「やってらんない」
杏の口からこぼれた言葉は、一筋の白い息になった。
蕎麦の定義
九連休なんて嘘だ、と思いながら、杏は現在の恋人である書類を揃える。仕事以外の恋人とは、先週末に別れたところである。相変わらず男運がない。男運がないのは、中学生の頃からずっとそうだ、と、彼女はオフィスビルの窓ガラスから年末の街並みを見下ろした。
とはいえ、今日で仕事納めであることにも変わりはない。12月30日。明日は押し迫った年の瀬、大晦日である。それに、30日まで働いた分、というように、新年の休日は暦通りである。感謝していいくらいだろう、と思いながら、杏は最後の書類を確認してデスクを立った。
***
男運がない、というよりも、まともな縁が薄い、と杏は自己分析をしながら点々と年末の街を歩いていた。橘家が東京に居を構えてもう10年は経つ。彼女が中学生の頃に家族全員で越してきたから、生れ故郷に戻るのは盆の頃だけだった。だが、実家暮らしではない杏が東京の実家に戻るのは明日の予定だった。
だから今日はどこか寄って行こう、と杏は思っていた。自由になる年末休みは今日までだ。明日になれば家中での新年の準備と新年の祝いに駆り出されるのだから。
杏は、そんなことと男運のことを考えながら、ショーウィンドウの前でふと立ち止まった。ピアスだった。石が本物かは分からないけれど、深い青の石が付いたピアス。
「馬鹿ね」
杏はふとつぶやいて、自分の耳に手を当てる。そこには、ピアスなんてなかった。
『開けんと?』
『校則違反やん』
『杏は真面目やねえ』
男は、あっけらかんとした風情でその箱を杏の方に放った。
『そやったら、付けられるようになったら付けよ』
それが、多分、過去に交わした最後の言葉だった。その後すぐに、杏は熊本を離れ、再会の機会を得ても二人は言葉を交わすこともなくそのまま時が過ぎた。
「付けられる日なんて、来ないわよ」
怖くて、と付け足しそうになった時だった。そのショーウィンドウのガラスに、大男が映り込んで、杏はハッと振り返る。
「ピアス、買うとね?」
笑った男に呼吸が止まる。昔彼女にピアスを渡した男、千歳千里が、そこにいた。
***
「ピアスしとらんとね?社会人なんに?」
「痛そうじゃないですか」
適当な言い訳をしてから、杏は蕎麦をすすった。店内はまあまあの人出で、混んでいるとも空いているとも言い難かったが、明日には満席なのだろうな、とぼんやり思いながら。
どういうことか、街中で出会ってしまった昔馴染みと、杏は蕎麦屋に入って少し早い夕食を食べていた。明日も年越しそばだというのに、困ったものである。
誘ってきた、というより、ほとんど引きずるように蕎麦屋に杏を連れてきたのは、当然だが千歳である。多分、杏は何事も無ければ何事も無かったように会釈をして、その場を去っていただろうから。
痛そう、と言ってから、杏はふとひどく悲しい気持ちになった。ピアスのことなんて、と思う。
「千歳さんが」
「ん?」
ふと笑い掛けられて、杏は返答に困る。あなたが言う、付けられるようになったら、そこに私は行けないの、と本当は叫び出したかった。
「なんで東京にいたの」
「たまたま。明日にはあっち帰るけん。杏おったからほんなこつたまがった」
「すごい偶然ね」
偶然で、そうして、互いに変わっていなかったそのことに、杏はやっぱり悲しくなる。一目で彼が千歳千里だと分かった。彼が彼女を一目で橘杏だと気が付いた様に。
男運の無さ、縁の薄さ、というものに、杏は一つの結論を見ている。この男から最後の最後にもらったピアスを付けることが出来たなら多分全部帳消しなんだ、と、妄信に近いことを、だけれど彼女は信じていた。
付き合っていた、と言うにはそれはあまりにも淡い。でも、ピアスを渡されても疑問に思わない関係、だったことは間違いない。
「ピアス、開けられないの」
小さく杏は呟いた。
開けてしまえば、どんな人とも付き合える気がした。何度だってやりなおせる気がした。
どこか遠くを見ているね、と言われるのはもう疲れてしまった。そうして見ている先にいるのが自分にとって‘千歳千里’という途轍もなく遠い男だと思い知らせるのにはもう疲れてしまった。
その膨大な道の先にいるはずの男が、今、目の前にいてあまりにも簡単にピアスを開けたらいいと言う。その現実が、杏にはひどく重かった。
(きっと)
私にピアスをくれたことなんて、忘れてしまったんでしょう?
理不尽な疑問が小さく揺れた。そのたった一つのピアスが付けられないだけで、再会してしまった貴方がひどく疎ましいのに、とやっぱり理不尽な思考が落ちた。
「じゃ、これやる」
会計を叩きつけて席を立とうとした杏に、千歳はふと小さな袋を差し出した。全然洒落気のないそれは、それでも彼には似つかわしくなかった。彼。もう10年近く会うこともなかった男。
「ピアス開けられんのやったら、これ」
袋の中から出てきたのは、深い青の色をした石の付いたイヤリングだった。あの日もらったピアスに、よく似たイヤリング。
「憶えて…」
杏は小さく呟く。そうしてそれから、憶えていたならそれはそれで意地が悪い気がした。
「憶えてたの」
「まあな」
「謀った?」
「うーん、そこは杏次第?」
「謀ったのね」
ねめつけたら千歳はからっと笑った。謀った、なんて杏が使う言葉じゃないみたいだ、と。それだけ月日が経ったのに、思い描くのはいつも彼だった。縛り付ける様に。だから、ピアスを開けたくなかった。その痛みが、多分一生分彼に縛り付けられる痛みになるような気がしていたから。
分かっていた。ピアスを開けたって、開けなくたって、その男は自分を縛るのだ、と。
座標の始点にいる男は、いつも傍にいた。望む望まぬに関わらないから、それは多分ずっと彼女の中で引きずられてきたのだろうと思う。
「待ってた」
千歳は笑った。待っていた、なんて、そんな嘯きはいらないと思ったのに、それはまるで事実のように聞こえるのだ。
ピアスが開けられなくて、彼のことを考えて、そうして、熟して落ちてくるのを待っていた、とでも言う様に。
「迎えに来てよ、そういう時は」
「性に合わんけんね」
「相変わらず嫌な男ね」
「そりゃ褒め言葉」
今度こそ本当に笑った千歳に、杏は今度こそ席を立つ。千歳もそれに習う様に席を立った。
「奢る」
「おっ、豪気。キャリアウーマンやねえ」
「明日の誕生日プレゼントの代わりよ」
ずっと傍にいたのね、と杏は小さく呟いた。それから綺麗な所作でイヤリングを付ける。耳元で愛を囁くようなそれに、杏は小さく小さく笑った。
「もう逃げないわ」
貴方の傍からは、逃げられそうもないわ。
傍の定義
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遅刻したけど千歳おたおめ。
2014/01/07