笑って、だらしなく机に肘をついた。
「二度目は、千歳さんにあばれ球を打った時。多分みんな、兄さんが自分のプレイスタイルを取り戻したんだと思ったと思う」
ああ、見抜かれている。何もかも。
だから口にしてほしかった。俺は多分、そうやって自分の理不尽で、不条理で、整合性のないこの理路を自分以外の誰かの口から聴きたかった。そうして、それを、テニス部の後輩たちも、千歳も絶対に口にしないと知っていた。これを言えて、そうして言ってくれるのが、この妹しかいないのを、俺は知っていた。
「二度とも、兄さんはテニスを捨てるつもりじゃなきゃそんなことできやしなかった」
俺の中に二年近く横たわっていた全ての答えを言い当てられて、俺は苦く笑った。苦く笑うことを許容してくれる彼女の前で、笑った。
「杏に隠し事は出来ないな」
「そうよ」
杏に、か。きっと、テニス部の後輩たちも、千歳もどこかで俺のこのどうしようもないテニスへの感情を察知していたことだろう。だが、彼らはきっとそれを「理解」しようとすることはないと思っていた。それは俺の傲りではない。むしろ俺の自業自得だ。自縄自縛だ。
俺の理不尽なテニスへの思いが、感情が、行動が、そうやって彼らを振り回して、だから俺はその責を詰られたら受け入れなければならないと思っている。
だから、この全てを受け容れて、理解してしまう、俺の行いを俺の隣で、俺と同じ視点で見てしまってきた橘杏という妹に、俺は救われるし、同時に彼女をひどく傷つけていると知っていた。
「私ね、東京に来て桃城くんに初めて会ったとき兄さんのこと自慢したわ。兄さんのテニスを自慢した。可笑しいでしょう?私はもうその時から誰も彼も「橘桔平のテニス」なんて知らない、これから先、誰かが知ることもないって分かっていたのね」
千歳に怪我を負わせてテニスを一度辞めた俺の選択を、千歳と俺の苦悩を、彼女は知っていたのに、東京に来たらまたテニスを始めた俺を、どう思っただろう。その答えがきっと、桃城への言葉だったのだろう。
「千歳さんも、不動峰のみんなも、だあれも、兄さんのテニスを知ってなんかいないと、私は確信していた」
それは破滅する道。テニスを捨てると、いや、もう一度テニスを拾い上げることなどないと、彼女はずっと知っていた。俺がそれをずっと知っていたように。
「不動峰に来て兄さんがテニスを始めた時、私はほっとした。全国で千歳さんと兄さんが当たった時、私は心底安心した。それは全部兄さんがテニスを終わらせるための道だったから。ひどいでしょう?私は兄さんはテニスを捨てると確信していたの、あの日からずっと」
あの日。
俺の代わりに、あるいは千歳の代わりに、泣いてテニスをするのか問うた妹の姿が焼き付いている。
焼き付いているのに、その記憶の中の彼女と、今、目の前にいる彼女が同じ少女なのだと俺には思えなかった。そう思えないほど俺たちは進みすぎてしまっていた。
「あの日からずっと、兄さんがテニスに縛られずに済む日を望んでいたの」
「ごめんな、杏」
「こんなこと、アキラくんたちにも、千歳さん…ううん、千里さんにも絶対言えないけどね」
「本当に、済まない」
馬鹿の一つ覚えのように謝ることしか出来ない俺に、杏は笑って言った。
「もう、いいんだよ」
ひび割れそうなその笑顔に、そのガラスが砕けるような声に、俺はゆるく笑い返した。
自分が上手く笑えていることを、祈りながら。
*
進学で杏が引っ越すことになったが、その引っ越し作業はちょうど彼女の誕生日付近に重なることになった。彼女がその学校に入学したいと言ったのは一年以上前。全寮制の女子高なんて、と思うくらいにはうちは裕福ではないのだけれど、驚いたことに奨学生として入学する算段を二年の時から始めていたらしい。俺がテニスを辞めた時と同じころに彼女も部活を辞めたから、なるほどそういうことかと思ったが、それでもそれはなんだか不思議だった。
そうして今日、その大詰めの作業の中で杏は残っていたグリップテープをごくごく自然な動作で捨てた。
その姿に、俺は痛みを覚えていた。
かつて杏が、俺の姿に痛みを覚えてくれたそれと等価であればいいと、俺は狭隘で利己的で傲慢な心で思った。
「もう、いいよね」
ビッとガムテープで最後の段ボールに封をした杏が、俺を見上げて言った。
何がもういいのか、俺は分かっていた。
「そうだな。お前ももうテニスから…いや、俺から縛られなくて、いいんだ」
あの日、彼女が俺を許してくれたように、それと同等であろうと言った言葉に、杏は笑った。
「何言ってるの?私は一生兄さんの妹よ」
辞めるわけないじゃない、と彼女は笑いながら続けた。
ああ、「もういい」という言葉すら、未だテニスやそれに付随するあらゆるものに縛られ続ける俺を掬い上げようとした言葉なのだと思ったら、俺は血を分けた彼女にひどく申し訳なく思いながら、そうでありながら心底安堵していた。
他の誰も、友人も、後輩も、大人たちすら、俺がテニスを捨てることを今以て肯定しはしないだろう。
ただ、彼女だけがそれを肯定してしまう。
それは杏が俺の妹だから。
それは俺が杏の兄だから。
一年、二年、三年……
あの日から、日々は速度を上げて遠くへと過ぎ去った。
今俺たちはやっと「テニス」というその日々から手を離す。
だけれど。
これから何年経っても、俺たちは兄妹であることを辞めないだろう。
辞めることなど、出来ないだろう。
「荷造り終わったんだな」
「うん、これでラスト」
「じゃあアイスでも食いに行くか。誕生日だし好きなの買ってやる」
「キャー!兄さん御大尽!」
日常の速度で、日常の会話を俺たちはした。
そこに、大きくて、冷たくて、強い熱をはらんだ青春を、置き去りにして。
(美しく、冷たく、痛みを伴う俺たちの全てに、サヨナラ)
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杏ちゃん誕生日で桔平視点。
2016/3/22