なんだかなあ、というのが友香里が一年生の頃に感じたそれだった。
なんだかなあ、というぼんやりした感情で、その輪の中心にいる男子生徒を眺めていた。
純情の対価
「えー。ウチマネージャーでも何でもないやん」
「ほんっまにごめん!」
パシンと手を合わせた兄に、友香里はブーブー文句をつける。
「ええけど」
「さっすが友香里や!」
嬉しそうに言った兄こと白石蔵ノ介は、四天宝寺テニス部元部長だ。大した話ではない。引退したそのテニス部に、差し入れでもしようと思ったが時期が時期だ。2月。押し迫ったバレンタインデーは、白石にとって思った以上に面倒な行事である。
苦手なことは逆ナンと言うほどの白石にとって、2月の放課後はとにかくクラスから一目散に出てしまわなければ進学塾に遅れてしまうのである。特に今年は三年生で、同学年の女子は白石の性格も、もちろん自分たちの進路も分かっているからこそ何事もなく過ぎるのだが、そうして先輩の視線が緩めば後輩がやってくる。友香里は自分の兄ながら厄介な顔立ちなものだと思った。
兄が引退してから一ヵ月に一回はテニス部に何か持って行っているのを友香里は知っていた。しかしそれも今月が最後だろう。来月には卒業だし、卒業式の準備だの練習だのが入れば部活もろくに出来やしない。その最後の差し入れも、結局はバレンタイン云々以前に受験対策の進学塾へ通っていることを考えればほとんど無理筋のような気もしたが。
「何持っていけばいいの?やっぱりチョコ?」
「駄目や!友香里がチョコ持ってったら勘違いするやついるやろ!?」
「訳分からんなあ」
自分で運搬を頼んでおきながらキャンキャン言う兄に、友香里はため息をつく。そもそも頼まれた時点でテニス部まで行こうなんて思っていないのに。同じクラスにいるあのいけ好かない新部長に渡してしまえばいいのだ、と彼女は思っているのだった。
「なあ、財前ってモテる?」
「え?藪から棒やなあ」
ぶつぶつとプロテインだの包帯だのとおおよそ自身の趣味で差し入れを考え始めた兄に、友香里はぽつんと聞いた。
「モテるっていうか、なんやろ、アイツモテたい願望みたいなのあんの?」
「えー…あいつのそういうんは聞いたことないなあ。雑誌のグラビア見てるのは見たことあるけど。エロいやつちゃうよ。普通の女の子。ああ、でもよく女子から告白されてるんとちゃうの?」
それを世間ではモテると言うし、そもそも訊いた友香里も彼がたくさんの愛の言葉をもらっているのを知っているのだ。
知っているのにどうして兄に聞いたのだろう、と彼女はぼんやり思う。
「アイツ、楽しくなさそう」
「え?」
「何でもない。やっぱしチョコやろ、この時期やったら。それ以外よう売ってへんわ。明日適当に買ってきて財前に放っておくから。部員何人やっけ」
「ああ、友香里、財前と同じクラスやったなあ。それやったらええわ。チョコかあ。じゃあお言葉に甘えて頼んでもええか?分からんねん、どれが何やら」
「ええよ。貸し一つやからね」
ずいっと人差し指を立てた妹に、白石は可笑しくなって笑ってしまう。
「はいはい」
自分よりもずいぶん背の高い兄が笑って、友香里はぼんやりとその笑顔を見ていた。
*
友香里は、財前光と一年生の時も同じクラスだった。最初のうちはひどくぎこちない会話しかしたことがなかった。出席番号が男女で隣り合っていて、日直がいつも一緒だったのだ。二人のクラスは席替えをしても日直だけは出席番号が隣り合っている男女のペアだった。
ぎこちない会話、というのはほとんど友香里の兄が白石蔵ノ介だったらかだろうと思う。互いによそよそしい会話しか出来なくて、友香里は一時だが兄を恨んだことがある。新しい中学校生活でどうして同じクラスの男子生徒からこうもよそよそしい態度を取られなければならないのだ、と思って、その理由が兄だと知れれば恨みがましくも思うというものだ。
「部長の妹」
「だから白石って呼べって何べん言うたら分かるのアンタ!」
「日誌、書く暇ないねん。あとよろしゅう」
その日の昼休みに、ひょいっと放られたのは学級日誌だ。2年生ながら部長の座を射止めていた白石の妹であるから、財前は友香里を「部長の妹」と呼んでいた。彼なりの距離の取り方だった。
だが、いつの間にかそのぎこちない距離がかえって二人の心理的な距離を縮めていたのもまたそうだろう。それは友人関係とか恋愛関係とかそういう縮まり方ではない。互いに白石という共通項を持つ人間同士、というひどくぼんやりとしたくくりの距離だった。
もうそろそろそんな関係の距離が一回りしようかという去年の2月のことだった。
「何やねん!今日はウチもはよ帰りたいんや」
「だから今パーッと書けばええやろ」
そう言って、購買で買ったらしいパックジュースを飲んでいる財前をねめつけて、仕方がないから友香里は日誌をぱらぱらとめくる。今は昼休みだが、放課後の掃除のことまで書かなければならないから、日誌を担当したほうは確実に帰るのが遅くなる。今書けなんて彼は言ったが、昼休みのうちに適当を書けばあとから教師に咎められるのは目に見えている。案外厳しい担任なのだ。
「別になんもないやろ。俺部活」
「ハアッ!?アンタだけが忙しい訳と違うわ!今日帰ってからケーキ焼く約束してんのや!」
売り言葉に買い言葉というていの二人に級友はもう慣れたものだ。一年近くも経てばこんなものである。
「なんやそれ、部長が腹下さんよう気ぃつけてほしいわ」
「失っ礼な男やな!」
ちらり、とカレンダーを見て言った財前に、気付いているのかいないのか、と彼女は思う。部長が、と兄のことを言ったのだから気付いているのだろうか、とそれから思った。
「そういうアンタこそ、今日は部活やのうて忙しいんと違うの?」
嫌味を込めて言ってやる。日付は2月14日。バレンタインデーだった。
「さー?俺は部長ほどようモテやせんから」
やっぱり気付いていたんだ、と思って、友香里は妙に冷めた気分になった。チョコレートやお菓子を準備する側の女子にとって、それを男子から言われるのは何となく興醒めだった。愛の告白ならもちろんそうだし、そうでなくとも指摘されてはなんだか自分が滑稽なことをしているような気分になる。
「嫌味な男」
「なんとでも」
*
だから、放課後になって仕方なしに日誌を書いている横で、他のクラスの女子や先輩から囲まれて動くに動けなくなっている財前を見て友香里が思ったのは、なんだかなあ、というどうにもぼんやりしたことだった。
彼が渡されている色とりどりの袋の中身はきっと甘いチョコレートだ。だけれど彼はさっきそれをどうでもいいことのように言っていた。そのことが腹立たしいなんて思いはしない。モテすぎる自分の兄の反応だってこんなものだろう。ただ兄は、お世辞でもなんでも賛辞を並べることが出来るからどこまで行ってもモテるのだろうけど、とシャープペンシルのキャップを唇に軽くあてながら彼女はそれを眺めていた。
「嬉しくないなら、もらわんとええのに」
ぽつん、と友香里は言った。
それは純粋な言葉だった。
「だあれも、楽しくなさそう」
ぼんやりと重ねて言う。自分は純情なのかもしれない、と無理やりなことを思った。だって誰も本気じゃないのがありありと伝わってくる。財前に渡す方はきっととてもたくさんのことを考えているのだろう。だけれど最後は渡せればそれでいいのだ。だから彼がこんなふうにつれない態度でも気にせずみんな渡していく。対する財前も、端から興味もないのだ。でなければあんなことをわざわざ友香里に言うはずがない。だって、普段から告白ばかりされている財前なのだから、もしそういう相手に対する重みがひとかけらでもあれば今日のバレンタインデーのことをからかえやしないだろう。
相互に感情が行き来しないのは、友香里にとって好むものではなかった。
それが仮に駄目だとか、断りだとか、そういう感情であっても、感情は相互に行き来していなければいけないと彼女は思っていた。
多分それが、出来得る限り最大限の優しさだと友香里は思っている。兄を見て育ったからかもしれないし、彼女自身が存外美人だからかもしれなかった。
「優しくないのは嫌い」
ぽつんとまた友香里は言った。別に自分に嫌われたって彼はなんにも気にしやしないのだろうけれど。
早く帰って、ケーキを焼いて、兄を喜ばせたいと思った。
「だって、クーちゃんは喜んでくれるもの」
やっぱりぼんやりした言葉と感情が落ちた。自分が妹でなかったら、兄も財前がするのと同じ態度だったのだろうか、と思ったけれど、自分が白石蔵ノ介の妹ではなかったことなんて人生のうちで一度もなくて、だからそれを想像するのは無理だった。
そうだ。兄でなければ多分自分は白石蔵ノ介という「高嶺の花」にそもそもケーキを作ったりしなかっただろう。
*
そうだ。兄の後輩でなければ多分自分は財前光という「高嶺の花」にそもそもチョコレートを渡したりしなかっただろう。
去年の光景を思い出しながら、去年とは全然違う階層なのに同じことを友香里はぼんやりと考えていた。今年は14日が土曜日で、部活の応援ついでに渡そうというのが紳士協定的に囁かれているのを友香里も知っている。だからテニス部の誰か宛に金曜にチョコレートを持参したのは多分友香里だけだった。テニス部の誰かも何も、全員分が入った大きな袋を廊下のロッカーに詰め込む友香里に、級友は「大変やね」と言った。その大きな百貨店の紙袋にでかでかとマジックで「テニス部用」と書いてあったからだろう。彼女の兄がテニス部の部長だったことはこの学校では有名すぎる話だ。
だから、何の他意もないはずのその紙袋一つを財前に渡すそれだけで、どうしてこんなふうに針の筵に立たされるみたいに一対一で財前と差し向っているのだろう、と放課後にぼんやりと彼女は思った。
「なにこれ」
「やから、クーちゃんが放課後いっつも塾行ってて差し入れ持ってくんの無理やから持たされたん。2月やからどっこもチョコくらいしかよう売ってへんわ」
「そんなん昼休みにでも部長が持ってくりゃええだけの話やろ」
部長、と言ってから、彼は白石さんが、と言い直した。自分が部長だという自覚はあるらしかった。
もうこのようなやり取りが先ほどから続いていて、どうして彼がこんなふうに絡んでくるのか友香里には理解不能だった。そもそも兄のことは関係性が変われば「白石さん」と呼べるくせに、友香里のことは今でも「部長の妹」と呼んでいるのだ。悪意があるのではないか、と思う時もある。
「なんでお前が持ってくるのかって聞いてんねん」
「せやから!」
何度言えばわかるのだろう、と思ったところで、友香里はどんとその紙袋を財前の机の上に置いてしまった。体格のいい生徒から見ると飯事で使うようにも見える学校の机は、その大きな紙袋が置かれればほとんどすべての面積が占領されてしまう。それに驚いたように財前は目を見開いた。
「何が気に喰わんのか知らんけど、アンタはウチに何を期待しとんのや」
「なっ!?」
「ウチは別になんぞあってアンタにチョコ渡してるわけやないわ」
少なくとも、一年、二年と見てきた彼に、周りの女の子たちみたいに純情な気持ちでバレンタインのチョコレートを渡せるなんてことはない。嫌いじゃないんだ。ただ分からない。そでにされるのが決定事項のチョコレートなんて空しいだけだと彼女は思う。
「期待なんぞしとらん」
「じゃあ突っ掛らんでさっさと持っていき」
そう突き放すように言えば、ぎっと睨み返す目があった。それに友香里は一瞬息を呑む。それとほとんど同時に財前はきつい声音で言った。
「お前は部長に頼まれりゃ男に簡単にチョコ渡すんかって聞いてんのや!」
返ってきた言葉に今度は友香里が目を見開く番だった。
「はあ?」
だが目を見開いたと言ったって、直前までにらみつけられていたそれからは予測が不可能な言葉が出てきたものだから、友香里は間抜けな声を出した。教室にはもう二人しか残っていない。財前は財前で、言ってしまってからしまったとでも言うように視線を外した。
「そんなん違うに決まっとるやろ。頼まれたって知りもしないやつになんぞよう渡せんわ」
当たり前すぎることを友香里は言った。それは当たり前のことなのに、どうしてそんなことを問い質すのだろう、と思いながら。
当たり前すぎる、と財前も知っている。知っていたのに彼は聞かずにいられない自分の中の感情を知っていた。
「じゃあ俺は知ってるやつか」
「そらそうやろ。二年も同じクラスで、クーちゃんの後輩で」
「もうそういうくくりでええわ、今は」
最後に小さく付け足された「今は」という言葉の真意を質そうと友香里が口を開く前に、財前はサッとその袋を取った。ガサッと音を立てて、彼は中身を改める。
「うーわ、これ白石さんやのうてお前が買ったやろ」
「なに?」
「めっちゃ少女趣味。男子に渡すもんと違うわ」
もう先ほどまでのことが全然なかったことみたいに彼は言った。その言葉に反駁する前に、財前はサッと身をひるがえして教室の出入り口の方に歩いて行ってしまう。
「これじゃあ、誰もよう勘違いできんわ」
俺もな、と彼女に聞こえないように小さく付け足して、彼は友香里の悪口雑言を後目に廊下に出た。だが怒りに任せたって彼女は追ってはこない。白石友香里はいつもそうだ、と何故か彼は思った。
どんなに釣り針を垂らしても、その先にどんなに魅力的な餌を付けても、その釣り針を追ってはこない。
自分が何度彼女の前で告白されても、好意を示されても、それで自分が女子に人気のある顔立ちをしているのだと認識できても、それでも彼女だけは追ってこない。
そのことがひどく心地よい。
「いくら払えばええんですかね」
昇降口で、本当に追ってきやしない友香里がまだいるかもしれない上の階をふり仰いでポツリと言う。
取り出したサイレントモードのスマートフォンが着信を知らせて、財前はその差出人の名前に大きく舌を打った。
『パーフェクトフライングバレンタイン』
そうだけ書かれた元部長からのメールに、なんて返信してやろうかと思いながら彼はテニスコートに向けて歩き出す。
雑誌に載っている女性よりも、高級ブランドのチョコをくれる先輩よりも、ずっと愛らしいとその元部長の妹を見ていることなんて、多分本人以外にはバレバレなんだと思ったら、どうにも癪だった。
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フライングというかそんなバレンタイン
喧嘩ップル。
2015/02/09