「アキラ、着替えないのか?動きにくそうだぞ」
「あー…これ?まあいいだろ」
石田の言葉を軽く受け流して、神尾は主を失った長椅子の半分に身を投げ出した。
「今日の朝方、深司から電話きてさ、もう杏ちゃん限界だから戻ってきてくれって言われた」
「……」
「深司が…泣いてた気がした」
「……いつもの事だろ」
言葉少なに答えて目を閉じる。浮かんだのは朝の彼の姿。
『杏ちゃんに何かあったら絶対に許さないから』
いつもとは違うトーンの声。必死の形相は、しかし泣き顔にも見えた。
神尾の腕がだらんと垂らされ、所在無さげに空を掻く。
「…あいつはいつもそうだ。杏ちゃんに何かあると泣きそうな顔する」
気怠げに伸ばされた腕が杏の気に入っている茶壷に届いた。滑らかな表面を武骨な指が撫でる。それは伊武が北京の外れの市で手に入れてきた年代物だった。
「深司も好きだからなあ」
相好を崩して言った石田をちらりと横目で見やって神尾は蓋を玩ぶ。カチャカチャと不穏な音がした。
「…アキラは今、この紫砂茶壷を割ってやりたいと思ってる」
「よく分かったな。粉々にしてやりたいさ」
「やるなよ」
「やらねーよ。やったら杏ちゃん、怒るだろ?」
笑って言うと、神尾は蓋を元に戻した。そしてまた、所在無さげに腕が空を掻く。
「深司も、毎度毎度辛いだろうな」
ぽつりと呟く様に言った神尾に石田は驚愕の色を浮かべた。
「珍しいな、お前が深司の肩を持つなんて」
今だって、杏の寵愛を受けるこの紫砂茶壷を割ろうとしていたくせに。そんな神尾が伊武の肩を持つのはとても珍しい事だった。
「どういう風の吹き回しだ?」
「別に。今日は杏ちゃんも朝から泣きそうな顔してたし…」
歯切れ悪く言った言葉に杏の硝子の様な笑顔を思い出し、石田も口を噤む。彼女は限界が近づくと笑った。どうしようもなく明るく笑った。大抵の相手は騙されるが、その笑顔の下の悲壮感に気づかない者は不動峰の幹部にはいない。その中でも、一番敏感なのが神尾としては不本意だが、伊武だった。
「敏感過ぎるのも、考え物だよなあ」
またぽつりと言って神尾は目を閉じる。
「でもその敏感さに助けられてるだろ、俺たちは。深司が気づかなきゃ、橘さんはまだどこかにいたかも知れない」
「それはないな」
石田の言葉を遮る様に、神尾は間髪入れず言った。
「それは、ない。橘さんは今日には戻ってきた。これは絶対だ」
あまりにもはっきりと言うので、石田は首を傾げた。
「絶対ってお前…」
釈然としない表情の石田をよそに、神尾は寝そべったまま煙草盆から煙管を取り出して、火皿を石田に向けた。
「火、持ってねえ?」
「なんだよ、お前変だぞ?」
そんな事を言いつつ、スーツの内ポケットを探る。見つけたマッチで煙草に火を付けてやった。
煙が流れた。それを追いかける様に神尾も紫煙を吐き出す。それを何度か繰り返す間だけ、沈黙が訪れた。
カンッと軽い音を立てて雁首を叩きつける。部屋に充満した煙を逃がそうと窓辺に向かった石田の背中に、神尾はあっけらかんと言い放つ。
「やっぱり不味いな」
「ならやめろって何回も言ってるだろ」
呆れ果てて窓を開けると煙が一斉に外へと向かう。
石田の言葉には答えずに神尾はまた腕を垂らし目を閉じた。
「橘さんと杏ちゃんのことは、俺たちも知らないことがある…むしろ知らないことの方が多いくらいだ」
呟かれたそれに、石田は思わず言葉を失った。神尾の言うことは正しい。確かに自分たちを泥沼から救い出してくれたのは橘だが、その橘の、そして妹の杏の過去を知る者はいない。
「誰も彼も何か一物抱えてんだよ…深司もな」
意味深なことを言って神尾は立ち上がった。
「俺も寝る。片付けよろしく」
消える背中に石田は立ち尽くすしかなかった。
scar―キズアト
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深司がいなくなってからの二人。
ずいぶんかかりましたが、とりあえずこれにてscarは終了です。
2011/10/7