春嵐


「っと」

 強い風に攫われて、支えている自転車が揺れる。砂埃が舞って、森は小さく目を細めた。

「雨、降るかなあ」

 ぼんやりと見上げた朝の空はひどく青い。青いのに、強い風が雨を運びそうで、彼は大きく息をつく。春の嵐。風だけならいいが、雨に降られると見学期間の部活は中止になるだろう。そんなことを考えながら数台しか止まっていない自転車小屋の、先日から学年が変わったために変わった置き場所に自転車を置く。
 そうしてそのままテニスコートへと足を向けた。
 早朝練習と称して森はここに来ているわけだが、新年度早々である。クラスなどでいろいろとやることもあって、早朝練習に参加する、というかやっているのは、今年度に入ってはまだ森だけだった。
 だが、今日は風が強い。ボールがおかしな方向に飛んでしまっても困ると、彼はジャージに着替えず、学ランのままでぼんやりと彼はそのテニスコートに立ちつくした。
 風が吹いている。強く彼の体ごと攫おうとする風が。

「変だよね、こんなの」

 誰もいないテニスコートで、彼はぽつりと呟いた。

「ここで、俺が練習出来て」

 ここで、俺は練習出来なくて

「ここで、俺は後輩を迎えて」

 ここで、俺は先輩に拒まれて

「手を伸ばしたら届くなんて、変だ」

 ぐにゃりと、彼は自らの中の矛盾と焦燥を叩きつけた。たった一年。たった一年で、自分たちはここまで来たのだ、という思いと、同時にたった一人の人間の手が、自分たちをここまで押し上げたのだ、という途轍もなく広大で、それ故にひどく理解し難い感情が襲う。

「意味分かんない」

 風が強く吹いて、彼はふとしゃがみこんだ。ラケットの入っているバッグが軽い音を立ててテニスコートに着く。

「なんで、だよ」

 彼らを掬いあげて、そうしてこのテニスコートをここまで押し上げたその人は、もういない。いない、のだ。
 信じていた訳じゃない、と言い訳のように彼は思う。
 初めから、信じていた訳じゃない、と。
 信じられない。だって、その人について彼を含めた部員たちは何一つ知らなかったのだから。
 ただ、もう届かない事だけは分かっていた。
 昨秋のU−17合宿で、千歳とダブルスを組んだと聞いた時から、それは薄々分かっていた。

(いや。多分、もっと前から)

 彼の視界に、自分たちが入っていないことに、気が付いていた。気が付いていたのに、と訳もなく思った。
 そんなことないと言う声もある。ずっと見ていてくれたと、そう言う声も。
 だけれど、本質的に彼と自分たちは違っていたのだと、どこかで知っていた。

「練習もしないで、何してるの」

 しゃがみこんだそこに、声は唐突に掛けられた。トンっとテニスボールが声の主の手とコートの間で上下するのが視界の端に映る。

「深司か」

 森は、斜め後ろの彼を振り返る。伊武はそれに、もう一度テニスボールを弾いて、それからそれを手中に収めた。

「風が強いから休んでた」
「そう」

 馬鹿正直な答えに、だけれど彼は一つも異を唱えずに肯定した。振り返って見上げたら、彼の伸ばされた髪が風に攫われて、顔を覆う。伊武は、それをうっとうしそうに指に掛けた。
 その髪の下から現れた眼光が、鋭いことが、森を何故だか安心させた。
 何故?―――理由なんて分かっている。
 彼は、嘘をつかない。それだけだった。

「時効だから言うけどさ、橘さんはあばれ球を打てたよ」
「うん」
「俺たちが後押ししちゃった感は否めないけど、あの人はもう、何の制約も無しにあの技を打てた」

 多分彼は、昨年のU−17合宿のことを言っているのだろう、と森はぼんやり思う。
 それは、彼の行けなかった合宿だった。同じ舞台に立っていた、なんて、やっぱり嘘だ。選ばれる人間と選ばれない人間、と、詮無いことを彼は思った。

「もう、いいんだよ。きっと」

 何が、誰が、「もういい」のか、伊武は言わなかった。言わなくても、十分だった。

「嵐みたいだったね」
「……そうだね」

 立ち上がった森に、伊武は言葉を選ぶように逡巡して、だけれど肯定した。
 嵐。
 綺麗なことばかりではなかった。
 爪痕も残った。
 それでも、その嵐に攫われて、そうして自分たちは今ここに立っているのだと知っている。
 空の奥で雷が鳴った。

「深司、天気予報、見た?」
「なに、お前見てないの?朝のニュース見るか新聞読むかして家出ろよな。お前はそういうタイプじゃないと思ってたんだけど。あーあ」
「午後の天気は?放課後、見学の部活出来るの?」

 ぐちぐち言う伊武の扱いなんて、彼にとっては手慣れたものである。遮るように訊いたそれに、伊武は視線を逸らして言った。

「午後は    」

 だけれど、言葉は雷鳴に掻き消された。
 そうして、ぽつりぽつりと冷たい滴が落ちてくる。

「戻るよ」

 森に一瞥をくれて、伊武は踵を返した。
 一直線に校舎へと向かっていく彼を、森は、冷たい滴を受けながらぼんやりと見ていた。
 だけれど、もう一度春の雷が鳴って、彼は弾かれたように伊武の後を追った。

 春の花を散らす雨が、誰もいないコートに冷たく落ちた。




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2014/4/18