水曜日


 困った。昨日から繰り返されたその言葉に、杏はさらに困る。困った。

 昨日の夕方、部活が終わると、何通かメールが届いていた。それ自体は珍しいことではない。友人からも来るし、兄を始めとした家族からも来る。彼女は、どちらかと言えばメールを打つのが早い方で、いわゆるメル友も多い。
 しかし、受信ボックスの中に入った一通を、どうしても開けなくて、彼女は悶々としたものを抱えたまま帰路に就いた。

「どうしよう」

 例えば、答えを倦んでいる土曜の予定の催促だったら、どうしよう。そんなことを考えた。そのメールは、柳からのものだった。
 だが、見たくないから見ない、という選択は、明らかに間違いだということも分かっていた。
 ベッドに体を投げ出して、恐る恐るメールを開く。
 目に入った文面に、絵文字は見当たらない。それはいつものことで、彼らしいなと思うと、少し胸が温かくなった。
 それから、確認したくない内容に目を通す。

『from:柳さん 今日はこちらは秋晴れだった。部活に顔を出したのだが、テニスをするには気温もちょうどいい。そちらの天気はどうだろう?一、二年生よりも早く部活を抜け出して、今は海沿いの喫茶店にいる。潮風が気持ちのいい場所だ。夜には、ずいぶん気温が下がるようになったが、体調を崩したりはしていないだろうか?それでは』

 彼女にしてみれば、決して長いとは言えない文面だったが、少なくとも、杏が心配していたことには一つも触れられていない。むしろ、何でもないことでこんなメールをしてくれることは珍しくて、杏はギュッと枕を握り締めた。

「うれしい…」

 今の気持ちを、口に出してみる。嬉しい。まさしくそうだろう。まるで、何の障害もない恋人同士のような、些細なメールをする度に、彼女は嬉しさを噛み締める。そんなこと、彼は知りもしないだろうし、わざわざ知らせるのもなんだか恥ずかしくていたが、こうして、何でもないメールを彼が送ってくれるのは、思うよりずっと嬉しかった。
 さっそく返信を作ろうとして、しかし、杏の指はぴたりと止まる。

 何だって彼は、突然こんなメールを送ってきたのだろうか?

 そう考えたら、否応なしに彼女の、返信を作る作業は取りやめにせざるを得なかった。もしかしたら、遠まわしに、土曜日の予定を聞いているのではないだろうか。何でもない文面は、彼なりの気遣いで、と考えてしまって、杏の指は止まる。
 そうなると、返信にはかなり困ることになる。

 困った。

 昨日、彼からいわゆるデートの誘いをもらったが、自分は応とも否とも即答することができなくて、そのことを彼はきちんと分かっていて、とぐるぐる考えてしまう。確かに、柳に書道展に誘われれば、嬉しいに違いない。行きたい。だが、それが、杏にとってはかなり難しいことであるのもまた事実だった。

 困った。

 その一言がへばりつくように脳内を占める。結局、そのメールに、その日のうちに返信することが杏にはできなかった。




 期限は刻々と迫っている。今日はもう水曜日だ。昨日来たメールに返信していない、というだけでなく、「約束」の土曜日さえも近づいている。
 友人と昼食を食べながら、杏は、何度目か分からないが、作りかけのメールを削除した。思わず息をつくが、それで時間が止まるはずもない。
 これは、逃げだ。
 そう、自分でも分かっている。分かっているから余計に辛い。誰が「駄目だ」なんて言っただろうか。兄も、テニス部の面々も、そんなことを言いやしないだろう。ただ、怖いだけだ。

(あの時と、一緒ね)

 この感情に、名前をつけるのが怖かったあの時と一緒。独りで勝手に悩んで、そうして、答えをうまく見つけられない。

「ちゃんとしなさい」

 そう、小さく呟いて、携帯をいじる。なるべく、この焦りや不安が伝わらないように返信を作って、それから、もう二通、メールを作る。

 返信は、昼休みが終わる前に届いた。もちろん、彼の方ではない。『いいですよ』という文面を含んで、今日の授業の愚痴や、失敗談を連ねた、絵文字いっぱいのメールが一通と、明日の何時頃、どこで、という質問を連ねた一通。二人とも肯定だということに安心して、しかし杏は、何から話そうかと、今から少し不安になる。

「ケーキくらいは、おごらないとね」

 そんな自分に苦笑して、駅前のコーヒーショップを指定したメールを送った。


ジュリエットの困惑




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遅くなってすみません!相変わらず杏ちゃんを困らせ隊です、いつものこと。
2012/4/4