「男テニの部室、行かなきゃ…」

 手の中のグリップテープを見て、杏はため息をついた。

 不動峰中に転校してきてまだ日は浅いが、兄である橘桔平が暴力沙汰を起こしてまで新テニス部を設立してからは、もっと日が浅い。

「あれはさすがに驚いたな…」

 驚いたのは桔平が暴力沙汰を起こしたことではない(そんなことは獅子楽にいたころのことを考えれば日常茶飯事のようなものだ)。不動峰中のテニス部の惨状だ。転校初日、教室で出会った神尾アキラと森辰徳は朝だというのに顔やら足やらに絆創膏が貼ってあって、喧嘩でもしたのだろうかと思ったが、後で桔平から男子テニス部の部員なのだと聞いて杏は納得した。あれから(新テニス部が半ば無理やり結成されてから)、神尾と森とは親しく話すことも多くなったが、それ以外のテニス部員には杏はまだ面識がなく、男子テニス部の部室に行くのは少し抵抗があった。

「でも、届けないとダメよね。」

 杏の手の中にあるのは、朝練があるからと先に家を出た桔平が忘れていったグリップテープだった。朝練くらいでは困らないだろうが、桔平がわざわざ買い置きしていたグリップテープである。今日の部活で必要になることくらいは杏でも容易に想像がついた。ちょうど今日は女子テニスの練習は休みであったから今に至る。

「掘っ建て小屋みたい…」

 初めて来た男子テニス部の部室を見ての杏の正直な感想はそれだった。掘っ建て小屋、は言い過ぎかもしれないが、簡素なプレハブ小屋は、テニス部が活動するにはとても物足りないように感じた。

「鍵…開いてないわね。」

 掃除当番の無かった杏は他の生徒よりは早く教室を抜けていた。部室のどこかにぽんと置いておけば、桔平も気がつくだろうと思ったがその思惑はみごとに外れてしまった。

「とりあえず…誰か来ないと話にならないわ。」

 兄が一番に来てくれればいいのだけれど、などとちょっとの希望を抱いていると、なにやら人が近づいてきた。

(うわ、おっきい人…お兄ちゃんの…先輩?)

 部室に近づいてくる大柄な男は、明らかに桔平よりも背が高くて、杏は動揺した。確か、新設のテニス部は兄以外みな1年生のはずだ、と考えてさらに動揺する。兄だって、身長は中学生にしては高い方なのだ。それよりも高いとなると、どう考えても先輩だとしか考えられない。

(まさか、元テニス部の人…とか!?)

 杏が動揺しながら、部室の前をうろうろしているのを発見して、大柄な男、基、石田鉄は、はて、と首を傾げた。テニス部には女子マネなんていう上等なものはいない。だが部室の前でうろうろしているのは明らかに女子だ。

(ちっちゃい子だな…)

 石田の第一印象はこれである。しかし、女子なんかに縁の無い部室の前でうろうろしているのだ、テニス部に何か用事があるのだろう。声を掛けないわけにはいくまいと思って、近づいていくと、より小さいのがわかる。

(あ…結構かわいい…)

近づいてみて、石田はそんな風に思った。黒目がちな目元、センターで分けられてかわいいピンで留められた色素の薄い髪、そして何より手を置くのにちょうどよさそうな小柄な身長。

「あの…うちに何か用事?」
「えっ…あ、あの」
(声もかわいい)
(どうしよう…)

声を掛けられて、杏はほとほと困ってしまったが、石田の方はあまり深刻ではないようである。しかし、このままいられるわけでもない。

「「あの!」」

二人同時に声を出してしまって、思わず顔を見合わせる。

「あ、あなたから…どうぞ。」
「い、いや。俺は…その…」

場の空気が大変微妙なものになってしまい、さすがの石田も焦った。手に持ってきた部室の鍵が空しい。その時だった。

「どうしたんだ、石田…ん、杏か?」
「お兄ちゃん!」
「橘さん!」

渦中の人、橘桔平が現れた。

「こんなところで何してるんだ、杏?石田と何かあったのか?」
「え、えっと、違うの、お兄ちゃんに用事があって…」
「俺に?」

(お兄ちゃん…だとー!?)

あまりにも突然で、石田はめまいがした。ちょっと、いや、結構かわいいと思っていた女の子が、橘さんの妹…

(アキラが、橘さんの妹はかわいいって言ってたけど…)

「グリップテープ、忘れて行ったでしょ。いると思って持ってきたの。」
「お、そうだったか。ありがとな。」

目の前で展開される会話にもついていけずに、立ち尽くしている石田を、杏が振り返った。

「えーと…」
「ああ、石田に会うのは初めてだったな。石田、紹介する。俺の妹の杏だ。」
「一年の橘杏です。」

ぺこりと頭を下げられて、石田はハッと我に帰った。

「え、あ、ああ。俺も、一年の石田鉄っていいます。」

しどろもどろにそう言うと、目の前の杏が瞠目した。

「一年生なの!?」
「あ、ああ、うん。君と一緒」
「なんだあ、あんまり背が高いからお兄ちゃんの先輩かなって思っちゃった。よろしくね。」
(あ…笑った…)


出会って初めて見た笑顔に、妙に胸が熱くなる。

「よろしく!」


―例えば、こんな会い




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峰っこと杏ちゃん好きです。
2010/10/28