「別れようか。」
嘘つき
不動峰からも、立海からも程近いストリートテニス場。そこは杏と柳にとって、「いつも」のデートの場所だった。いつも通り、柳は部活が休みで、不動峰は部活がある今日、ずいぶんと日を空けて、久しぶりに落ち合い、打ち合うこと小一時間。
久しぶりに彼の打球を受けて、上機嫌だった杏は、唐突に切り出されて、言葉を失った。
「え…あの」
「別れようかと言っている。」
「なん…で…?」
その先の言葉はあまりに混乱して出てきてくれない。
「理由か?それならばいくらでも上げられるぞ。まずお前は計算高くないからな。俺の好みではない。」
それから、と理由を列挙しようとしたところで、杏は目元にふわりと涙を溜めた。
「ごめん…なさい…なおすから」
「別れないでくださいとお前は言う。しかし答えはノーだ。」
その台詞にびくりと杏の肩が跳ね上がる。
何がいけなかったのだろう。いや、何もかもいけなかったのかもしれない。計算高くないから、なんて台詞が、杏には出来合いの理由に思えた。
例えば、不動峰の日程に合わせなければ、ここで会うこともできないことも。
兄にさえ、彼と付き合っていることを言い出せずにいることも。
平気で彼以外の誰かとここでテニスをすることも。
数え上げればきりがない。杏にとって、柳との関係は、言うなれば忍ぶ恋だった。どれだけ彼が橘のことを理解していようと、どれだけ苦悩しようと、そして、どれだけ杏のことを想おうと、柳が立海の参謀であった事実は消えない。彼らは、どんな形であれ、杏の兄を傷つけた。不動峰の部長を、傷つけた。
そのことは、驚くほど杏のことを縛り付けていた。橘は元より、テニス部の面々に、何と言ったらいいのか。それは平謝りして許されるなんて、そんな簡単なことではないように杏には思われた。それは、重大な裏切りだ。だからこそ、神尾や伊武が来るかもしれない、不動峰テニス部が休みの日には、杏と柳はここには来られない。
しかし、それは同時に柳に対する裏切りではないのか。落ち込んだ思考はますます彼女を追い詰める。自分よりも、不動峰を選んだと思われても、それは何ら不思議な行為ではない。実際には、杏は、どちらも選べなかった。かつての彼女なら、この関係を迷わず兄や不動峰の面々に話しただろう。止めろと言われても、罵られても、自分の意地を通しただろう。
それが、できない。それだけ好きなのだ、不動峰の仲間も、柳のことも。
二つを量りにかけるなどということが、杏にはできなかった。できないままでずるずると関係を続けてきたこと自体が、柳には許せなかったのかもしれない。
そんな杏の精一杯の思考を知ってか知らずか、柳は冷淡に言い放った。
「付き合いも今日までとしよう。それではな。」
彼は何でもないようにテニスバックを持ち上げた。呆然としている杏をよそにコートから離れようとする。
これは、きっと罰だ。大切なものを両方とも裏切った罰。
そう思ったら、目の端に溜まった水滴が、ぽたりと頬を伝った。視界がにじんでも、彼の背中は近くならない。
「待って!!」
思わず地を蹴って、杏はその離れようとする背中にぎゅっとしがみついた。
「いか…ないで…」
「未練がましい女は嫌いだ。」
「なおすから…柳さんの嫌だっていうところはみんな、なおすから…お願い…いか…ないで」
「…」
背中に縋って泣いても柳は沈黙を保っている。
みんな、なおす、なんて無理だということを、杏は重々承知していた。不動峰の皆を裏切らなければ、柳を満足させることはできないだろうし、柳を裏切らなければ、不動峰の皆を納得させることはできない。そもそも、裏切る裏切らないどころか、この関係そのものが裏切りなのだ。彼は、そんな煮え切らない関係自体に嫌気が差しているのではないか。
それでも、杏にはどちらも選べなかった。
言わなくてはならないことがある。だがそれは同時に、言ってはならないことだ。縋った背中の温度を感じながら、杏は僅かに逡巡した。しかし、先走る感情は理性を軽々と凌駕する。
「私はまだ柳さんのことが好き…大好きだから、」
涙混じりに杏がそう言った途端に、柳は背中に縋る彼女を振りほどくと、振り返って、自分と比べればかなり小さくて、折れてしまいそうな彼女の身体を、傷つけないように、それでも強く、抱きしめた。
「え…?」
「好きだ、杏。」
何もかもが突然すぎて、芥子色になった視界の中で杏は目を白黒させた。
「柳…さん…?」
「すまない、また泣かせてしまったな。」
「え…え?」
あやすようにゆっくりと頭を撫でる。その手つきは驚くほど優しい。
「さっきのは冗談だ。」
「冗…談?」
未だに状況が掴めなくて、杏の目からはぽろぽろと涙がこぼれている。それを柳は丁寧に拭う。
「すまない…どうにも俺は杏の泣き顔が好きらしい。突然泣かせてみたくなってしまった。」
「…じゃあ」
別れなくていいの?と消え入るように呟いた杏の言葉を柳は口付けで拾った。
「無論だ。」
短い口付けの後に微笑んでそう言えば、杏はぐっと柳の胸板を押した。
「柳さんの…バカ!」
「すまない。」
「ほんとのほんとに…悲しかったんだから!別れようかなんて…」
「もう言わないから赦してくれ、杏。」
そう言って柳は杏の額に唇を寄せる。
柳とて、彼女の苦悩を知らないわけではない。それどころか、人目を忍んで会っているその関係が、杏を追い詰めているのではないかといつも不安に思っていた。そうでなければ、あんなに溌剌として、はっきりと物を言う彼女が、こんな関係に甘んじていること自体、どこか歪んでいる。
もしかしたら、こんなふうに持て余してしまうような熱量を保っているのは自分だけで、彼女はとっくに冷めているのかも知れない。いや、そもそも始まりから、一人芝居だったのかも知れない。そんな弱気な思考は、常に柳の中にあって、杏同様、それは彼を縛り付けていた。
自分などとは付き合わない方がいいのではないかという思考と、それでも放してやることができないという相反する想い。
先にそれが爆ぜたのは柳の方だった。決意したのは、彼女の球を打ち返したつい一時間ほど前のこと。しかし、突き放すための言葉は、いつの間にか組み上げられていて、すんなりと口から零れ落ちた。それが、杏にまだ思いが残っていれば、いかに彼女を傷つけることになるかなどということは、もはや問題の範疇にはなかった。
どんな言葉を使ってでも、この関係を終わらせなければならない。
彼女のために。
そう思ってから、柳は薄く自嘲の笑みを口元に浮かべた。
(違うな。)
彼女のために、なんて建前を使ってまで、彼女によって傷つけられるのが怖かった。それならいっそのこと、自ら傷つけて、突き放した方がいい。そんなとても利己的な思いで接してしまうほど、柳の心は杏に奪われていた。
しかし、彼女は、まだ自分のことが好きだと言ってくれた。
(全くもって、酷い男だ!)
傷ついたのは、結局彼女で、自分は彼女の恋情に甘えて、溺れている。償いの言葉など、持ち合わせてはいなかったが、その代わりに、柔らかな髪に唇を寄せる。
「お前には嫌なところなど何もないさ。杏が計算高いなどというのは想像力が追い付かないしな。」
フッと笑ってそう言えば、腕の中の杏がどんどんと胸を叩く。
その笑みが、精一杯の虚勢だと、彼女は気付いただろうか?気付かないでくれ、と思いながら、彼女の、涙で濡れた真っ直ぐな視線を受け止める。そうしたら、なぜか、口角が上がるのを柳は止められなかった。虚勢ではなくて、心からの笑みが生まれるのを、彼は止められなかった。
それは、安心のようでもあり、そして何より、彼女が己の存在を許してくれたことの幸福のようでもあった。
幸福。彼女が自らの腕の中にいるという何物にも替え難い幸せ。
「バカ、バカ」
そう何度も繰り返す彼女の耳元に、柳は口を寄せた。
「お前の…」
低く言われて、杏の顔が赤く染まる。
「お前の泣き顔は俺だけのものだ。」
「…っ!」
真っ赤になった杏を、柳は満足げに抱きしめた。
彼女を独占することは、きっとできないだろうけれど。
一つくらい、独占できるものがあったって、許されるだろう―
―嘘をつく舌、愛を囁く舌
=========
杏ちゃんを泣かせ隊(隊員現在1名)。泣かせたいんです。
柳杏の杏ちゃんはいつも泣いていますね。酷い男だ!←お前がな!
本当はギャグのつもりで書いていたのですが、何だろうこのシリアスチックな感じ…
面白いギャグが書けるようになりたいものです。
2011/1/25