「で、どこから聞いてたの?」

石田の前に茶碗を差し出して、伊武が言った。

「お、サンキュ。…お前が橘さんの『お小言』を杏ちゃんに言った辺りから」
「じゃ、ほとんど聞いてたんじゃねーの。橘さんもちょっと性格悪いな」

 神尾のセリフに石田は苦笑して首を振る。

「橘さんも気になってたんだよ、最近杏ちゃん無理してたから」
「やっぱり気になるよなぁ。橘さんが忙しくなるに連れて仕事増やしてたんだもん。誰かさんみたいに『一緒に出かける機会が増える』なんて言ってたのとは違うよなぁ」
「深司!!」
「ホントのことだろ?」

 掴みかかった神尾の手を面倒そうに払いのけて伊武は溜め息をつく。

「橘さんも今晩で一段落?そろそろ杏ちゃんもマズいと思うんだけど」
「まあな。今日は橘さん、杏ちゃんが心配で切り上げてこっちに来たくらいだから。今日で終了だろうな。桜井たちが持ってきた情報も引っかかってるみたいだし」

 暫し無言で伊武の淹れた烏龍茶を啜る。

「今晩は橘さんが付いてるから大丈夫だよな。昨日は俺が寝かしつけた。」

 カチャカチャと音を立てて茶器を片付けながら伊武が呟いた。

「役得じゃん!!」

 パンッと卓を叩いた神尾を伊武はギッと睨み付けて立ち上がった。

「役得?お前やっぱりバカなんだね。神尾は杏ちゃん寝かしつけたことないからそんなこと言えるんだよ。どれだけ痛々しい状況かなんて知らないだろ?本当に見ていられない、辛すぎて。ていうか今日一日ついてて気づかなかったわけ?」

 一気にまくし立てると、神尾はぐっと拳を握る。今日一日で気がつかなかった訳ではない。朝からどこか様子がおかしいのにも気づいていた。だがそれを指摘しないのが神尾の優しさでもあった。

「深司、そのくらいにしておけよ。アキラだって昨日の夜、一ヶ月ぶりに香港に戻ったんだ。杏ちゃんと出かければ浮かれもするさ」

 石田がやんわりそう言うと、伊武は気勢を殺がれた様に椅子に座り直した。

「うなされてた、昨日。寝てからも杏ちゃんの部屋で仕事してたんだけど、ずっと苦しそうな顔して名前を呼んでた」
「橘さんのか?」

 そう問いかけた神尾に頭を振って俯く。

「知らない奴の名前。少なくともうちのファミリーにはいない」

 伊武はそう言って席を立った。

「俺、もう寝る。片付けはやっといて」




「杏ちゃん、まだ起きてるの?」
「深司くん?」
「入るよ」

 錠が開いていることは分かっていた。杏が自室の錠前を掛けていることは滅多にない。不用心だと思うのだが、こういう時は都合がいい。
  扉を開けることで、一条の光が薄暗い廊下に伸びた。

「今日の報告書がまだ出来なくって」

 舌を出して笑って見せたが、腕は机の上の書類に覆い被さるように置かれている。隙間から見えるびっしりと書き込まれた文字。報告書が出来ていないなどウソに決まっている。

「そんなもの、書かなくてもいいからもう寝よう?」

 優しく手を引いて寝台に座らせる。

「書いたってどうせ、見る人がいないものね」

 そう言って乾いた笑いを漏らした杏に、やはり来て正解だったと思う。
 ここ一週間、つまりは橘が戻らなくなってから、杏の様子がおかしかった。毎日毎日別の仕事が入るとの連絡が来て、とうとう一週間、この邸宅では橘の顔を見ていない。
 そして今日。護衛としてついて行った時に覚えた杏に対する違和感。その違和感が拭いきれなくて、杏の部屋に久しぶりに足を踏み入れた。案の定杏は壊れかけていた。

「橘さんも忙しいから」

 言葉少なに言うと、はらはらと泣き出す。

「杏ちゃん?」

 軽く髪を撫でるが。杏は一向に泣き止まず、肩にしなだれかかってきた。

「兄さんは、また私を置いていくのかしら?」

 一週間くらいで大袈裟な、と思うが、杏はいつもそうだった。予定無く橘が姿を消すと決まって眠れなくなる。その理由は知らない。

「橘さんは俺たちを置いていったりしないよ」

 髪を撫でながら言うが、杏は肩口に額を押し当てて頭を振る。

「嘘。兄さんはいつだって簡単に私を置いていく。今回だってそう。何の連絡もくれないでどこかに行ってしまった」
「今日は上海だよ。大丈夫、俺は橘さんがどこにいるか分かってるから。明日にはきっと帰ってくる」

 優しく言うが、杏は泣き止まない。その泣き顔があまりにも痛々しくて、思わず目を背けた。

「嘘、嘘、嘘!!兄さんはまた私を置いていくの。簡単に置いていってしまうの!!」

 ああ、まただ、と歯噛みする。彼女の口から出てくる『また』だとか『いつだって』という言葉。その意味がいつも解らない。

「橘さんはそんなことしない。大丈夫だからもう寝よう?」

 そう言っても杏は首を振り続ける。仕方がないのでポケットから錠剤を取り出した。寝台の脇に置かれたコップから水を含み,橘への恨み言を言い続ける杏に口付ける。

「ん……は」

 嗚咽と混じって聞こえる悲しく苦しげな息づかい。杏が錠剤を飲み下したのを確認して、しかし口付けは止めない。長い長い口付け。五分程経っただろうか。急に唇が離れ、体に重みが掛かる。

「検査薬…こんなもの飲まないと寝られないなんてな」

 杏に飲ませたのは脳波などを測定するため、患者を無理矢理眠らせる、通常の睡眠薬より遥かに強い薬だった。
 力の抜けた体を寝台に横たえる。

「お休み」

 静かな寝息に少しだけ安心して部屋から出た。


 安心したが、今晩は付いていようと思い、一旦自室に戻ってノートパソコンといくつか書類を抱える。

「橘さんも連絡くらいしたらいいのになぁ…まあどうせ忙殺されてるんだろうけど」

 ブツブツ言いながら杏の部屋の前まで来て、扉を開けると、幽かな声が聞こえた。

「…せ…さん…いかない…で」

あの薬を飲んだのにうなされるなんて―

 半ば呆然として寝台に駆け寄る。

「杏ちゃん?」

 小さく名を呼ぶが、反応はない。ただ覗き込んだ顔が苦しげに歪んでいた。

「ちと…せ…さん…置いて…いかない…で」

 ちとせ―千歳などという名の持ち主はファミリーの中にはいなかったはずだ。

「千歳…さん」

 今度はもっとはっきりと杏はその名を呼んだ。

「いかない…で」

 あまりに悲痛な叫びに思わず手を握る。

「大丈夫。俺はどこにも行かないよ。」

 彼女が求めているものが、これではないと分かっていたが、強く強く手を握った。




「おはよう。早いね」
「おはよー…!!深司くん!?」

 ずいぶんびっくりした様で杏は上掛けをぎゅっと握る。

「やっ…ちゃった…?」

 苦笑して頷く伊武に杏はうわあと声を上げた。

「ごめんね、やっぱり覚えてないや…」
「気にしなくていいよ。」

 杏は大抵、荒れてしまった夜のことを忘れてしまう。それは飲まされる薬の強すぎる副作用と杏自身の自己防衛がそうさせるのだろう。

(覚えてられたらヤバいんだけどね)

  伊武は心中独りごちてノートパソコンを畳む。時刻は早朝五時。あの薬を飲んでこんなに早く目が覚めるというのは少し異常だ。

「いつもいつもごめんなさい」
「気にしなくていいって。久しぶりだったね」

 書類をまとめながら微笑む伊武に、杏は更に申し訳ない気持ちでいっぱいになり寝台から降りた。

「眠れないな、って思って報告書書いてたのは覚えてるんだけど…」
「無理に思い出さなくていいよ。それより疲れてない?少しうなされてたみたいだから」
「え…あー…うん。大丈夫だよ」

 言いよどんだ杏に伊武はズキと胸の痛みを覚えた。

(大丈夫なわけ、ない)

あんなにうなされていたのだからー

「深司くん?」
「あ、ごめん、何でもない。杏ちゃん今日休みでしょ?俺もアキラも休みだしどっか行こうか?」

 気を取り直してそう言うと杏は少しだけ顔を歪めて、息をついた。

「それなんだけどね、今日もパーティーに行きたいんだけど、ダメ?」
「…!!だって昨日も!」
「うん、徹夜させちゃったし深司くんは休んでて。昨日アキラくん戻ってきたでしょ?アキラくんと行くから」

 言い切った杏に、伊武は言い縋る言葉を持たなかった。こういう状態の彼女は、何を言っても聞かない。

「どこのパーティー?」
「キャリス家のお嬢様主催。香港に来てるの。顔見知りだから挨拶がてら、ね。イギリスの販路拡大には重要だから。アキラくんには私から後で言っておく。朝ご飯食べたらすぐ出かけるね。あ、ご飯は私が作るから」
「…分かった。無理はしないでね。」
 うん、といつもの笑顔で頷いた杏に軽く手を振って彼女の部屋を後にする。そこから自室までの廊下が、伊武には永遠の如く感じられた。




 部屋の扉を閉めて素早く錠を下ろす。そのままズルズルと壁にもたれかかった。
 無意識のうちに指が唇をなぞる。甘さの欠片もない、深い深い口付け。唯一リアルな彼女の唇と舌の感触だけが彼を支配していた。

「あーあ、バカみたい…」

 呟いて顔を覆う。涙など出やしないが、そのまま深く俯いた。
 伊武は時折、杏もあの口付けを覚えていればいいのに、と意味もなく思うことがある。実際は覚えていられても困るだけなのだからお笑いだ。しかしいつもいつもあのことを忘れてしまう杏が恨めしくもあった。

あの熱を共有することが、自分に許されるのか―

 無意味な問が首を擡げてみるみるうちに伊武を縛り付ける。

「こんなにも、好きなのに―」

 こんなにも、好きなのに、何の感情も伴わない深い口付けを出来るようになったのはいつからだろう?

 残るのは感触と熱だけ。どちらも時間が経つにつれ消えていく。言いようのない虚しさに襲われて、肩を抱く。もう何度目か知れないのにかたかたと体が震えるのが判って少しだけ安心した。

「俺もまだ、人間だな」

 消え入る様に呟いて携帯を開きボタンを押す。

「俺。橘さんに繋いで……は?いいから繋げよ、無能なのは神尾だけで充分なんだよな……使えないな。もういいよ」

 電源ボタンを連打して一方的に通話を切る。新たな番号を打ち込んでもう一度携帯を耳に当てた。

「…石田?橘さんに伝えて。俺じゃもう手に負えない…うん…今日もキャリス家のパーティー。昨日も一昨日もその前も。ああ、もうやんなるな…うん、頼む」

 今度は静かに通話を切って、息を整える。ノートパソコンと書類を仕事机に放って、寝台に身を投げ出した。
 ごろんと寝返りを打ち、ふと思い出す。

「ちとせ…千歳かぁ…気に入らないなぁ、俺の知らないところで」

 ぼそぼそとぼやきながらまた携帯をいじる。

「森、起きてた?…お前今本部だろ?…あのさあ、本部のアーカイブ解凍して欲しいんだけど…すぐにだよ、使えないのは神尾だけで充分だっていつも言ってるだろ?…うん…Ce-0を全部。俺のパソコンに送って…別に…うるさいなあ、細かいことはいいから解凍して送って…うん…頼んだ」

 通話が途切れると部屋にまた静寂が訪れた。


scar―キズアト




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一応、主張しておくと、千歳←杏でも千歳杏でもないです。時系列が微妙に分かりにくいですが、杏ちゃんと伊武のやりとりは、桔平が帰ってくる一日前〜帰ってきた日です。
このシリーズも後一話です(多分)

2011/7/5