新しい学校、新しいクラス、新しい級友―あらゆるものに背を向けて、やって来たその「新しい」世界は、輝いてなんかいなかった。こういうのを、無味乾燥、と言うんだろうか?
 例えば、私がクラスで新しい友達を作っても、例えば、私がまたテニスを始めても、何一つ、変わらなかった。
 日常は、何でもないことのように消化されていく。ただ、私を取り残して―


「あ…!」

 放課後の部活、変に力の入った球は、相手の手元には届かず、フェンスを越えて、どこかに行ってしまった。

「すみません、すぐ取ってきますから!」

 焦って大きな声で言うと、その場の全員が、ぴたりと動きを止めた。動き出していた肩を、近くにいた先輩に軽く押し止められる。

「あっち、男テニのコートだし…」

 肩に手を置いた彼女を振り返ると、いやに緊張した面持ちでそう言われた。

「え…?」

 意味が分からなくて、周りを見回すと、一様に緊張した顔をして、でもどこか気まずいような顔をして、私の方を見ている。

「大丈夫よ、こんな時間まで練習してるヤツなんていないから…」

 そう言った先輩の顔も、どこか緊張していた。

「それは…そうだけど…」

 少しの間、先輩たちが何事か小声で話し合っていて、それから、部長が私を振り返った。

「いい、橘さん。人がいたら、すぐに戻ってくるのよ」

 それがどういう意味なのか、その時の私には分からなくて、ただ曖昧に肯いて、私はボールが飛んで行った方へと歩き出した。


 周りの緊張がうつってしまったのか、そろりそろりと、男子テニスのコートに足を向かわせる。まだ早い時間だというのに、人の気配はしなくて、それもなんだかおかしな気がした。でも、その方が都合がいいのも確かで、敷地に足を入れる。
 ボールを探そうと視線を巡らせて、私は思わず目を見開いた。
人が、いた。
 彼は、コートに身体を投げ出して、空を眺めていた。私には、多分気付いていない。

『人がいたら、すぐに戻ってくるのよ』

 念を押すように言われた言葉が頭を掠める。でも、コートに寝そべる彼が、緊張を強いるような存在には思えなくて、それに、ボールは彼の横に転がっていて、声を掛けなければ、ボールを持ち帰ることはできないだろうということも、暗にうかがえた。

「あの…」
「え」

 声は、ずいぶん間が抜けて聞こえた。コートに投げ出された腕がぴくりと動いて、次いで上半身が起き上がる。

「あー…女テニの人?」
「そう、です…あの、そのボール」

 横に転がるボールを指さすと、彼は少し驚いたような顔をして、立ち上がった。

「…さっき飛んできたの、君が打った球か。届けに行けばよかったね」

 ごめん、と小さく付け足して、彼はコートに転がっていたボールを拾い上げる。一瞬、彼は何かを躊躇うような表情をして、それから、こちらに近づいてきた。

「はい、これ。こんなとこまで飛ばすなんて、君、結構パワーあるんだね」

 微笑んでボールを手渡す彼の顔が、一瞬『誰か』と重なる。それが誰かは分からなくて、思考は霧散した。

 近づいて見ると、彼は傷だらけだった。どんな練習を(それも一人で)したら、こんなふうになるんだろう。その疑問は、ごく自然に、口をついて出た。

「あの…一人で練習してるんですか?」

 すると、彼はバツが悪いとでもいうような顔を一瞬して、それから口を開いた。

「ああ。いつもはね、一人ってわけでもないんだ。今日は…なんて言うか、たまたま、俺の運が良かっただけ」

 苦笑して言われた言葉は、良く分からなかった。運が良いとか悪いとかで、練習できたりできなかったりする、というのは、なんだかとても奇妙に聞こえる。そんな疑問が伝わったのか、彼は苦笑を、困ったような笑みに変えて、少しだけ首を傾げた。

「君、転校生?」

 こくんと肯くと、彼は、納得した、というような顔をした。

「だよなあ。女テニで俺たちのこと知らないなんて、ないもん」

 少しだけ安心したような、そして、少しだけ傷ついたような顔を、彼はしてみせた。その意味が、私にはやっぱり分からない。
 くいっと頬を拭って、それから彼は笑った。

(あ…)

 その笑顔に、心の中で、小さく呟く。
似ている、と。
先程霧散した思考がかちりと繋がる。

 彼は、私の身近な人にとても似ていた。新しい友達ができたと言った時も、またテニスを始めると告げた時も、どこか、遠くを見つめるような視線で、私の目を見て『そうか』と、優しく言う、彼に。
 それが、痛みに耐える姿なのだと私の経験は告げていた。

「もう行った方がいい。きっとみんな、とても心配してると思うよ」

 優しく笑った彼は、本当に、彼にそっくりで、私は彼の言葉に反して、その場から動けなかった。

「どうして…」

 呟いた声は、掠れていた。喉の奥がからからに乾いている。

「どうして、そんなに痛そうなのに、笑うの?」

 どうして、笑うの?どうして、平気な振りをするの?どうして、どうして…
 その問は、そのまま丸ごと私に跳ね返る。新しい世界は、輝いてなどいないのに、私は必死に笑おうとした。必死に、彼を笑わせようとした。それはいつも失敗に終わって、私はありもしない絶望を、新しい世界から拾い上げる。
 新しい世界には、希望なんてなかった。その代わりに、絶望もなかった。それなのに、私は、ありもしない絶望を、自分で生み出して、そうして、また、世界に絶望する。

「君こそ、どうして泣いてるの?」

 彼の傷だらけの手が、私の頬を撫でる。頬を走る生温かい滴が、彼の手を濡らした。

「だって…」

 だって、世界は、本当は輝いていて。だって、世界は、本当はもっと優しくて。だけれど、私は、彼は、その世界に触れられなくて。ありもしない答えを繰り返しなぞって、ありもしない絶望に打ちひしがれる。そんな日々が、悔しいのに、声さえ上げられない。そんなの―

「そんなの、かなしすぎるから…」

 涙で滲んだ視界の向こうで、彼は目を見開いた。

 世界には、初めから希望が詰まっていて、同じだけ、絶望も詰まっていて。それでも世界は輝いていて―
 だから、かなしい。その世界に触れられない痛みも、その世界に触れるがゆえの痛みも、私たちは味わわされる。
 その痛みに、どうして耐えられるだろう。そんな、世界が私に、彼に、降り注ぐ痛みに、どうして耐えられるだろう。

「耐えなくても、いいじゃない、そんなの」

 それは、やっぱりそのまま私に跳ね返る。本当は、この世界で笑いたい。だって、本当は、この世界は輝いているのだから。
 世界が輝きを失ったんじゃない。私が、目を閉じて、耳を塞いで、必死に世界から逃げているだけ。

 彼の手を伝って、滴がぽたりぽたりと、夕暮れのコートに染みを作る。

 逃げて、目を閉じて、耳を塞いで、それでも私は、世界の中に留まり続けたいと願う。その願いを叶えられるのは、きっと私しかいない。他の誰かに、肩代わりしてもらおうとか、誰かの分も背負おうとか、そんなことは、きっと大それたことなんだ。
 それでも、目の前の彼が、私と同じように、世界の痛みに耐えるだけで、背を向けて、諦めているのだとしたら、それでもまだ、もう一度世界に戻りたいと願うなら―

「いいのよ、そんなの。耐えなくたって、傷つかなくたって―」

 自分に言い聞かせるように、それでも彼に届けばいいと思いながら、涙と共に零した言葉に、彼は優しく私の頬を撫でた。

「ありがとう」

 零れ落ちた言葉は、確かな強さを携えていて―




 校舎から、校門まで続く桜並木の桜は、もう散り始めていた。また一つ、季節が終わる。
 髪が風になびいた。その風は、思うよりずっと優しくて、それでも、見上げた枝に残る花びらを散らす。

「ねえ、もし、君がかなしんでくれるなら、俺は多分、それで十分だったんだ」

 初めて彼に出会った時、私は、どうして彼が傷ついているのかも、何を耐えているのかも、何も知らなかった。何も知らなかったけれど、それでも私には、彼の、あの、傷ついた笑顔が全てだった。

 それは、写し絵。世界に怯える、私自身の、写し絵。

 それでも私たちは、もう一度、この世界に立つ。

 少しずつ、本当にゆっくりと、でも、急速に、私たちは変わっていった。世界はやっぱり優しくて、無味乾燥に思えたそれも、確かな温かさを携えて、私たちを包む。
 そうやって、少しずつ、私たちは前に進んでいく。そこに、傷が残っていても、また世界の痛みだけを感じて、世界を拒絶してしまいたくなる日が来ても、それでも、私たちは前に進む。

 ひらひらと舞う桜の花弁を、器用に一枚、その掌に載せて、彼は笑った。

「だけど、今は、君には笑っていて欲しいと思う。贅沢かな?」

 その笑顔は、あの日のように傷ついてはいなくて、春の終わりへのかなしみと、新しい世界への期待に満ちていて―

ほら―


世界が




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世界には、たくさんの希望が詰まっていて、でも同じだけの絶望も詰まっている。
世界は時には優しくて、でも、時には耐え難い痛みをもたらす。
世界が牙を剥いた時に、私たちは、きっと、また立ち直れる。そう、誰かの痛みを理解して、手を携えることで―

そんな思いを込めて、森誕生日小説でした。あんまり誕生日関係ないですが;再開一本目が少しシリアスチックで申し訳ないです…楽しんでいただければ幸いです。
2011/04/18