とどかないはなし


「お帰りなさい、ちょうどよかった。そこの皿取ってくれない?」
「これお前が作ったと?」
「今日家庭科の時間にね、習ったの。家でも作ってみなさいって家庭科の先生が言うから」

 指差された皿は台所の机の上。桔平が覗き込むフライパンの中身は麻婆豆腐で、杏はまだ何か思案するようにそれを睨んでいた。杏は元々、兄である桔平と違って料理が上手な方ではない。だが、これはなかなかの出来だろうと思いながら桔平は机の上の皿を取って杏に手渡した。

「ありがと」
「いや」

 そういう短い受け答えのあとで、杏は麻婆豆腐をその皿に盛りつける。

「はい。今日は塾帰りの兄さんの分だけ私が夕飯作ったの。スープもあるよ」

 季節は冬休み前。部活を引退してから桔平は塾に通っているためにいつも帰りが遅かった。盛り付けた麻婆豆腐、温めた中華風スープ、それから白米をよそって、彼女はそれを台所の机に並べた。今日の家庭科の授業そのままの献立らしい。

「悪かね」
「いいえー」

 椅子に座っていただきますと手を合わせて言った桔平の向かいに、杏も座る。そうしてだらしなく肘をついて兄を眺めながら、片手で麻婆豆腐の盛りつけられた皿を指差した。

「この皿、駄目なのよ。棚の一番高いとこにしまってあって母さんも手が届かなかったのよ。どうせ兄さんがしまったんでしょう。結局父さんに取ってもらったの」
「ん?ああ、これか。こないだ博多煮盛り付けたときに使ったとね」

 ふと目を上げて言うと、杏はふうんと応えた。それをちらりと見やって、桔平は妹御手製の夕飯を食べるのに戻る。

「うまかねえ」
「お世辞?」
「違う違う。杏もずいぶん上達したと」
「そげんなこと言うてもなーんも出やせんよ」

 杏は、ふふと笑って、兄のように郷里の言葉で言った。そうしたら桔平も可笑しそうに笑った。

「兄さん、変わったね」
「は?」

 男子中学生なんて食べ盛りだ。早いものでそろそろ茶碗も皿も空になるところで、茶碗を持って最後の一口の白米に箸を伸ばしていた桔平が怪訝そうな顔で向かいの杏を見返した。

「髪も昔みたいだし、言葉も全部元通りだし、テニスのプレースタイルも、全部元通りに、変わった」

 彼女は、それらを「戻った」ではなく「変わった」と言った。その意味が、桔平には重い。その意味が、分かってしまったからだった。

「それは……」
「千歳さんと勝負して、吹っ切れたと?」

 もう一度、郷里の言葉遣いで言ってそれから、「それとも」、と頬杖をついた杏は続けた。

「それとも、不動峰のテニス部辞めて、吹っ切れたと?」

 鋭利な刃物のような言葉が容赦なく彼に突き刺さる。妹がどうしてこんなことを言うのか、なんて愚問だ。

「私、知ってた。届かないって。アキラくんや深司くんたちテニス部のみんなも、私も、兄さんには届かない。テニスが、じゃない。兄さんが考えてることに、私たちは届かない。届かなくていいんだと思う、たぶん。でも、それは途轍もなく、途方もなく空しいことなの」

 その杏の言葉を聞きながら、桔平は麻婆豆腐の最後の一口を食べた。それが、妙に辛く感じる。

「ねえ、兄さんはどうして不動峰のテニス部を立て直したの」

 その問いに、桔平は返答に詰まる。暴力でテニスをすることが出来なかった後輩たちに、暴力的なプレーのためにテニスを辞めた自分が重なったのかもしれない。状況も、理由も、何もかも違うのに。でも、それは多分違う。違うと、知っていた。

「テニスが、したかったんだと思う」

 彼はいつの間にか東京の言葉遣いで言っていた。

「必死なあいつらを見ていたら、テニスを辞めるという自分の決意が揺らいだんだと思う」
「そう」

 静かに、杏は言った。

「導いた、なんて多分嘘だ。俺はあいつらに必要とされて、あいつらと全国を目指した。目指したのに、俺は千歳との試合であいつの死角を避けた。そのあとの合宿で千歳と組んで、全部吹っ切れてしまった。元に戻った」

 彼もまた、静かに言った。

「元に戻ったことが悪いことだと、私は思わないわ。確かに兄さんはまたテニスを楽しめるようになった。千歳さんと仲直りできた」
「ああ。だが、俺は結局不動峰テニス部をどうしたかったんだろうと今になると思うよ」
「……そうね」
「自分がもう一度テニスをやりたい、自分がもう一度千歳の隣に並んでも許される存在になりたい、そんな浅薄な理由を隠すために、多分、あいつらを助けるとか、導くとか、勝たせるとか、たくさんの理由を並べてしまった」

 杏はふと視線を落とした。そうして瞳に映った台所のテーブルの木目を無意識に数える。現実から、逃避するように。

「ねえ、兄さん」

 ひどく静かな声だった。呟くように、囁くように、静かに、杏は言った。

「私たちは届かないわ。どうしたって、兄さんの考えている何かに届かないわ。それで、きっと良かったの。でもね」

 そこで杏は言葉を区切った。その先の言葉を聞く義務が、自分にはあると桔平は思っていた。

「それはとても空しいことなの。テニス部のみんなも、私も、兄さんを理解しようとしたわ。でも兄さんはその先に行ったわ。理解できるはずなんてなかった。だって、それを理解できるのは私たちじゃなかった。手で空気を掴むみたいな、雲を掴むみたいな話だった」

 杏にとってどうだったかは分からない。だけれど、少なくとも不動峰のテニス部員にとって、そうして何より、U-17合宿で、千歳との距離を、かつてのプレイスタイルを取り戻していくそれを間近に見ていた伊武と神尾にとって、それは本当に残酷な現実だったと桔平は、そうして杏は知っていた。


 届かなかった。
 最初から届かなかった。
 不動峰を見ていなかったなんて言わない。
 だけれど、彼のテニスに肯定するのは、不動峰の部員ではなかった。
 彼が自分のテニスを肯定してほしかったのは、不動峰の部員ではなかった。


 裏切りではない。
 もっと単純明快なことのような気がする。

 届かなかった。

 彼の理想に。
 彼の苦悩に。
 彼の思考に。
 彼の現実に。

「届かなくてよかったと、思うのかもしれないわね」

 杏はぽつんと言った。

「空しくて、悲しくて、だけれど届かなくてよかったと、多分思うのだと思うわ」
「……すまない」

 そう言った兄に、杏は笑った。

「私は何も言えないの。兄さんには届かないし、不動峰のみんなも大事なのに、またテニスができる兄さんと千歳さんを嬉しくも思ってしまう。両方、大事なの」
「ああ」
「でも、兄さんも両方大事なんだよね」
「それは間違いないと言える。あいつらを裏切ったのは事実だ。自分を正当化したい訳じゃない。だけど、あいつらと過ごした日々は、間違いなく俺をテニスに引き戻してくれた」
「よかった」

 きっと、と、杏は胸中で思う。


 ねえきっと、裏切り者は二人なの。
 ねえきっと、私も兄さんと一緒なの。
 ねえきっと、届かないのは私も一緒なの。
 ねえ、あなたがテニスを楽しめて良かったと思っているわ。
 ねえ、でも私はどうしてかあなたを責めてしまうの。
 ねえ、安心した私はどうかしている。
 ねえ、詰責した私はそれなのに安心している。


「届かないのは、多分、私も一緒」

 泣きそうな声で杏は言った。
 どこに届かないのか、誰に届かないのか、何に届かないのか、彼女の兄は聞かなかった。


 誰かのために、テニスをするなんて、どこにも届きやしない。
 エゴイズムが、彼と彼女を沢山のものから遠ざける。


「新しいテニス部に、俺はいらんとよ」
「ほうね。もう―――」

 杏の言葉は続かなかった。
 桔平は、皿洗いと片付けくらいやるのが筋だろうと思って立ち上がる。杏は机に突っ伏している。
 多分、泣いているのだと思ったらどうしようもなく空しく、悲しかった。これが多分、彼らと彼女が味わった思いなのだろうと彼は思った。


 皿を片付けようと思った。
 彼女では、到底届かない棚の一番上に、皿を片付けようと。


届かない話




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2015/07/17