「何をしている!」
派手なエンジン音と、怒号。不穏なことこの上ない。桜乃と朋香はびくりと肩を上げた。
UNKNOWN
示し合わせることも無く一散に駈け出そうとした二人の目の前に、キィッとブレーキをきかせる音がして、大型のバイクが横付けされる。逃げ場がない、と青ざめて、二人は思わず声を上げた。
「ごめんなさい!」
「いやァァァー!」
思い思いの叫び声を上げる、推定中学生(小学生に見えなくもない)二人に、バイクの主、徳川はハンドルから手を離すと、軽く手を振った。
「落ち着け、いいか、」
「いやっ、いや!桜乃、私が時間を稼ぐから、逃げるのよ!」
「だから、」
「朋ちゃん、ダメだよ、一緒に逃げよう!」
二人で震え出した少女に、徳川はしびれを切らす。
「そんなに俺が怖いなら、俺の後ろをよく見ろ!」
最初の時のような怒声を放つと、二人はまたびくりと肩を上げて、だが、この脅迫者に従わなければ命がないとでも言うように、恐る恐る、長躯と黒いバイクの向こう側に目をやって、桜乃と朋香はひっ、と息を呑んだ。
「がっ、崖…!?」
「うそ…だって、あのまま歩いてたら…」
「分かったか」
今度は別の意味で震え出した二人に、徳川は、はあっと大きく息をつくと、ヘルメットを外した。
「この辺の人間じゃないな、こんなところから落ちそうになるなんて」
合宿所の最寄り駅から、歩いて約十五分。道を一本間違えれば、目的地への道を失うばかりか、迷ったこの二人が辿り着いたこの辺りは、木や下草が視界を遮るから、足を踏み外せば転落するような場所も少なくない。
「全く…」
呟いた彼に、朋香はブレーキ痕とタイヤをたどった。自分たちと崖の間すれすれのところに、彼はこんなに大きいマシーンを割り込ませたのだ、と思ったら、どうやったのだろう、と思ってしまう。
「もう一度聞くぞ。何をしているんだ」
問われて、ハッとした二人は、あたふたと状況を説明する。
「あの、テニスの、合宿所、ありますよね?」
「応援っていうか、見学っていうか…その…」
それで、駅から迷った、というところか。今年は、偵察だの、応援だの、侵入だの、よく分からない事案が多いな、と徳川は何となく遠くを見つめた。
「あの!関係者の方ですか?」
朋香がそう声を上げると、徳川は肩をすくめてみせた。
「関係者、と言うよりか、参加者、と言うべきだな」
「え…!?17歳以下なの!?」
そんなに老けて見えるだろうか、と、ちょっとだけムッとして、徳川は外したヘルメットを口さがないツインテールに投げる。それからいつも積んであるもう一つのヘルメットをおさげの方に投げた。
「乗れ。合宿所まで連れて行ってやる」
「あの…助かりました、いろいろ…」
「いや」
合宿所の入り口で、徳川は二人を降ろす。ヘルメットを外した桜乃が言うと、徳川は、相変わらずの無表情で応じる。
「ここで待っていろ。勝手に入るといろいろうるさいから」
そう言い置いて、彼はバイクを片付けに向かった。―まさか、その短時間で彼女たちが行方をくらますなどとは、露とも思わずに。
「鬼ー!見て見てー!」
事の発端は、昼の休憩で合宿所をぐるりと散歩していた入江だ。入口近くで桜乃と朋香を発見。「どうしたの?」と声を掛けると、迷子のところを、あるいは命さえも救われたとはいえ、お世辞にも優しいとは言えない徳川の目つきや言動に緊張しきっていた二人は、入江の声にもびくりと反応する。
「あれ?どうしたの?迷子?」
だが、それでもにこにこと声を掛けられて、二人の緊張は徐々に解けていった。
「あの、バイクの人にここまで連れてきてもらったんですが…」
「徳川かな?」
入江に訊かれて、二人は顔を見合わせる。『徳川』。そう言えば、命を救われた割に、名前も聞かなかったし、彼も名乗ったりしなかった。
「それで、お嬢さんたちは誰に用事かな?よかったら案内するけど」
「あっ、あの!送ってくれた人に、ここで待っているように言われたんです!」
「あ、それは大丈夫。知り合いだから」
そう言われて、二人はもう一度顔を見合わせる。『知らない人に付いて行ってはいけません』などという基本中の基本は、イレギュラーな場面では簡単に揺らぐものだ。
こうして、爽やかな誘拐犯は、二人の少女を手に入れたのである。
「入江、何をやっている」
「可愛いでしょ?入口のところで困ってたから連れてきた」
鬼の問い掛けに、入江は飄々と答えた。二人は、それはもう困っていた。とりあえず知り合いの中学生に会いたいのに、この誘拐犯…基、入江と名乗った男は、二人を連れ回して高校生に引き会わせては「可愛いでしょ!」と自分の妹か何かのように振る舞って久しい。
「朋ちゃん、やっぱり、その、徳川さん?だっけ?待ってた方が…」
「良かったかも…ね…」
この合宿、女子は少ないらしい。そうは言っても中学一年生だ。女性にカウントされることはない。女の子、だ。行った先々の反応は二分された。どうして、そんな子供がいるのか、というのと、入江と同じく、驚くほど可愛がろうとするのと。(客人よろしく、一般的に扱っていた徳川こそ、珍しいのだ、ということに、そこで二人は気がついた。)聞きなれないイントネーションで話す高校生からは二人まとめて頭を撫でられた。
それで今度は、どう見ても『高校生』には見えない青年が、不審そうに入江と二人を見遣る。―何をやっているのか、とか、二人の素性だとかに不審を抱いた、本日二人目の常識人である。
「徳川が誘拐してきたんだ!」
得意げに言われて、桜乃と朋香は青ざめる。誘拐された覚えはないが、そういうことになるのだろうか?いや、待ってほしい。今のこの状態の方がずっと誘拐めいている。
「違うんです!あの…!」
「青学の応援に来ただけなんです!徳川さん…?に連れて来てもらっただけで…!」
その必死の訴えに、鬼は首を傾げて応じる。
「青学…?中学生なら、もう練習中だ。青学と言うと」
言い掛けたところで、ピンポンパンポンと間抜けな音が拡声器から落ちた。
『竜崎桜乃さん、小坂田朋香さん、ようこそいらっしゃいました』
「えっ!」
二人の声が重なる。
『入江くん、鬼くん、お二人をラウンジに案内してください』
「黒部コーチ、モニター見てるねえ」
感慨深げに入江が呟いたところで、拡声器から、ガッと何かがぶつかる音がする。
『誘拐犯の徳川くんも、逃げ隠れせずに出頭してくださーい』
「齋藤コーチ…徳川に殴られるぞ…」
「待っていろと言っただろう!」
ラウンジに着くと、先に来ていたらしい徳川が、開口一番怒声を放った。
「ごめんなさい!」
「だって…」
「やあやあ、誘拐犯の徳川。怒らないでやってよ。入口でどうしたらいいかって顔してたから連れてきちゃっただけなんだ」
「誘拐犯じゃありません!!」
「あまり怒ると怯えさせるぞ」
鬼の方が絶対に怯えられると思ったのに、徳川の怒声から身を隠すように二人が隠れた先は、その鬼の後ろだった。道中手懐けたらしい。そう思ったら、どっと疲れが訪れた。
「どうせ、俺は愛想がないですよ」
「愛想がないだけならいいですが、うら若い女性を誘拐とは穏やかじゃないですねえ、徳川く…カハッ、痛い!」
振り返りもしない徳川の裏拳は、齋藤の喉元を捉えた。
「チッ」
顔面にめり込ませたかったが、さすがに身長が高すぎる。そう思って素直に舌打ちしたら、齋藤は少しだけ顔をしかめて、首をさすった。
「ひどいですね。ジョークですよ、ジョーク。乗せて来てくれたのでしょう?」
ジョーク…ジョーク一つで、女児二人を誘拐したことになって、あまつさえそれを合宿所中に吹聴された徳川の心中、察して余りあるな、と鬼は思った次第である。
「初めまして。青春学園中等部一年生の竜崎桜乃さんと小坂田朋香さんですね?」
「なんで…?」
「U‐17合宿精神コーチの齋藤と言います。あ、至って名前なんですけど、そっちで呼んでもらってもいいですよ?これ、差し上げます」
差し出された飴を、これまた徳川がパチンと払い落とした。
「あれあれ??相当イライラしていますね徳川くん」
「違います。何が入っているか分からないものを、外部の中学生に食べさせるわけにはいかないということです」
「なんて信用がないんでしょうね!」
そんな茶番劇を演じていたら、ラウンジに人が集まってきた。
「竜崎!」
「朋ちゃん!」
「竜崎さん、小坂田さんも!どうしたんだい!?」
青学の中学生たちの声だ。それに、二人は思わずしゃがんでしまう。
「おい、どうした?」
緊張がやっと解けて、気が抜けたのだが、徳川は目に見えてうろたえた。あたふたしていると、ヒュッとテニスボールが飛んできて、反射的に受け止める。
「アンタ、竜崎たちを誘拐したってほんと?」
かなり険のある声は、三日前に合宿に帰還した越前リョーマだ。多分、今のボールも彼だろう。ボールを凶器にするな!と叫び出したい。
「誰が誘拐なんてするか!」
それから、リョーマは桜乃から、菊丸と大石は朋香から、ここに来た経緯について話しを聞いて(徳川が誘拐犯ではないことを、二人ともきっちり付け足したことが、徳川の精神を余計にえぐった。言うまでもないじゃないか、と思う)、その場は事なきを得た。彼らは、昼休憩が早く終わってもう練習中だという。
「観に行ってもいいですか?」
「もちろんです。ですが、お二人はまだお昼を食べていませんね」
齋藤に言うと、やっぱりにこにこと言われた。
「さて、徳川くん。君もまだお昼を食べていませんね。どうです、お二人と一緒にお昼なんていうのは?」
断る口実がない―と言うほど、邪険に扱う存在ではない。むしろ、そういう扱いをしたいのはこの男だ、と思いながら、それでも徳川は、二人に視線を投げる。
「案内しよう。はじめからそのつもりだったしな」
「はい!」
「よろしくお願いします」
水を得た魚、というやつだろう。知り合いに会えて、相当に安心したらしい。そう思ったら、徳川の頬も緩んだ。
「あの、さっきはすみませんでした」
「こんなことになると思わなくて…」
昼食を待つ間、二人が言うと、徳川はひらひらと手を振って見せた。
「別に構わない」
構わない、ということはさすがにないだろうが、なんだかもう、諸々の経緯がどうでも良くなっている自分がいるのに、徳川は内心ため息をついた。だが、その一方で、年長者として言っておかなければならないこともある。
「だが、知らない人間に付いていくべきではないと思う」
そんなことを言えば、合宿所に乗せてきた徳川だって、『知らない人間』なのだが、素直な二人はそろってしゅんとする。
「ごめんなさい」
「気をつけます」
雛鳥のようだ、と不覚にも徳川は思う。
「えっと、徳川さん…でいいんですか?」
「ん?ああ。名乗っていなかったか。徳川という。正真正銘、U-17合宿参加中の高校生をやっているが」
「……気にしてたんですね」
「……気にするな」
もはや誘拐犯云々よりも、朋香に言われたそちらの方が気になるらしかった。
「だって、バイクに乗ってたから…」
「バイクは普通免許を取れば乗れる」
「えー…」
朋香は不審そうに、それでいて不満そうに口を尖らせた。
「なんだ」
「……なんか不良みたい」
「朋ちゃん!」
正直は美徳だ。幼ければなおさらに。だが、こうも何度もズバッと言われると、さすがの徳川も眉間にしわが寄る。
「免許を持っていると言っただろう。別に無免許で乗り回してるワケじゃない」
「だって……ほんとに?」
「ほんとに!」
オウム返しした徳川が可笑しくて、桜乃はちょっと笑ってしまう。大人だと思っていたのに、変なところで意地を張るところがあるのだ、と思った。
「だって、免許って何歳?」
「16歳だ」
「じゃあ、なんであんなに乗りなれてるの?」
「う……」
「あ!今迷いましたね!」
「迷っていない!」
まるで小学生の口喧嘩だ。だが、その一言は純粋な興味となる。真面目そうな彼が、無免許で公道を乗り回しているなんて、二人とも思わない。そういう性格の人間なら、わざわざ迷子を拾ったりしないだろう。
「ほら、来たぞ。食べろ」
「徳川さん」
パスタと日替わりのランチを前にしても、二人は興味津々といった体だ。徳川の分はまだ届かないから、話題を逸らすことも出来ない。このままでは、二人とも食べ始めもしないだろう。
「……海外」
「え?」
「ジュニアの大会でよく外国にいた」
その一言に、桜乃はぴくりと反応する。朋香も、ふと思い浮かぶ顔がある。
「もともと、バイクには興味があって、時間のある時に乗せてもらったことがけっこうある。これでいいか?ほら、冷めるぞ。食べろ」
「アメリカとかも、ですか?」
大人しそうな方に問われて、徳川はめずらしいな、とこの短期間ながら感じた。
「アメリカ?ピンポイントだな」
「あ…すみません」
首を傾げたところで、徳川の前に続々と皿が運ばれてきた。
「えー!それ一人で食べるの!?」
「悪いか」
「す、すごい」
肉、魚、肉、野菜が肉魚に比べれば少し、大盛りのご飯。普通の女子中学生である桜乃からすれば到底食べきれる量ではなく、家事手伝いの多い朋香からすればバランスが悪すぎる。
「何か言いたそうだな。先に言っておくと、トレーニングでは筋破壊を起こして、回復させることで筋力をつける。必然的にタンパク質を多めに摂取しないと修復は難しい」
ざっくりと自分が肉や魚を中心に食べる理由を説明するが、二人はぽかんとしている。それに徳川は少しだけ苦笑した。彼の食生活は、基本的にテニスを中心に回っている。食生活だけではない。生活そのものが、テニスを中心に回っている。
「ところで、今更だが、君たちは誰を応援に来たんだ?」
先程中学生が来ていたから多分あの学校。パッと名前までは思い浮かばないが、あの少年のいる学校。
「青春学園の応援に来ました」
「……そうか」
青春学園、と言われてもピンとこない。だが、多分それが、あの生意気で、だけれどきっと、強くなる少年のいる学校なのだろうということは判った。
―彼はきっと、雪辱を果たしに来る。己のように。
「リョーマ様、元気そうだったね。桜乃のメールも届かないって言ってたから、すっごい心配したんだよ」
朋香の一言に、感慨に耽っていた徳川は僅かに目を見開く。
「うん。よかった。先輩たちも元気そうだったね。乾先輩にも繋がらなかったでしょう?」
「知り合いか?」
「はい?」
「越前リョーマ」
咄嗟に口を衝いて出た名前。三人は一瞬固まった。徳川は、いや、と一人思う。確かに先程自分に(テニスボールで)攻撃を加えたのは越前リョーマだった。その後少女が話しをしていたのも彼。分かっていたようなものだ。だが、言葉になって初めて感じるものがあった。
「あの…リョーマくん、なにか…」
困ったように桜乃が言うと、徳川も思わず困ったように笑った。リョーマくん、リョーマ様。どんな関係だろうか、とは訊かなくてもいい気がした。そんなこと、コートに立ってみれば分かる。
「強くなるよ、彼は」
今日は、あの生意気な中学生をコートに引きずり出してやろうか、と、徳川は思った。彼は受けて立つだろうか。―それは少し、意地悪が過ぎるかもしれない。
「まだ、遠く及ばないが」
不思議そうな顔をしている二人を見て、彼はもう一度微笑んだ。
UNKNOWN―彼女、或いは彼。未知との遭遇―
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徳川さんはテニスバカだといいなっていう話。とっても被害者ですが、徳川さん大好きです!
2012/4/24